囚われの身になりました!
ベッドに横たわって、遠くで落ちる水滴の音を数える。この小さな音は、昼間は人が立ち働く生活音に紛れて聞こえない。寝静まる時刻になると漸く聞こえて、陽のあたらないこの場所に夜を告げる。
最悪の一日から、今日で三度目の夜を迎えた。あの日から私は西棟にある地下牢に閉じ込められたままだ。
狭い部屋、罪人の貴族女性に与えられる黒の質素なドレス、手首に嵌められた魔力を抑える枷、硬いベッドに質素な食事と僅かな生活用品。ここで過ごすのは……はっきり言って、すごく暇!
「もう、どうなっているの?」
運動代わり手足をばたつかせながら独り言ちる。
この三日間で牢を訪れたのは、獄吏以外はたった二人で初日で一度だけだ。以降、一人で何もできる事もなく過ごしている。
ここに訪れた騎士団第二隊長ダルボラ伯爵と枢機卿ストラーダ侯爵、二人に対して起きた事は全て話した。二人が『教会派』なのは引っかかるが、ストラーダ枢機卿は派閥を問わず『信頼がおける』と評判は高い。
「大丈夫。ラニエル子爵とか『旧国派』の人もいるし大丈夫!」
言い聞かせるように声に出して、寝返りを打つと固いシーツに顔を埋める。
柔らかいシーツも好きだけど、故郷を思い出させるこの硬さも悪くない。
「お父様には連絡がいったのかな……」
専属文官として国王様の遠征に同行中のお父様を思い出す。
リエト・ディルーカと言えば切れ者として有名で、同時に無表情で感情の起伏がない事も有名だ。
そんなお父様は、小さい頃に一緒にいられなかった反動で私にかなり甘い。
無表情だけど帰ってきたら必ず私を抱きしめ、出掛ける時も必ず抱きしめる。居間で過ごせば手ずからお茶は淹れてくれるし、食事の時はお魚の骨まで取ってくれる。
もう私も十七才なので、度を超えた甘やかしは断っているのだけれど、戻らない時間を取り戻すような子供扱いはなかな抜けない。
「うーん。知って欲しいような。知らないでいて欲しいような」
知ったら、全部解決してくれそうで心強い。でも、遠くにいる今は戻るまで凄く心配するのが想像できる。ならば、全部終わるまで知らないでいて欲しいとも思う。
小さくため息を漏らした後、水滴の音に足音が混じるのが聞こえた。短い間隔の足音だから、私の世話を任された少年獄吏だろう。
格子の側に置かれた空の食器を見る。いつもなら早々に取りに来るのに、今夜はまだそのままだ。
階段を降りてくる長い影に続いて、年下の少年獄吏が姿を表すと、私は明るい笑顔で挨拶する。
「こんばんは。いつも有難う!」
「……」
会うたびに話しかけているが、返事をしてもらえた事は一度もない。それどころか、目すら合わせて貰えていない。
「今夜は遅かったですね。何かあったんですか?」
「……」
唯一の外との繋がりである彼に懲りずに話しかけ続けると、少年獄吏の顔は見てる間にも暗く青くなっていく。今夜は片付けも遅れたし、あまり体調が良くないのかもしれない。
「顔色が悪いようですが、体調が優れませんか?」
「……」
手強い……。答えやすいようにと、疑問系にしているのに中々乗ってきてくれない。
「風邪? 疲労? 良い薬草を紹介しましょうか?」
「……」
「あっ!ハーブ嫌いなんですか? それなら――」
「うるさい!! だまれ!」
目を伏せたまま怒鳴った少年獄吏に、めげずに再び口を開く。
どんな形の反応でも、状況を知るきっかけに繋げたい。
「気分を害したなら謝ります。本当に顔色が悪いけど、大丈夫ですか?」
食器をがちゃがちゃさせて、顔を背けたまま獄吏が叫ぶ。
「あんたの所為だ! 人を『虚鬼』に変えちまうんだろ? 目を合わせるだけで『虚鬼』になるって聞いた! 魔力封じの枷を付けてても、そんな奴と二人なんて怖いに決まってるだろ! 」
使用人の証言がもう噂になっているみたいだ。いつもの王宮の様子を思い出すと、何処まで悪化して広がるのか暗澹とした気分になる。
「その噂は全て間違いですよ。私の無実を証言できる人がいて、ストラーダ枢機卿達が調べてくれていますから。そんな噂も聞いていませんか?」
少年獄吏が鼻をならして小さく笑う。
「噂? 調べ? あんた、リーリア・ディルーカ伯爵令嬢だろ? 我儘で浪費家の『悪女』だって、以前から有名だった。第一王子は『魔女』のあんたに操られて、聖女様のお陰で目を覚ましたんだろ? お望みなら教えてやるよ。屋敷から悪い証拠が沢山見つかったってよ。ざまーみろ! あんた、終わりだよ!」
一息にそう告げると、少年獄吏が逃げるように立ち去っていく。
どういう事なの?
足元が崩れていく錯覚にとらわれて、早鐘を打つ胸に息が詰まりそうになる。
走り去った少年に届く事はないのに、冷たい格子を掴んで叫ぶ。
「待って! 証拠とは? 前からとは? 私の知らない事を教えて! お願い! お願いだから教えて!!」
叫んだ声が何もない壁に吸い込まれて消えていく。声の後には水滴の音だけがまた残る。
私に後ろめたい事なんてない。でも、獄吏は悪事の証拠が見つかったと言った。
それに、私が『悪女』として前から有名だと言った。いつから? そんな噂に、お父様達すら気づかないなんてある?
レナート王子の事だって何? 婚約破棄までは、婚約者としても幼馴染としても良好だった。
全部が私の知っている事と全然違う。まるで別世界の事みたいだ。
不安に冷たい汗が浮いて、耐えられない焦燥が胸に込み上げる。
格子を掴む手に力を入れて、押して引いてを繰り返す。
見知らぬところで、誰かが私じゃない私を囁く。
私の居場所で、誰かが無い筈の『魔女』の証を掲げる。
息が切れるまで格子を揺すっても、もちろん冷たい鉄格子が開く事はない。
「なんで? なんで?」
格子に縋ったまま膝をつくと、目の前に自分の手が見えた。
手入れのされた手には、故郷にいた時のマメも泥汚れもない。何の不自由もない者の白い手だと思う。
でも、令嬢として人より華美にした事はないし、私なりに出来る事をしてきた手だと胸を張れる。
頭を何度も何度も強く振る。
落ち着くんだ、私。落ち込んでいたって意味がない。終わりと思ったら、そこで終わってしまう。
諦めるな。嫌な事だって楽しめ。どうやって乗り越えてやろうって思え。
ゆっくりと格子から手を離すと、長い髪に指を絡ませてくるりくるりと何度も遊ぶ。
大きく深呼吸を繰り返すと、いつも通りの自分が徐々に戻ってくる。
私に心当たりがない事がまかり通るなら。それは誰かに嵌められたって事なのだろうか。
いつ? どこで? 誰が私を嵌めた?
あの日、会った人。あの日、起きた事。その前日。その前々日。
何度も何度もおかしなこ事が無かったか、繰り返し思い出す。
考え出してどのくらい時間が経ったのか。
突然、遠くで何かを落とすような大きな音が聞こえた。じっと耳を澄まして待つと、獄吏とは違う足音が重なって聞こえる。
格子から身を起こして出来るだけ遠くへ離れる。誰が来たかは分からないけど、夜も遅いし用心に越した事はない。
長く伸びた影が二つ見えて、黒いフードを被った二人組が姿を現した。黒ずくめの男達を思い出し、とりあえず枕を掴んで構える。囚われの身で、武器がこんな物しかないのは心細い。
フードの人物の一人が低い声でもう片方に命じる。
「二人で話す。エミリオ、離れてろ」
良く知る人の声と彼の従者の名前に、私は警戒を緩める。
「デュリオ王子?」
レナート王子より一週間遅く生まれた異母王弟の名前を呼ぶと、残った人物がゆっくりとフードを下ろす。
私がレナート王子とデュリオ王子出会ったのは、十一歳の頃。王都に馴染めない私を二人の王子が遊びに誘ってくれて親しくなった。王位継承権の事も、派閥の事も、互いにまだ実感できず、十四歳まで幼馴染のような関係で三人で一緒に過ごした。
懐かしいあの時期の私はデュリオ王子に恋をしてた。とても淡くて自覚するまで酷く時間のかかった初恋だ。
フードを降ろしたデュリオ王子が私をじっと見つめる。
夜明けの太陽みたいな赤味を帯びた短い金の髪に、見る人を捉えて離さない力強い深碧の瞳。端正な顔立ちは鋭く情熱的な眼差しが印象的で、精悍という言葉が彼以上に似合う人を私は知らない。
「デュリオ王子か……。で、なんで疑問形なんだ? 俺の声も忘れたのか、お前は」
短い髪を掻き上げて、ディリオ王子が意志の強そうな唇を下げる。
デュリオ王子はかっこいいけど怖いという令嬢がいるのは、こういう不遜な表情と態度の所為だと私は常々思っている。
「忘れた訳じゃないんですけど、ちょっと色々あって疑り深くなっているです」
小首を傾げて答えながら、私は枕をベッドに下ろす。枕と私を見比べて、デュリオ王子が人差し指を軽く曲げて私を招く。
「とりあえず、こっちに来い」
慌てて格子の前へと走りだして、内心で苦笑する。呼ばれたら走れって何度も言われてきたから、すっかり癖になってる。
手の届く所まで近づくと、デュリオ王子が私の口元に手を伸ばして、硬い指先で何かを唇に押し当てる。思わず口を開いたら、丸くて小さいものが舌先に転がり込んだ。
「ん……っ、甘い」
押し込まれたのは、ふんわりとした甘さの小さな砂糖菓子。牢に閉じ込められていて甘いものは久しぶりだから、頬を抑えて思わず舌鼓をうつ。
そんな私を呆れたような眼差しで、背の高いデュリオ王子が見下ろす。
「お前な……。疑り深くなって枕で戦おうとする奴が、差し出したものを戸惑いもなく口に入れるな」
綺麗な緑色の目を細めて、非難の眼差しを向けるデュリオ王子に頬を膨らませて抗議する。
「あれは差し出すっていいません。押し付けるって言うんですよ。でも、ごちそう様です。久しぶりの甘味で、なんだか凄く癒されました」
「安あがりな女だな」
酷いと反論する言葉を飲み込む。近寄りがたさすらある精悍な面差しが、白い歯を零して笑うと人懐っこい顔になる。
デュリオ王子は狡い。意地悪を言われても、こんな顔をみせられたら怒る気がなくなってしまう。
「ここにきて大丈夫なんですか?」
色々な事を合わせて考えれば、私との面会はきっと禁じられている。その命令を出せるのが誰であるかが過ぎって、胸がチクリと痛む。
「俺は、俺の好きなようにする。お前が気にする事じゃない」
デュリオ王子らしい言葉に、砂糖菓子を口の中で溶かしながら小さく笑って頷く。無理をしないでほしいと思うけど、来てくれたのはやっぱり嬉しい。
「会いに来てくれて嬉しいです。ちょっと一人が心細くなってました」
笑って言うと、また唇に新しい砂糖菓子を押し付けられる。素直に口を開いて、また甘い感触を楽しみながら、少し満足げに口の端を上げたデュリオ王子を見つめる。
なんだか、檻の中の小鳥になって餌付けされているような気分だ。
「とりあえず、元気そうだな」
フードから小さな袋を取り出して、また砂糖菓子を私に口元に押し込みながらデュリオ王子が言う。
なんか……完全に飼育されている気分になってきた。
「ん……っ、外はどうなってます、か? んぐ。正確な情報が何も入って来なくて……」
ニ、三個食べさせて餌付けに飽きたのか、砂糖菓子の袋をデュリオ王子が私に投げてよこす。
「何も知らされていない? 取り調べの者は来ていないのか?」
その言葉に頷く。
「ストラーダ枢機卿と騎士団の第二隊長が初日に一度だけ。ソフィア様が襲われた時には、私は中庭にいた事も黒ずくめの者達と交戦した事も全部話した。でも、獄吏が私は『魔女』で、その証拠があって、前から悪い評判もあるって。私、全然知らない事ばかり……」
誰かに聞かせる為に声にすると、不安がとめどなく言葉になって溢れる。尚も、何かを言葉にしようとする私の口を、デュリオの大きな手の平が塞ぐ。
「待て! 中庭の件って何だ?」
その言葉に目を瞬くと、首を振ってデュリオの手の平から逃れる。それから、あの日の事をデュリオにも改めて話す。
「そんな報告は俺の所にはない。お前の件は全て伝えるように話してあるのにだ」
「嘘……。だって、ちゃんと調べてくれるって」
握りつぶされた事実を理解して強く唇を噛む。
中庭での私の行動を知る人はほんの一握り。潰す事なんできっと簡単だ。
厳しい顔で考え込んだデュリオ王子を見つめて、私は全てを覚悟する。
「デュリオ王子。私は、今どうなっているんですか?」
デュリオ王子が彼には珍しく戸惑うように一度息を飲んで、それからゆっくりと口を開く。
「俺は信じていない。だが、お前は婚約破棄に逆上して『聖女』を襲った事になっている。その件で『虚鬼』を生み出した『魔女』という噂は確かにある。だが、それは今は噂でしかない。お前に関する『悪女』の噂は、俺は知らない。もっとも、お前の事で俺に悪い噂を告げる者はいないだろうが……」
そこで一度、デュリオが言葉を止めて私の様子を伺う。促すように私はその瞳をじっと見つめ返す。
もう、最悪の覚悟はできてる。
「今朝がたお前の屋敷に踏み込んだ騎士団の第二隊が何かを見つけたという情報がある。詳細はまだないが、教会長がリーリア・ディルーカは罪人だと色々な所に触れまわっているらしい」
教会は、国中にたくさんあって大きな影響力を持っている。民を守る存在で、大きな事件は流石に国王陛下の手にゆだねられるが、小さな事件であれば教会が裁くこともある。
その最高位につく教会長が、私の罪を口にしている事実はあまりに重い。
「わかりました。そんな事になっていたんですね」
これから、私に何ができるだろう?
ここで出来る事はあるのか。どうしたらいいのか。
考えに沈んで黙り込んだ私の頭に、格子越しに伸ばしたデュリオ王子の大きな手が乗ると、揺する様に乱暴に撫でる。
「リーリア」
今日初めてデュリオ王子が私の名前を呼ぶ。
「俺はそんな馬鹿な話を信じていない。絶対に認めない。必ず何とかしてやる」
デュリオ王子は言葉にした事を、必ずやり遂げようと全力を尽くす人だ。
だから、その言葉は何よりも私にとって心強い。
「はい。ここにいて私に出来る事は少ないです。だから、幾つかお願い事を――」
頭を撫でた硬くて大きな手が頬をなぞって、私は言葉を止める。
ずっと昔に蓋をした筈の恋心が、心の奥底で小さく今の私の心を叩く。
「今すぐ……俺は、ここからお前を連れ出すつもりで来た」
情熱を秘めた深碧の瞳が私を捕えるように見つめる。
私もデュリオ王子も沈黙しているのに、遠くで聞こえる筈の水音が心臓の音に掻き消されて聞こえなくなった。