レナート王子の体です!
甘くて優しい香りの中で、懐かしい夢が遠ざかる。
朝の訪れを告げる鳥の囀りが耳に届いて、私はゆっくりと瞼を上げる。
繊細な天蓋レース越しに見る室内は、カーテンの隙間からの光で薄っすら明るい。
白亜の暖炉、美しい絵画、宝石に彩られた剣。青みを帯びた壁には『月と盾』の紋のレリーフ。
ここは誰よりも貴い特別な人の部屋。自分の部屋じゃない男の人の部屋での目覚めは、最近読んだ恋愛小説の一場面にもあった。
ぼんやりとした頭で頬に手を伸ばして、いつもより冷たい頬を摘まむ。指先に力を入れて思いっきり捩じると、痛みが私に現実を思い出させてくれる。
「痛い! 恋愛小説? 私、全然違うんだから!」
ここは間違いなく、元婚約者であるレナート王子の部屋である。ここで目覚めたいという事は、眠る前の記憶が夢ではなかったという証でしかない。
ひりひりと痛む頬を大きな手で撫でると、顔を顰めて寝返りを打つ。シーツに残る甘い私じゃない香りが鼻をくすぐる。
慌てて体を起こして、何もかもを振り払う様に大きく頭を振る。
「あぁ、もう! 入れ替わりの事実より、ここでの寝起きが嫌!」
うな垂れた視線の先に、上質な白い絹の夜着とまっ平らな胸が映る。元の『私』の体も官能的ではないけれど、こっちは見事に何もない。理解はしても、自分じゃない体を自分ものとして目にするのはやっぱり不思議だ。
胸に手を当てると、鍛えられた筋肉は硬く、胸はずっと広い。
「間違いなく、レナート王子の体のままね」
わざとらしいぐらい大きなため息を吐いて、髪を一筋掬って指で遊ぶ。柔らかな白金の髪がするすると音を立てて指から滑り落ちていく。
あの日……倒れたままの『私』の体を抱えてお城に向かって歩き出した。そう、レナート王子を探す騎士達に会ったんだ。グレゴーリ公爵に『私』を引き渡して、丁重に扱う事を命じて……
「私も倒れた。この夜着には、誰が着替えさせてくれたんだろう?」
夜着の胸元を摘まむ。きっと治療も済んでるのだろう。脇腹に痛みはない。
摘まんだ夜着から手を離す。わざわざ中を見て、これ以上変に動揺するのは遠慮したい。
「やると決めたけど。小さな事から問題だらけね」
そっと喉を抑える。慣れようと思って考えた事を声にしてたけど、やっぱり違和感が凄い。
次に手を広げて見ると、剣を握るから手は節々は硬い。けど、男の人にしては綺麗で滑らかだ。
何度もこの手が私に触れたのに、こうしてみるとずっと大きく見える。
「何だか何もかもが『私』と違う。まずは、この体に慣れないと」
柔らかなベッドから降りて、大きな室内靴に足を入れる。
大きな靴もこの足にならぴったりだ。こんな小さな当たり前もやっぱり不思議なのがおかしい。
立ち上がると、そのまま部屋の隅に置かれた姿見に向かう。
頭一つ目線が高くなると、見えなかった花瓶の淵や、本棚の棚の一番上まで見える。
「何だか変な感じ。レナート王子が見ていた世界って、こんななんだ」
いつも通り歩いていても、床を蹴る足は力強く、過ぎる景色が早い。伸ばした腕は、指先までの距離が違う。
「『私』の感覚で動いていたら、あちらこちらに頭や手足をぶつけてしまいそう」
小さく飛び跳ねて、歩きながらくるりと回る。体が大きい分、少し重い。でも、それを補う力強さに、思った以上の勢いがつく。大きな動きは少し危ない。
案の定、再び回った体が崩れて、慌ててバランスをとって立て直す。
「とっ、とっ。ちょっとこの感覚は楽しいかも」
もう一度、もう一度と、くるりくるりと回ってみる。
意志のままに動くのに『私』とどこか違う手足。初めての感覚と小さな発見に、少しだけ胸が躍る。
鏡の前に辿り着くと、向き合った鏡の中でレナート王子が私をじっと見つめる。
首を傾けると、朝の光を思わせる白金の長い髪が揺れる。さっきまで私の体と思えていたのに、途端に別人に思えてしまう。
「貴方はだあれ?」
右手を伸ばすと、レナート王子が私に向かって手を伸ばす。冷たい鏡の越しに私たちの手が重なる。
「貴方は最低のレナート王子。私は『私』を救いたいリーリア。貴方は私。私がレナート・セラフィン第一王子」
鏡から右手を引いて胸に当てる。左手は背中へ。レナート王子は、第一王子だから深く頭を下げる必要はない。所作をよく思い出して、軽く首を傾げて穏やかに微笑む。
レナート・セラフィンが鏡の中で優雅な一礼を見せると、にやりとらしからぬ笑顔が浮かぶ。
「うん。いい。ちゃんとレナート王子に見えるじゃない。礼装じゃないのが少し間抜けだけどね」
肩を竦めた瞬間、ドアが小さくノックされた。緊張で一瞬にして体が強張る。
落ち着いて、私。これが、レナート王子としての最初の対応になるんだから、しっかりしなくては駄目。
気持ちを落ち付かせると、ゆっくりと声を出す。
「どうぞ」
告げると同時にドアが開いて、姿を見せたのはレナート王子の従者シストだった。
思わず訝しむように眉を寄せてしまう。彼がここにいるという事は、グレゴーリ公爵の取り調べはもう済んでいるのだろうか。
「お目覚めだったんですね、レナート王子。お加減はいかがですか?」
訝しむ私を一瞥した筈なのに、気にも留めない様子でシストが尋ねる。
「……問題ない。シスト。報告する事は?」
レナート王子らしい言葉遣いでと思うと、ついつい言葉が短くなってしまう。
「そうですね。では、お目覚めになられたのなら、午後から職務の予定を入れても宜しいですか?」
「他に言うべき事があるのでは?」
シストが細い目と私の視線が交錯する。
あの外苑で襲われた夜、出入り口を見張っていたのはシストだ。襲撃者の事が何も分からない今、彼が手引きをした可能性だって当然ある。だからこそ、私はグレゴーリ公爵にシストへの聞き取りを願った。
当然、シストも呼び出された事で、私の疑いに気づいている筈。なのに何故、最初にその事に触れないのか。
主人の問いかけに応えるには、あまり不躾な溜息をシストが吐く。
「私をお疑いとは、大変驚きましたよ。憐れな元婚約者とのお別れを、折角お手伝いして差し上げましたのに」
シストはいつもこうなのか。主にたいして、やや不躾と思える言葉選びと態度に僅かな苛立ちを覚える。
小さく深呼吸して、レナートらしい言葉を選んでもう一度尋ねる。
「取り調べを受けたのなら、まず報告を――」
シストが小さく鼻で笑って首を振る。
「どうして取り調べを受ける必要があるのですか? 再三呼び出されてはおりますが、全て無視させて頂きました。レナート様からも、執拗になさらないよう申し出て下さい」
開いた口が塞がらない。一介の従者が騎士団長の取り調べを拒否するなんてありえない。
「ちょっと待って下さい! 私が貴方を調べるように頼んだのは、分っていますよね?」
少しだけ私の口調になってしまって慌てて口を塞ぐと、それを別の意味にとったシストが優越感を含んだ笑みを浮かべる。
「レナート王子が、私がアベッリ公爵の信を受けている事をお忘れでないようで良かったです」
今の言葉でシストの立場を理解する。
シストをレナート王子の側で見かけるようになったのは、私達が一緒に過ごす事で二妃様と一悶着あった十四歳の頃だ。
きっと二妃の父で、レナート王子の祖父でもあるアベッリ公爵が、監視者としてシストを従者につけたのだろう。
どうするべきだろう?
アベッリ公爵は私の罪を吹聴している教会長でもある。色々知っていると睨んでいるから、小さな事で関係を早々に荒立てるのが良い事とは思えない。
でも、監視者として増長しているとも思えるシストを側に置くのは、私の足枷にしかならない気もする。
「シスト、貴方の主は誰なんですか?」
意図して突き放すように冷たく言った私の言葉に、全く意味が分からないというようにシストが目を瞬く。
もう、この人は駄目。私はそう判断を下す。
「君を解任します。最後の仕事を差し上げます。第二従者に昇格を伝えて下さい」
シストが慌てて私の近くに駆け寄って、声を荒らげる。
「なっ、何を馬鹿な事を――」
あぁ、もう! レナート王子はこんな人を側に置いて、本当に馬鹿なの?
少々感じ悪いのを承知でシストの肩を軽く押しやって、とびきり冷たい視線と声を浴びせ掛ける。
「誰に向かって口を聞いている! 誰の信を受けていても、君の主は私だ!! その私が、君に見張りを任せた外苑で襲われたんだ。君は一体何をしていた? 潔白が証明できない者を側に置く必要はない。私の従者でなくなった以上、相応のやり方でグレゴーリ公爵に取り調べを依頼する。覚悟しろ!」
胸を張って、ふんと鼻から息をはく。腹が立った私は、レナート王子というよりデュリオ王子になってしまった。でも、なかなか悪くない。動揺したシストは違う様子に気づく事もなく、青い顔をして身を縮めている。
「――お待ち下さい。レナート様。私は何も――」
「申し開きならば、私の意を汲み取り調べを受ける事が先です! アベッリ公爵の信以上に、貴方には四年も私の従者であった信がある。正しい態度を見せるなら、復帰の機会は差し上げましょう」
弾かれたようにシストが姿勢を正して一礼する。
「ご温情に感謝いたします。第二従者にお側に控えるよう伝えてから、速やかにグレゴーリ公爵の取り調べを受けてまいります」
少し引き締まった顔に、今後を期待していいかはまだ分からない。でも、当面は思い通りに動いてくれそうではある。
小さく頷いて部屋を出ていくシストを見送ると、体中から力が抜ける。
「はぁあああ。できた? できたよね、私?」
はっきり言って凄く緊張した。
怒ったレナート王子の想像ができなくてデュリオ王子になってしまったり、少し地の口調が出てしまったりしたけど、思うような結果に今回は出来たと思う。
でも、何時までうまくいくかは怪しい。
やってみて初めて気づいたことがたくさんある。レナート王子の話し方、相手の呼び方、それから接し方や力関係。それが私の知る事と実際ではやっぱり微妙に違う。
「本当に、私は『私』を救えるのかな?」
小さく首を振る。弱気になっては駄目だ。
レナート王子の立場を楽しむぐらいの気持ちでなくてはいけない。わくわくを詰めていなくては、出来る事も出来なくなる。
とりあえず、いつまでも夜着のままでいる訳にはいかない。
続きになっている衣装部屋に向かう。ドアを開けて思わず息を飲む。
女性のドレスのような華やかさはないけれど、凛々しさのある男性ものの礼装が綺麗に並ぶさまは壮観だった。
「男性の礼装もこれだけあると迷っちゃう。レナート王子らしい組み合わせって……」
真っ白なシャツをすぐに手に取る。少し迷って濃紺の細身のズボンと同じ色で銀色の飾り紐が付いたジャケットを抱える。ベストは迷った末に、飾紐に合わせた明るめの灰色を選んだ。靴にタイに小さな飾り、お父様の服を思い出しながら一式を揃えていく。
一抱えの衣装を両手に抱えて衣裳部屋を出ると、全てをベッドの上に放り出す。
「さて……着替えよね。着替え……着替え……着替え……」
レナート王子として頑張ると決意した。確かに決意した。でも、そんな中に着替えとか湯あみとか、あれやこれなんて色々考えてはいなかった。
「婚姻前の令嬢の尊厳に関わる危機だわ。私の体と言っても、これはレナート王子の体。私の着替えのためとは言っても、レナート王子の服を脱がすってどうなの?」
恐る恐る夜着のボタンに手を掛ける。できるだけ見ないように見ないように目を逸らしつつ、一番上から一つ一つ震える手で外していく。ボタンから手が滑って落とした視線の先に、はだけた服の隙間から鍛えた肉体が映る。
「!!!!」
手で顔を抑えて、がくりと膝をつく。
腹筋が割れてた。見たかったわけじゃない。見えたんだから仕方ない。頭の中でそればっかりを繰り返す。顔は熱いのに背中には嫌な汗がびっしりと浮かぶ。
完全に混乱した状態の中で、ドアを叩くノックの音が再び響く。
「ちょっと待ってください! 入らない――」
制止したのにドアが勢いよく開いてしまう。
今日はぎりぎりです。
明日は、もしかしたらお休みさせて頂くかも。




