可憐の残り香
滝沢が家に着いた頃、時刻は日付も変わり、一時を少し過ぎたところであった。可憐が訳の分からない症状に陥ったおかげで、連日の徹夜になってしまった訳だが、不思議と疲れはなかった。恐らく大量のアドレナリンが出ていたのであろう。
身体の疲れとは別に、気疲れはあった。誰しもがたまにある "疲れてるのに眠れない" と言う状態だ。
滝沢はキッチンに行き、缶ビールでも飲もうと冷蔵庫を開けようとした。その時、今まで気にも止めなかった事に気付いた。小さなマグネットカラーで留められたメモ…
"龍翔君!
今が正念場だぞ!
ガンバ♡"
良くある、主婦が冷蔵庫にペタペタと水道会社のマグネットシートやら可愛らしいホワイトボードなどを貼り付けるような事を可憐は嫌った。だから余り意識して来なかった滝沢だが、たまに何かのメモを、こんな風に貼り付けてあったような風景が、滝沢の脳裏に微かに残っていた。
滝沢は冷蔵庫から缶ビールを二本取り出してダイニングに移動した。いつもの椅子に座り缶ビールを一本開け、もう一本をいつも可憐が座る向かい側の席の前に置いた。そして「お疲れ様」と言いながら自分のビールを置いたビールに打ち当てた。
グビッと一口飲んで "あーっ" と溜め息を漏らした。
『可憐はどんな気持ちであのメモを貼り付けたんだろう?そして、今まで、どんなメモを貼り付けていたんだろう』滝沢はもう一口ビールを口に運ぶとリビングの方に目をやった。
『そうだ。婚姻届を出して可憐がこの家に引っ越して来た頃、まだ、漏洩してしまった新作に取り掛かっている最中だった頃
「今の新作が販売まで漕ぎ着けられたら、式を挙げ、タヒチかグアム辺りに新婚旅行に行こう」と言っていた。それからゴールテープを切る目前の所でデータ漏洩と言う、今までの労苦の全てが水泡に帰してしまう出来事が起こってしまったんだ。』
可憐がこの家に来てからと言うもの、滝沢は仕事の事で頭がいっぱいで、たまに行き詰まって帰宅した時、可憐はそれを察知したように夕飯を滝沢の前に並べると、自分はリビングに行ってTV番組の出来るだけバカらしいものを選局してバカ笑いをした。
『もし、あの時、「仕事で何かあったの」とか声をかけられたりしたら「黙ってろよ!仕事の話しを君にしても仕方ないだろ」とか怒鳴っていたかも知れない。可憐のそんな何気ない行動にオレ自身が救われていたんだ。良くよく考えると、可憐の行動には全て意味があったんじゃないだろうか?』
滝沢自身、気にも留めていなかったが、言葉ではない会話を滝沢に投げかけていたのかも知れない。滝沢は再び冷蔵庫に目を向け、そのまま瞳を閉じた。忙しなくキッチンを動き回るエプロン姿の可憐が見える。メモに目を向け『よし』っと気合を入れて料理をしている姿がそこにあった。
滝沢は静かに目を開けた。
『一国一城の主とは良く言ったものだ。何が主だよ。私は、ただお手伝いか何かのように、この城に可憐を閉じ込めただけじゃないか』
可憐はキャビンアテンダントとして大空を飛び回りキラキラと輝いていた。その眩しいまでの輝きを滝沢は自分が奪ってしまったのではないのか?と思った。
『可憐はこの狭い空間でどんな想いで過ごしてたんだろう?』
「クソッ!」滝沢は両手の拳をテーブルに叩きつけて怒鳴った。
『可憐はオレが救う。医者が匙を投げたとて、オレが命懸けで可憐を取り戻す』
この家の中いっぱいに残された可憐の残り香を嗅ぎながら滝沢は心を新たに誓いを立てていた。