1ー3 進化
段差まで降りて見ると、崖は左右に分かれた岩が押し合ったような形でできていた。
巨大な岩が海に向かって崩れて段差になり、その隙間を埋めるように左右から押し合わせたような感じで、高さがある洞窟が崖の奥に向かって続いていた。
洞窟も見たいが、まずは海だ。
ときどき段差の縁で波が打ち上がる。
なぜこの水は揺れているのか。
揺れている様をもっとよく見ようと近づいて行くと、突然激しく打ち上げられた水に、顔を濡らしてしまった。冷たい、しょっぱい。
思いがけず手荒い歓迎を受けてしまったが、この程度の攻撃など痛くもかゆくも無い。
日差しを受けてキラキラと輝く水の中には、森にはいない優雅な姿の生き物や、何がどうしてどうなっているのかさっぱりわからない生き物がたくさんいるようだ。
深い、遠くの海の光も届かない奥底の方にはきっと森の暗がりに身を潜めているような生き物もいるのだろう。
そして遠く、海の遥か先はどうなっているのだろう。森のようにふっと途切れてその先にまだ見ぬ世界が広がっているのだろうか。いつか自分も行けるだろうか?
ひとしきり水辺で遊んでから、洞窟まで戻って来た。
手を合わせたような形の岩の隙間は、幅は十分、前のように十倍に成長しても余裕があるくらいに広く、高さはもっとあるように見える。
当分はここをねぐらにしていいだろう。あとは奥がどうなっているのか、ひんやりとした岩の段差を進んで見ることにした。
その時壁際で何かが動いた。いや、壁全体が動いた?
突然小さく甲高い音で辺りが埋め尽くされた。
小さな空を飛ぶ生き物が彼のすぐ傍をすり抜けて、一斉に外に飛び出していったのだ。
彼も外に飛び出してそれらの動きを目で追った。
小さな生き物達はまるで黒い靄のように集団を保ったまま空へ飛び出し、一旦は岩壁に付いたり、また飛んだりと迷うように手の届かない高さを飛び回っているようだ。
彼は洞窟を離れて、段差のきわからじっとそれらを観察した。
間も無く落ち着きを取り戻した集団は、ふたたび洞窟の壁や天井に取り付き、もぞもぞと静けさを取り戻そうとしていた。
彼はじっとそれらの一匹を見つめていた。
もぞもぞと動くそれらは薄皮のような翼を持ち、それで飛翔能力を得ているようだ。
他の体の部分は決して強そうでもないが、飛行。すごく羨ましい。
彼はいつか見た青い夢を思い出していた。青い世界を踊るように飛び回る白い生き物の姿。本当の自由というものを体現したようにひらひらと。
食べなくてはならないという欲求とはまた別に、空を飛びたいという強い気持ちが彼の心の中を占めた。
彼は洞窟の入り口に立ち、安全なねぐらに戻ってホッと安らいでいた小さな生き物達を全て飲み込んだ。
ーーーーー
見たこともない生き物がそばにいた。
まだ出会っていない生き物なのは間違いない。
歌なのか鳴き声なのか、今の彼には理解できない音が流れてくる。
うるさいとは感じない。
キラキラとした瞳には知性をたたえており、それは彼と同じ思考する者の目であった。
そわそわとその目が自分から離れると寂しくなり、こちらを向くと嬉しくなる。
不思議とくすぐったいような気持ちでそれを見ていた。
この生き物を食べればもしくは彼の考える力が強まるのかもしれない。
けれどそうしたら自分の目がどんなに美しく輝こうと自分で見ることはできなくなってしまう。
そう思うとずっと、ただじっと、それを見つめていられる自分は幸せなんだと思った。
ーーーーー
いつものように唐突に幸せな夢は醒め、現実は洞窟の中で寂しくうずくまる自分の姿。
見おろすと、前足の下に翼のような薄膜が長く伸びていた。
僅かに残っている壁際の小さな生き物を改めて観察して見ると、翼と思ったものは前足が変形したもので、確かに同じような造りになっているようだ。
これを羽ばたかせて飛べば良いのだな。
早速試すために洞窟から出る。
翼が邪魔で四つ足では非常に歩きにくい。少し肘を外側に曲げるようにして翼が後ろ足に引っかからないようにする。
だが今度は上半身が低くなるし左右の壁に支え骨が当たると痛い。
慣れの問題か、工夫が必要か、あるいは進化が必要かはわからないが、とりあえず後回しにして今は翼を試したい気持ちでいっぱいだ。
いそいそと岩場に出て、上半身を持ち上げ、翼を広げて見る。
前足から伸びる細い支え骨も伸ばすと、結構な大きさであった。
二、三度はばたきを真似てバサバサと動かして見るが、意外な事に全然飛べる気がしない。
翼全体を使って思いっきり羽ばたきを真似た動きを繰り返して見るが、べったりと地に着いた下半身に太く重たい重心があって、全く浮かび上がる気配がない。
あまりのショックにそのまま洞窟に戻り、小さく丸まろうとした。
それすらも翼が邪魔で出来ない。
目覚めたばかりでふて寝することもできない。
頭の中はぐるぐると暗い考えでいっぱいになっていた。
同じように羽根があれば飛べると思っていたのに彼らと何が違う?長い尻尾や太い脚のせい?体の半分以上を切り捨てるわけにもいかない。
もしかして自分は飛べないのか。
今まで自分が選んできた進化は失敗だったのか?
初めての挫折に思考がむしろ追いつかないほどに混乱していた。
黒いドロドロから手足が生えた時だって、こんなに苦労せずスムーズに走り出すことができたのに、なぜ今になって手足がうまく捌けないような事になっている?
例えば順番を間違えて、何か必要な要素を取り忘れたまま翼を得てしまったのか?
でも、小鳥をもっと捕まえるというのはあの時点では無理だった。
飛べない段階で、小さな飛べる生き物達を捕まえることは不可能ではないのか?
あの一羽が偶々自分を餌と見なして降りてきたから摂取できただけ。
ならば詰んでいたじゃないか…。
ついには生まれてこなければよかったとまで絶望に苛まれ、進化の犠牲になった生き物達に謝罪し、思考がドン底まで落ちこんだ。
悲しみと後悔に苛まれてぐるぐると思考を巡らす間に陽は何度か暮れて上ることを繰り返し、ようやっと混乱状態はおさまり、落ち着きを取り戻した。
食料となった命を無駄にしないためにも、これからどうするのかを考えよう。
本当は飛べる体が欲しかったが、そうでなければいけないわけではない。
白い生き物のように自由に空を飛ぶ体は最終目標でいいじゃないか。
焦ることなどない。近道に失敗しただけ、戻ってやり直せばいいだけの話だ。
気を取り直して、海を見に行く事にした。
水辺はキラキラと、彼の気も知らずに楽しげに揺れている。
段差から砂浜に降りると不思議な感触がする。波に合わせて足底の砂も揺れ、まるではるか沖にいる何かが誘っているようだ。
遠くまで目を凝らして見るが、何もない。
何もいないのに決まったリズムで波が立ち上がり、ゆっくりとこちらへ寄せている。
見ている分には全然飽きることはない。
どこからともなくやってくる波に小さく体を揺らしながら、暗い気分は少しだけ慰められ、彼はいつまでも海を見つめていた。
急に辺りが暗くなった。陽が島の反対側に落ちる時間になったのだ。
夜の気配に包まれる海も美しいが、ひんやりとした海から吹く風が強くなってきたので一旦洞窟に下がる事にした。
ふと崖を見上げると、結構な高さがあると思う。
降りた時は落ちるつもりで来たが、今このようなしがみつく力もない細い前脚では上りはきつそうだ。
その時、強い風が彼の体を押し退けた。
洞窟に向かっていた彼の体を意図しない方へと吹き付ける。
翼が風を受けてしまい、思うように進めない。
海から来る風は岩場にぶつかって崖を登るように吹き上げて来る。
一つの考えが浮かび、咄嗟に彼は振り返り、風を受けるように翼を広げて見た。
少し待ち、次の風は彼の体を崖に沿って吹き上げられた。
途中で風の勢いは尽き、ズルズルと崖を滑り降りて行く。
壁を背に翼を大きく広げて風を待った。
まだ弱い。まだ…まだ…これはどうだ?崖を吹き上げようとする風を翼一杯に受けて後ろ足だけで飛び上がる。
彼の体は一気に持ち上げられ、洞窟の天井をはるかに超える高さまで上がっていった。
いける。
自由になった後ろ足で崖を蹴ると、まだ風は彼を持ち上げ続けている。
やった!
一旦は風が収まっても、崖の近くであれば落ちきる前に再び風を受けることができた。
これはかなり飛んでいると言えるよね?
フワフワと浮いたり落ちたりを繰り返していた。
だが、翼と一体化した前足が疲れて痛い。
他の生き物達のように羽ばたいてもっと風を掴まなければならないとは思うのだが、風を受けてからずっと、関節に逆らって翼を体の後ろに押しやろうとする力に抵抗し続けていて、胸のあたりも引き攣れたように痛くてたまらない。
少しずつ腕を縮め、受ける風を少なくしながらズルズルと崖を滑り落ち、足が岩場についた時にはためていた息をゆっくりしみじみと吐き出して、今の小さな飛行体験をゆっくりと思い出し、味わっていた。
洞窟の中で翼を休めながら考えたことは、この体で飛行するには風と練習が必要だということだった。
もちろん違う生き物から進化を受け取って作り変えることも出来るだろうが、どの生き物を食べれば望んだ変化が得られるのかという道筋が全くわからない。
今のこの体で飛べる可能性があるならそれを試そう。
ダメならそれから進化を考えればいい。自由に使える時間はいくらでもあるのだから。
外に出て風を感じて見る。
今はそよ風のような弱い風が海から吹いている。
多少のズレはありながらも風の向きは大体崖に向かう物のみのようだ。
風が見えたら楽なのにな、という考えもよぎったが、視覚に頼っていたら夜は飛びにくいと思いなおし、体全体で風の感覚をつかむようにする。
翼を広げ、あまり感覚がはっきりしない支え骨の間の皮膜に、今の弱い風を受けて見る。
前足を強く伸ばしていると、翼の先端の方も良くわかる。
だが翼の中程からわき腹のあたりにかけては、風を受ける感覚よりも広げた翼が引っ張られている感覚の方が強くてそれどころではないようだ。
他にも翼を広げている時の楽な角度を探したり、疲れて来た時の力の逃し方を探ってみたりと、飛行を自分のものにするために、一生懸命丁寧に試し続けた。
何日かは風の弱い日が続き、準備練習にも疲れや飽きが見えて来た。
今日は朝から崖を背にして翼を広げた状態からの垂直ジャンプの特訓。
獣達は四つ足で上手にジャンプしていたようだが、今の自分の体はどちらかというとトカゲに近い形だ。
何度も何度もピョンピョンと跳ね、足の角度や尻尾の収まりなど繰り返し繰り返し、その中の最善の一つを掴もうとしていた。
間も無くすると海からの風がはっきり強くなって来た。
行けるか?
二度三度、試しているとビュウと強い風がきた。
崖の岩肌を離れてゆらりと舞い上がると、しっかりと翼は風を掴み、羽ばたきに合わせて体は斜め前方に上昇した。
吹き上げる風を感じては羽ばたいて上昇し、風を感じない時には広げた翼を微調整して滑空、この繰り返しで、今までに来たことのない高さまで上昇することができた。
やがて、岩場に降りる前にいた森を見つけ、そこに着地すると、ようやく戻って来られた安堵感でゆっくりと深い息を吐き出した。
改めて見下ろして見ると、かなりの高さを上がってきたようだ。広いと思っていた岩場は遠くとても小さく感じた。
吹き上げる風はこの場所からでも充分感じ取ることができ、再び風を掴むことに成功した。
森はそこで狭くなっており、非常に高くそびえる山の斜面に続いていた。
山の途中で森は背の低い潅木に覆われるようになり、やがて岩と草だけになり、上の方では草すら見えなくなっている。
ゴツゴツとした岩ばかりの頂上を見ながら、こんな身を隠すところもないようなところにはどんな生き物も暮らせないなあ、と通り過ぎた。
自分も身を隠せるような、ある程度高さのある木が生えているところまで戻り、翼を傷つけないようにそうっとしまいながら降り立った。
足が地に着くと、どっと疲れが押し寄せてきた。
初飛行成功の興奮でよくわからなかったが、前足や翼は小刻みに震えている。
これはまた、前回みたいに次の日までこわばって痛むかもな、と苦笑しつつ、ゆっくりと筋肉を曲げたり伸ばしたりを繰り返しながら、日が陰っていく森の片隅で今日の飛行を反芻していた。
明るくなった次の朝は、また風のない穏やかな日だった。
ピリピリとする胸から前足にかけての筋肉をゆっくりと動かしてなだめながら、森を探検することにした。
少しすると、何かの生き物の気配があったように感じた。
立ち止まり、じっと気配を探る。向こうもじっと動かない。
少し考えて見た。
急に大きく動いて見て、逃げ出したらそれはこちらを恐れる弱く小さな生き物、逃げないならそれはこちらを恐れず獲物と見なしている敵ではないか?
素早く尻尾を薙ぎ払って大きな音を立てて見た。
遠く木立の上の方で小鳥が飛び立つ音がいくつか聞こえたが、最初に感じた気配は動かずこちらの出方を伺っているようだ。
敵だ。
向こうはなかなか動こうとしない。
だが、こちらに意識が向いていることははっきりわかる。
こちらからは相手の位置は見えていないが、向こうには見えているのだろう、無言のにらみ合いにも飽きてきたし、終わりにしてもらおうか。
気配がする方向ではない方に頭を動かした瞬間、敵はすごい速さで飛び出してきた。
注意が逸れたと思ったのだろう。
だがそれは彼の仕掛けた罠で、巨大な頭部が大きく口を開けて彼の下半身にかぶりついた。
一際大きな一対の牙が体にめり込み、口は彼の体を包み込むようにもぞもぞと蠢いている。
彼は敵の全身を見てビックリしてしまい、少し反応が遅れた。
手も足もなく、強い鱗に包まれただけの身体、なのにどうしてあのように素早く飛び出してくることができたのか?
だが、教えを請うことはできない。コミュニケーションを取ることはどちらもできないのだ。
少し残念に思いつつも、ようやく姿を現してくれた敵の体全体を、彼が先に飲み込んだ。
久しぶりの睡魔がやってきた。
体半分にかぶり付かれていても相手を食べてしまえることがわかったが、眠っている時はどうだろう?
そのまま美味しく頂かれてしまうのか?それともなんとか目覚めることはできるのか?咀嚼されたら痛いのだろうか?
先ほどぶっすりと牙を立てられた尻は少し痛い。
次に目覚めたら自分が丸呑みされていてぎゅうぎゅうに狭い胃袋の中というのも嫌だろうなあ。
だいぶ大きく強く進化したつもりであったが、まだまだ自分を捕食しようと言う生き物は居るようだ。
飛ぶことに夢中で安らげるねぐらを探す事なんてすっかり忘れていた。
限界に眠くなるまで歩いたが、海辺で見つけたような大きな洞窟はなく、大きな岩があるのを見つけ、グイグイと押して見ても揺らがないのを確認してから、背中を預けて眠りに落ちた。
ーーーーー
残念ながら、あの幸せな夢は見なかった。
時間の経過がよくわからない。
そう思ったのは、天井のように頭上を覆っていた木々の葉がほとんど失われて丸裸になっていたせいだ。
ついさっき眠りに落ちたような気がするのに、よく見ると周りの灌木や下生えの草なども小さく茶色にしおれていた。
そして、背中を預けられるつもりで寄りかかっていた大きな岩は肘を置くような大きさになっている。
周囲のあまりの激変ぶりに、一瞬強い風で岩が削れてしまったのかと勘違いをするほどだった。
身を起こしてみてようやく理解した。
岩が縮んだのではなく、自分が大きくなっていた。
時間の感覚がないのでどれくらい眠っていたのかはわからないが、岩や自分に枯れ葉が覆い被さっていたところを見ると、風のせいではなく、緩やかに時間が過ぎて木の葉が散ったようだ。
そういえば空気が以前よりも少しひんやりしている気がする。
自分は寒くてツライという感じはないが、眠る前よりも鱗が大きく強くなったようだ。あの細長い生き物のおかげだろうか。
あんな風に翼や手足が消えてしまわなくてよかったと、ちょっとだけ胸をなでおろした。
ーーーーー
それからも彼はゆっくりと成長していった。
海際の崖の方に行けば吹き上げる風を掴んで飛ぶ練習を繰り返し、疲れると森に戻って探索をし、稀に遭遇する生き物を食べては眠りにつく。
食べなかった夜は自分について、世界について、今日あった出来事について考えを巡らす日々。
そんなある日、不思議な音に導かれてそれと出会った。
他の生き物達と違って周りを強く警戒している感じがない。
なぜか軽やかで美しい音を立てて自分がここにいるとはっきり知らせており、決して早くはない一定のスピードで進んでいる。
初めて見る生き物だった。
向こうは全然こちらに気がついていないようで、それをいいことに彼はまじまじと見つめていた。
身体は毛皮やよくわからないものに包まれていてどうなっているのかわからない。
チリチリと心地よい音がなる長い棒が添えられて、一緒に歩いているようだ。
鳥のように旅をする生き物なのか、高い山に登るのではなく、横切るように進んでいく。
ゆっくりと変わらぬスピードで、来た時と同じように彼の行動範囲から出て行こうとする。
彼は迷わずそれを飲み込んだ。
長い棒が地面に放り出され、歌うような鈴の音が止まった。