天使はすごく狡い!
異国の帽子をとった人物は、私よりも少し年下の少年に見えた。
柔らかそうな薄紅の巻き毛に、青空を思わせる大きな碧い瞳。艶のある白い肌と薄く色づいた頬。あどけなさの残る面差しは、天使のように愛らしい。
「突然、進み出た事をお詫びいたします」
異国の少年は少し高めの声でそう告げると、帽子を片手で前に抱えて誰に向けるでもない一礼する。そして、不思議そうに再び周囲を見渡して、もう一度愛らしく小首を傾げる。
「不躾かと思いますが、我慢が出来ずに飛び出してしまいました。何故、誰も愛らしい方に手を差し伸べないのでしょうか? 僕の国では女性の危機には、男性がすぐに手を差し伸べるのがルールです。この国では、それはルール違反になるのでしょうか?」
少年の無邪気な眼差しに 男性達が次々と気まずそうに顔を逸らしていく。後方の何人かに至っては、後ずさりをして立ち去っていくのが見えた。
私は心の中で、異国の少年に拍手を送る。私とジュリアの諍いが楽しくたって、座り込んだままの令嬢を放置するのは紳士として失格だ。
碧い瞳に見つめられた一人のご夫人が、真っ赤になって少年に答えを返す。
「マ、マ、マナー違反ではありませんわ」
「ありがとうございます! 手を貸さないのが、この国のルールだと思って動けなかったんです。違うのならば、もっと早くに進み出れば良かったですね」
異国の少年が顔を輝かせて、ジュリアの前に膝をついてそっと手を取る。
「寒くありませんか? 冷たい床の上にずっといては、お冷えになるでしょう? ほら、指先が少し冷たくなっています」
手を取られたジュリアは、乱入者に対して憮然とした眼差しを向ける。
少年のまっとうな問いかけの所為で、味方の男性達が意気消沈し霧散してしまったのだから無理もない。
「大丈夫ですわ。誰かのお蔭で、すっかり熱くなっておりますの。わたくしは自分でゆっくり立ちますから、どうかお気になさらずに」
暗に放っておいてくれと言うジュリアの言葉に、薄紅の髪を揺らして少年が悲しげに小さく首を振る。
「僕の行動は迷惑ですか? 異国人の僕には分からなかったけれど、皆さんが手を貸さないのに理由があったのでしょうか?」
「そんな理由はありませんわ」
誰もが見惚れる異国の少年の言葉を、ぴしゃりとジュリアが否定する。流されないジュリアらしさに、あるい意味感心してしまう。
驚いた様に異国の少年は、ニ三度と瞳を瞬いて小さく頷く。
「分かりました。でも、少しだけ足の状態を見せて下さい。医学の心得があるんです」
ジュリアが答えるより早く、少年がジュリアの体に身を寄せて細い足首へ手を伸ばす。
眼福だった。可憐で愛らしいジュリアと、寄り添う天使のような少年。持ち帰りたくなる愛らしい光景に、私も周囲も思わず感嘆のため息を漏らす。
突然、座り込んでいたジュリアが異国の少年に手を引かれて立ち上がる。ドレスの片側を小さく摘まんで簡易な礼をとる。
「異国の方、お心遣いに感謝いたします。お見立てどうり、何とか歩くことはできそうですわ。でも、不安なので今夜は下がらせて頂きます。……では、皆様ごきげんよう」
一息にそう言うとジュリアは周囲に華やかな笑顔を見せて私に背を向けた。
異国の少年が明るい声で、周囲の人に声をかける。
「彼女を追いかけてエスコートなさらないのですか? 僕が向かっても宜しいのですが、お城の中で迷子になりそうです」
愛らしく少年が小さく舌を出すと、何人かの男性が慌ててジュリアの背を追いかける。残された人は居心地悪そうに、そわそわとこの場から去っていく。
一体何をしたのか? 立ち去ったジュリアは、白くなる程きつく拳を握りしめていた。あれは、絶対怒っていたのだと思う。
私の横をすり抜けて、ラニエル子爵が異国の少年に親し気に語り掛ける。
「クリス殿! いらっしゃって良かった! それから、助かりました!」
「出過ぎた真似かと思ったのですが、僕がお役に立てたなら嬉しいです」
いらっしゃって良かった? という事は、異国の少年がラニエル子息の言っていた紹介したい人物なのだろう。振り返ると少年の碧い瞳と私の視線が重なる。
「ラニエル子爵、あちらの方がリーリア様ですか?」
少年の言葉に頷いてラニエル子爵が私を手招く。
向き合った少年は、抜けるように肌が白く、碧い目は大きく印象的で、私よりも全然可愛い。この人物が一言二言で、ジュリアを怒らせて退散させるようには見えない。
「改めまして、彼女が我々の期待を背負う『未来の王妃』ディルーカ伯爵令嬢のリーリアです!」
なんていう紹介! もっと穏便で月並みにしてほしい。
得意満面のラニエル子爵を軽く睨んでから、異国の少年に向かって一礼する。
「はじめまして。ディルーカ伯爵家のリーリアと申します。お見知りおきください」
私が顔を上げると、柔らかく微笑んで少年が自ら名乗る。
「グリージャ皇国のクリス・ニアンテです。是非、貴方にお会いしたかったんです」
先程と同じ様に帽子を胸の前に抱えて小さく首を傾ける礼をすると、クリスが私の手を取って甲にキスを落とす。
グリージャ皇国は、セラフィン北領の内海を挟むように隣接する大国だ。冬が長い国で皇家内の争いが絶えず、今も国を二分する反乱が起きている。
今夜の舞踏会に、国王陛下が不在なのも、お父様が不在なのも、荒れたグリージャの民が南下して盗賊行為を繰り返しているのを治める為だと聞いている。
「リーリア。クリス様はグリージャで『公』の爵位をお持ちなんだ。現皇王様の信頼もとても厚い。セラフィンにはご遊学の一環でいらっしゃったらしい」
グリージャで『公』といえば王家直系の血筋を示す称号だ。国が荒れているのに、信頼の厚い『公』が遊学なんてして良いのだろうか?
まじまじとクリスを見つめていたら、クリスと視線がぶつかる。慌てて私は口を開く。
「クリス公は、何を……いえ、セラフィンで気になるもは、もう見つけられましたか?」
「『公』といっても、僕は末席です。爵号は付けずにお呼び頂けると嬉しいです」
はにかんだ笑顔は、まさに天使! でも、クリスは幾つなのだろう?
童顔で声もやや高く言葉遣いも少し幼げだけど、爵位を持っているなら青年といえる年齢の可能性が高い。
「わかりました。では、クリス様とお呼びします」
小さく頷いたクリスが、私に手を差し出す。
「折角の舞踏会です。よろしければ、ダンスを一曲お相手いただけますか?」
レナート王子と婚約して以来、ダンスは極力断るようにしてきた。でも、グリージャの皇家筋からの申し出は、流石に断る訳にはいかない。
「喜んで承ります」
差し出された手にそっと指を乗せる。寒い国の生まれだからなのか、クリスの手は雪のように冷たい。
ラニエル子爵に帽子を預けると、私をエスコートしながらクリスが口を開く。
「先程のリーリア様の質問ですが、昨夜ようやく北の街道からセラフィンの王都に入ったばかりなんです。ですから、まだ殆ど何も見られていません」
「セラフィンには、どちらからお入りになったのですか?」
グリージャからセラフィンに入るには二つの方法がある。一つは内海の端で繋がる西の陸路、もう一つは内海を超えた東の陸路だ。
「セラフィン王国の正妃様のご生家と交流があるので、バルダート経由で入りました」
カミッラ正妃は、北の大国だった旧国バルダートの出身で『旧国派』の代名詞みたいな方だ。正妃様はうちのお父様をすごーーーーく嫌っているから、ラニエル子爵を通じて私を紹介する形になったのだろう。
ホールの中心でクリスが私に向き直る。指先を離さずに、空いた手を背中に回すだけの簡単な一礼を見せてから、ゆっくりと背中に手をまわす。
婚約者のレナート王子以外の男性と踊るのは本当に久しぶりえで、何だか少し緊張してくる。
ワルツに合わせて、クリスがゆっくりと一歩を踏み出す。それに合わせてそっと足を引く。
引いて、捩じって。前へ、前へ。足運びを唱えているうちに、直ぐに余裕が戻ってくる。
クリスのリードはかなり上手い。絶対少年という年ではないと確信すると改めて年齢が気になってしまう。
「リーリア様。先ほどの話の続きをしてもいいですか?」
「はい」
クリスの身長は私よりも少したかいぐらいで、顔が思いの外近いから吐息が私の髪をくすぐる。
「貴方は、賢い方ですね。でも、少し顔にでやすいし迂闊だと思います」
「えっ……?」
「遊学の質問の前、荒れた国の『公』がここ来た真意が気になっていたでしょう? 未来の王妃リーリア様……」
見透かされた動揺で私のステップが狂う。小さな体でクリスが私を支えて、自然なターンに導く。
周囲との距離が遠い。ダンスの輪の中の、空白の場所に私達がいる事に気付く。ここなら楽団の音色に掻き消されて、誰かに声が届く事はない。計算してだろうから、クリスは可愛い顔で侮れない。
「私を未来の王妃と呼ぶのなら、この先のお話は政に関わる事なんですね? だとしたら、私がお役に立つ事はありません。私は何があっても政には関わらないと決めています」
レナート王子からの婚約の申し出を受け入れる時、お父様と三つ約束をした。
一つ、幸せになる努力をする事。一つ、苦しくなったら逃げて来る事。一つ、政に絶対に口を挟まない事。
この約束を私は破るつもりはない。
クリスの碧い瞳が、私の瞳のずっと底を覗き込むように細められる。
「未来の王妃であるリーリア様に、未来の王であるレナート王子のご進言頂きたい。これ以上、国乱が続けばグリージャは持ちません。二百年前の壊滅的な反乱は、周辺国の王の助力で治める事に成功しました。現グリージャ皇は、再びそれを望んでおります」
関わらないと言ったのに、私に政の希望を押し付けたクリスを睨む。
『旧国』出身の私を『未来の王妃』として受け入れられない貴族はきっと多い。表立って何かをすれば全て軋轢になって、レナート王子を苦労させる事になる。
だから、決して政には関わらずレナート王子個人をひたすら支える。それが父の助言であり、私があろうと決めた寄り添い方だ。
「改めて言います。私が個人的に、レナート王子に進言する事はありません。そもそも、レナート王子は王太子であって国王ではありません。そう言った事は手続きに乗っ取って、正面から国王陛下にお話下さい」
クリスが私の背から手を離して、一度大きく引き離す。
「皺寄せを喰うのは、弱い国民からになるでしょう。僕はそれがとても悲しいです。リーリア様はどうですか?」
その言葉に思わず目を見開くと、残された指先に引き寄せてクリスが再び口を開く。
「二百年前は各国が同じ火種を抱えていて、協力が自国の利にかなった。でも今は違います。僕の進言は現国王陛下の益にはならない。でも、レナート王子には違います。グリージャの特使として、僕は個人的にレナート王子と友誼を深め、将来的な二国の協力関係を約束するつもりです」
レナート王子は、弟のデュリオ王子と次の王位を争ってきた。今は王太子に指名されているが、盤石化と言えばそうではない。グリージャとの個人的な友誼は、レナート王子には一考する価値のある提案だ。
「進言は出来ません」
もう一度はっきりと告げると、クリスの指先がら力が抜けた。とても悲しそうな色の碧い瞳から思わず顔をそらす。
クリスは国の命運をかけてここに来た。
一国の終わりにどれ程、人の血がながれるのか。それが分からない訳じゃない。
でも、私から進言する事はできない。個人的な決め事の為、それも確かに私の心にある。だけどそれ以上にクリスの提案は、グリージャの争いにセラフィンを巻き込む危険なものだという思いが強い。
「……申し訳ありません。余りにも事が大きいです。個人的な誼ではなく、正しい手順を踏んでください」
グリージャか持ちこたえられるか。そんな不安が心に暗い影を落とす。
ワルツが終わりを迎えると向き合ったクリスが、申し訳なさそうな顔で私を見つめて一礼する。
「ごめんね、リーリア様。君の心の中に、グリージャの現状と希望の楔を落として。狡いやり方だけど、どこかで花開くことを願っています」
唖然と私はクリスの顔を見つめる。天使みたいな顔して、ものすごく狡い。
知ったせいで戻せない、このどうにもならないもやもやが計算とか最悪だ。
憮然とした表情で私は、私は思った事を素直に尋ねる。
「クリス様はジュリア様に何をしたんですか?」
「僕は、可愛い君に退路を作って差し上げますって言っただけですよ?」
それだけ……? そんな事でジュリアが引くだろうか。
「頭が良い子には、少ない言葉が良く効きます。何者か分からない異国人の僕には、圧力はかけられない。退路というなら、自分が悪い事を知っている。可愛いと呼ぶなら敵ではないかもしれない。でも、リーリア様じゃなく、自分に撤退を囁くなら敵かもしれない。いくつもいくつも道を練って秤にかけて、安全の為の撤退を選んだのだと思います」
ジュリアに思わず同情したくなる。やっぱりクリスは見た目に騙されない方が良さそうだ。
私はもう一つ、聞きたい事を尋ねる。
「失礼ですが、クリス様は今お幾つですか」
「僕は……二十ニ歳になります。リーリア様よりずっと大人です」
愛らしく片目を閉じて、クリスが笑って見せる。
騙された。はっきり言って、色々騙された。クリス、狡い! 童顔、狡い! 大人、めちゃくちゃ狡い!!
地団駄を踏みたくなるのを抑えて、クリスを睨みつけていたら一斉にラッパが鳴る。
「リーリア様、このラッパは何ですか?」
「王家の入場があります。ほら、あの中央の大階段から降りてくるんです」
髪をくるりと遊ばせてか答えると、にっこりと天使の笑顔でクリスが私に手を差し出す。
「もっと前に一緒に行きませんか? エスコ―トさせて頂きます」
可愛いけど……今となっては真黒な思惑がクリスの後ろには見え隠れする。私の側に居る事で、絶対にレナート王子との切っ掛けを作る気だ。
「結構です! 別々に行動します!」
大人げないと分っているけど、顔を背けて断るとすたすたと先を急ぐ。
レナート王子が初めて主催者として入場するのだから、危険極まりない異国の人から離れて、心安らかに少しでも間近で私は見たい!
今日はもう少し更新するかも
婚約破棄まで頑張りたいです




