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名も無き龍が眠る地に  作者: 佐野ひかる
塔の上の竜
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3ー5 飛翔

しばらくカイアンに食事を運んでくるのはエルダの仕事であった。

食事の盆を取り替え、手枷を外し、特に会話もないままの時間を過ごし、再び手枷をはめて出て行く。


カイアンの中は「お子を作る」という言葉がぐるぐると渦巻いていた。

カイアンは単純に「作ったら帰れるのでは」と考えたが、彼の中の知識が「子供を置いて帰るなんて無責任」と、その考えを否定した。


矛盾するそれについて彼女らに尋ねたいと思ったが、リンドーラに「無理」と言われた記憶がそれを押し留めていた。


そうだった、カイアンは「無理」と言われたのだった。


仮にも一国の王女が、捕虜の食事を運んでくるなんておかしい話である。

女王は何を考えて彼女にそんな雑用をさせているのか。

国の利益や王女自身の幸せを考えても、もっとまともな相手がいるはずだ。


彼のような人でも竜でもない半端な生き物は相応しいとは思えない。

あまりにも王女が可哀想だ。


あの朝の空色のように美しい王女が、やがては王族として意に添わぬ婚姻を強いられるにしても、せめて大切にしてくれる立派な伴侶と巡り会えると良いのにな、とカイアンは他人事のように考えていた。




ある日、食事の盆を新しいものに取り替えたエルダは、手枷を外すと、カイアンを別の塔に連れて来た。


細く背が高い小部屋があるだけの塔ではなく、人々が暮らす方からは見えない王宮の背にあって、広い屋上があるものだった。


そこには、日傘を立てられたテーブルの前で、腰掛けたリンドーラが待っていた。

「ずっと部屋に閉じ込められて退屈でしょう?今日は雲もあって涼しいので。」


リンドーラと対面するのは久しぶりになる。「無理」と言われて以来だ。

だが、彼女の方は至って普通の対応で、笑顔をふわりと浮かべてカイアンを迎えた。


いつもは何もない真っ青な空に、今日は広く薄い雲がかかっている。

砂漠の方では雲が切れ、見慣れた青空が広がっている。海の方に目をやると、雲の切れ目から光が海に向かって伸びていた。


「ここはお母様が飛ぶ私のために作ってくださった運動場なのです。眺めも良いでしょう?」

「飛ぶ私?」

「そうです。龍の姿の私は飛ぶのです。」


リンドーラは腕輪をさらりと撫で、天を見上げた。


「この腕輪があるため、王宮より外へは出られませんが、上はいくら高く飛んでも無制限なのです。」

「無制限…」

「ええ、空気がなくなり、気温も耐えられなくなるところまで飛びましたが、腕輪に止められる事はありませんでした。」


「あの時は本当に姫様が死んでしまったかと思いました…」

エルダが思い出すようにしみじみと付け加えた。


身体中の鱗はヒビ割れ、あちらこちらから血が滲み出しながら、落ちてくる彼女の姿をエルダは目の前で見ていた。

床に着く直前でスピードを殺す羽ばたきを何度かした後、力なくべちゃりと広場に叩きつけられたそうだ。


それはカイアンの想像をはるかに超えていた。


「王女様も無茶をしますね。」

「その時は死んでしまいたかったのです。でもお陰で生きる気になれました。」

リンドーラは死にたかったと朗らかな笑顔で言った。


「私はその時どん底で、世の中の全てを憎み、生きる事は苦しみでしか無いと思っていました。でも、エルダや医師の治療を受けながら、物語のような奇跡や思いがけないどんでん返しが、いつか私の元を訪れるのをもう少しだけ待つ事にしたのです。」


「私には空が開かれており、いつでも死ねるんだと分かったからです。今じゃなくても良い、いつか本当に絶望したら、今度はもっと高く、夜空まで飛んでいってやります。」


「夜空を駆ける私は流れ星のように見えるでしょう。悲しくて夜空を見上げた誰かの、願いを叶える流れ星になるのです。」


リンドーラはとても穏やかに語ったが、カイアンにはとても悲しい告白に聞こえた。

死を選んだ事がある者の言葉が重い。そして、乗り越えられた強さを羨ましいと感じていた。


体の深いところでちくりとした痛みを感じた。


「良いですね、私は飛ぶのが上手くないので、貴女が空を飛ぶのを見てみたいです。」

「見たい?本当ですか?」


嬉しそうに顔を上げたリンドーラの笑顔を見て、本当に飛ぶ事が好きなんだとカイアンは思った。

「本当です。」


エルダが階段室がある方に衝立を丸く立て、そこにリンドーラが入って行くと、龍の姿が現れた。

淡い空色の龍はリンドーラと同じ深い海の色の瞳で、身体中の鱗は真珠のように複雑に光を反射している。

大きさは人の姿のカイアンより少し大きいくらいで、すらりと長い首と、腕輪がついた腕とは別の翼が生えていた。


「腕輪はそのままなんですね。」

龍はこくりと頷くと、足を踏ん張り、高く飛び上がった。


ありえないジャンプの高さに、カイアンは龍が物理的な力だけで飛翔しているのではないと理解した。


空中を広く丸く旋回し、リンドーラは楽しそうに舞っていた。

時に真っ直ぐ限界範囲に飛んでいき、腕輪が外周で引っかかるのを利用して、くるりと回転し、反動を利用してまた内側に飛んでくる。


カイアンはいつか見た夢を思い出した。


青い世界の中を踊るように飛び回る白い生き物の姿。

夢の中では、もっと離れたところから見つめていたが、今はすぐ頭の上にある。


彼が憧れてやまなかった空を舞う生き物の姿はこれだったのだ。


リンドーラが低く滑空して来たので、カイアンは思わず手を伸ばした。

彼女はそれに気付き、手を伸ばしてかする様に触れ、そして高く高く上昇を始めた。


カイアンから見てとても小さくなるまで飛んだ後、自由落下で落ちてくる。

そして慣れたように床に近づく直前で羽ばたいて、安全に着地した。


素晴らしい天上の舞に思わず立ち上がり、カイアンは最大最速の拍手で彼女を称えた。


しかしリンドーラはいつもの癖で、足が床に着いてすぐ人の姿になってしまった。

カイアンが見ているのを忘れて。


「あっ」


カイアンの後ろに立っていたエルダはすぐに彼の目を塞ぎ、リンドーラは慌てて衝立の陰に逃げ込んだ。


リンドーラは衝立に掛けられていた衣服で体を隠し、小声で「失礼致しました」と言って、そのまま彼らを置いて階段を降りて行ってしまった。


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