1ー4 人の夢
彼は薄暗い人工物の中にいた。もう一つ気配があり、それに向かって彼は話しかけた。
「母さん」
返事はない。
「ご飯にするよ、お茶は要る?」
母さんと呼ばれた生き物はこちらを見ずに何かもぞもぞと動いていた。
「お金がないんだよ。ここに入れておいたはずなのに。」
これはさして大事件ということでもない。毎日のことだ。
「じゃあ一緒に探すよ。この辺りにしまったの?お財布に入れておかなかったの?」
母さんはこちらをジッと見ながら答えた。
「財布に入れて置くとなくなるからね。」
小さく感じ取れる悪意に気にした様子も見せず、小箱や引き出しを探り続ける。
ふと手が止まり、小さな紙切れに包まれた小銭を見つけた。
「母さんこれは?」
やっと母さんから悪意を感じなくなり、そのしわがれた手に乗せてやった。
「良かったね、小さいからきっと紛れてしまったんだよ。じゃあご飯にしようか、お茶は要る?」
カタカタとテーブルに大小様々な器が並べられた。器には様々な料理が盛り付けてある。華やかさは無いが、質実剛健な食事。歯が弱い母に合わせて柔らかく、また母の病気に良いとされているものを多く使った料理が並んだ。
「お茶は熱いから気をつけて」
食事の間中、彼は途切れることなく話し続けていた。天気のこと、外で飼っている犬の様子、町での噂話など。母親も機嫌よく聞いていた。細かに相槌を打ち、そうだねえ、天気が良くなったら行ってみようか、などと朗らかに会話をしていた。
母親の機嫌はコロコロと変わる。
それは数年前、父親が急死した直後からだ。父に病が見つかったときにはもう手遅れだった。痛みや苦しみを表に出すことを恥と感じていた父親らしい経過だと思う。
家長として家の全てを仕切っていた父親が居なくなると、母親はただ、何の感情もなく、じっと座って過ごすことが多くなった。
いくつかの家事は母親もやってはいたが、足が悪いのでもっぱら家の内側でできる調理などに限られ、掃除や洗濯などは彼がやっていた。しばらく任せていた調理も、鍋を火にかけっぱなしにしたり、食事を取った直後にまた食事を作ったりすることがあった為やめてもらうことにした。
ただ、やめろと言って聞くわけでも無いので、一日中話しかけ、無理のない理由をつけて食事の準備を自分と代わってもらい、暇といえば母親の好きそうな本を町で買って来たり、小さな工作のセットを買って来ては二人で作ったりと、気を配りつつ見守っていた。
彼はあまり能力のある方ではなかったので、外に働きには行けなかった。いや、行けたかもしれないが、兄が結婚し、仕事のために家を出た後、母親を一人残して出ることができなかったのだ。
一日中目を離せない、自分の部屋で休んでいるときでさえ、小さな物音に反応して何があったか確認しなければならない。母親がベッドから落ちて動けなくなっていたり、トイレで失敗していることは何度もあったからだ。
そして父親と同じように極力助けを求めない事も知っていたからだ。世の中の多くの子供と同じように、彼も母親を愛していたので、決してそれは苦ではなかった。
そんな母親も元気だった時と同じように話せる時がある。それは兄ーー母から見て長男ーーが訪ねて来たときなどがそうだ。
ぼんやりと感情が薄まったような表情は消えて、よく来たよく来たと終始ご機嫌で話し出す。
ひとしきり歓迎を表して機嫌よく会話をした後に、ぽろぽろと不満を漏らすことがある。ご飯を食べさせてもらえない、辛いものを無理やり食べさせられる、自分の物が盗まれている、ずっと一人で放っておかれていて寂しいなど。
彼が否定しても構わず、今日も朝から何も食べていないと母親は兄に泣きついた。兄はふっと台所を見て昼に作った汁物の鍋がまだ暖かいことを確認し、二人分の食器を洗った後を見ると、彼に向かって「わかっている」と頷いた。
兄が見ていてくれる間、彼は部屋で一人、読みかけの本を読んだり絵を描いたりして、安心して自分の時間を過ごせる。椅子に座って大きく息を吐き、こらえた涙がふっとにじむ。
母親はこれ以上良くならない。
彼の事も時々しか思い出されず、毎日毎日不審なものを見る目で見られ、泥棒と疑われる。
絵を描く仕事も諦めた。恋人も結婚は難しいと去って行った。僅かな友人たちとも、家を空けることはできないと付き合いを絶って行った。
始めのうちは年に数回程兄との都合をつけて、遊びに出かけることはあったが、こちらから誘う事もできないため、やがて友人たちも彼を誘うことは無くなって行った。生きることにまるで楽しみを見出せない彼が、投げ出さず生きているのは、かつて愛していた母親のため、それだけだ。
兄の協力もあって、母親の介護は順調のように見えたが、ある時病いに倒れた母親は、寄る年波もあってあっという間にこの世を去ってしまった。
これから二人力を合わせて介護を頑張るつもりでいた兄は悲しみに暮れ、彼は突然の終わりに気持ちの整理がつかないでいた。
葬式は兄や親戚の力でなんとか済ませることができた。彼自身はここ数年人付き合いを絶ってきたが、そこは長男に任せていいだろう。喪主のサポートに徹して細かな仕事に専念することにした。気も紛れるし辛いことを考えなくて済む。
弔問客がひと段落つく頃、列席者への食事の振る舞いもここまでと言うことで、自分も残り物で食事を取ることにした。
兄は向こうで訪れた親戚達に酒を注ぎながら思い出話に聞き入っている。
助かるなあ、自分にはそこにいる親戚がどこの誰かも見分けがつかないのだ。名前もわからないから当然話も続けられない。自分と話したがる親戚もいないと思うし、人当たりの柔らかい兄が全て受けもってくれて本当にありがたい。
空いたテーブルについて彼は味のしない夕食を食べ始めた。
すると、親戚の一人が目の前に座った。
「おい」
父方の親戚の一人で、温厚そうな見た目の中年男性だが、何故か顔を合わせれば嫌味ばかりを言う叔父だ。酒臭い息をこちらに吹き付けながら喋り始めた。
「お前のせいで母さんは死んだんだぞ」
突然口の中の食べ物が飲み込めない何かに変わった。
何を言っているのかわからない。他の親戚に比べて近くに住んでいるわりには、父親の葬儀以来顔を出した事もない叔父が何かを言っている。
「お前が苦労をかけるから母さんは体を壊したんだぞ」
それは、わかる。自分は出来が良くないから、普通の人が普通にできることが苦手だから、母さんは大変だったと思う。
「いい歳していつまで親のスネ齧ってるつもりだ?おまえが…」
葬儀が終わった後も会場は一晩中灯りを絶やすことはないはずなのに、目の前が暗くなっていく。
身体中の血が手足から退いて、指先の感覚がなくなっていく。火を焚いた祭壇があるにもかかわらず会場は寒く、彼は動くことができない。
どれだけの時間が立ったのかはわからない。
永遠に続くかと思われた時間はやがて、言いたいことを言ってやったと思った叔父が満足そうに別の親戚と話すために別のテーブルへと去ったことで終わった。
母が息を引き取ってから、忙しく立ち働く兄を支えるために、ずっとこらえていた涙が溢れ出してはこぼれ落ちた。
葬儀が終わって親戚達もそれぞれの家に戻り、平穏な日常であるべき日々が戻って来た。後片付けや何やらを仕切ってくれた兄も街の自宅に戻って行った。
これから一人で暮らしていくのだから、大きな家や不要な物は売ってしまおう。
小さく暮らして、自分にもできる仕事を探そう。
結婚するにはもう遅すぎる歳だけど、もう一度友人を作ろう。
街で一人で暮らす兄が、一緒に住んでいいと言ってくれた。彼は身の回りの物をまとめ、旅立つことにした。
彼の住む山の麓の村から兄のいる大きな街に出る時、多くの人は山の裾野の森を大きく避けて行く。
森は広く深く、方角を惑わせる魔法がかかっているとか、人を好んで食べる魔物が住んでいるとか、恐ろしい噂が後をたたないからだ。
だが、森に入り、山を少し登るルートだととても近道になるという噂も聞いた。登りと下りで多少疲れはするが、距離は断然短くて済むと言う話だ。
彼はあまり外を知らなかったから、単純に近道の方が楽じゃない?と考えた。手にした杖に熊除けと言われる鈴をつけ、森の端の方を少しだけ横切り、山道を登って行った。
熊は出なかったし、山道は意外と障害物もなく、木が少ない分見晴らしも良い。
遠く海沿いの大きな街が遠く微かに見え、希望あふれるゴールに向かって自分のペースで歩いて行った。
だが、思っていたほど行程は進まなかった。
街の姿はいつまでたっても近くならず、この分だともう一度森に入る頃に日がくれる。
森の中で野宿になるのは想定していなかった。
心持ち足は速くなり、ひたすら距離を稼ぐことに集中した。だから、辺りに気を配ってはいなかったのだ。
突然暗闇が彼を一息に飲み込んだ時も。
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とても悲しい夢から覚め、彼は深い深いため息をついた。
自分が食べてしまったのは辛い生活からやっと解き放たれ、希望を持って旅に出た人間の未来だと嫌でも思い知った。
あの人間は自分で選択した人生に納得し、それなりに正しく生きていた。そして悲しみを乗り越えて、やっと自分の人生を歩もうとしていたところだったのだ。
自分に出会ってしまったのは不幸だったと思う。
だが、食べ物でしかなかった他の生き物達が、こんなにも深く考え、他者の気持ちに寄り添い、関係性を持ちながら生きているとは考えもしなかった。
思えば獣の親子も、子供を守るために自分に立ち向かって来たのだろうか。
それらをいとも簡単に食らっておきながら、進化に失敗しただとか後悔していた自分が、なんだかひどくすまない気持ちになって来た。自分は空腹で死ぬことはないんだから、あまり不必要に食べるのはもうやめよう。
だが、その後悔は少し遅かったのだ。
鬱展開でごめんなさい。ハッピーエンドを目指します。