九話 珈琲色に浮かぶ懊悩
困った。
そう、アマリとスピカの問題について。
カズキにとって、アマリはXYZ ONLINEのいろはを叩きこんでくれ、『トロヴァトーレ』に導いてくれた恩人だ。
一方スピカは、現段階では評価を下し辛い。
しかし、この二人の仲があまり良くないということは察しが付いた。
アマリらしくないのだ。
自分と喋っていたからというだけで、スピカを引き離そうとするような言動に違和感を抱いた。
それから、聞いてもいないスピカの悪評を吹き込んできたのも引っかかる。
確かにアマリは『裏で言いたくない』と言っていた。
しかし、言いたくない、と免罪符を貼れば正当化される行動でもないだろう。
アマリは、そういうことをするようなタイプには思えなかった。
明るく、快活で、誰にでも分け隔てなく優しく、自分やナナのような初心者が楽しめるように気を遣える人物だ。
そんなアマリが、どうして。
――悩んだ結果、相談することにした。
「どうも、こんばんはぁ」
「……悪い、変な呼び出し方して」
「構いませんよぉ、こういうのもネトゲの醍醐味ですからぁ」
そう、グッドスリープに。
ロクはダメだ。
レイがスピカを『嫌い』と言っているのを知っていて、彼自身も『距離を置くだけ』と言っていた。
ナナは論外。そもそも面識が無さそうだ。
サダメは『忙しい人』と言われていたし、彼女の時間を何度も借りるのは申し訳ない。
ショウが相手では、ことが大きくなりすぎる可能性がある。
だからあくまで、身近で、状況を俯瞰出来て、頼れそうな人物と言ったら――大人で、冷静で、サポーターでもあるグッドスリープしか居ない。
ただ、当然ギルドのアジト内でこんな相談をするわけにはいかない。
かと言って、アジト外でゆっくり話が出来る場所も知らなかった。
結果的に『リャンの店の前で』と待ち合わせを決めてしまったが、グッドスリープはその一方的なメールに応じてくれたというわけだ。
「ここでは騒がしいですし、『喫茶店』に入りましょうかぁ。アジトで食事が賄えない人の為にレストランとかもあるんですよぉ、実は」
「なるほど、じゃあそこに移動しよう。……本当、変な話を持ち込んで悪いな」
彼女には、メールである程度相談したい内容をざっくりと伝えてはあった。
しかしグッドスリープの言う通り、ネットゲームで最も人が増えるのは夜から深夜にかけてだ。
そんなゴールデンタイムに道端で会話するというのは落ち着かない。
グッドスリープに導かれて入った喫茶店は、照明のかなり絞られた落ち着いた雰囲気の店だった。
大人向き、と呼べば良いのだろうか?
グッドスリープが好むのも、なんとなく解る気がする。
カウンターの中に居る人物は40代程度の男性に見え、アッシュブラウンの髪は肩口で切り揃えられており、長い耳が左右に伸びていた。
黒を基調としつつもところどころにアクセントとして赤が映えるかっちりとしたギャルソンコートに身を包み、いかにも喫茶店のマスター然としている。
テーブルや椅子は黒に統一されていて、テーブルクロスの赤が映えていた。
ゆったりとしたトラック数の少ないジャズが適度に心地良く、静謐な雰囲気を作るのに役立っている。
メニューを開くと、『マルル豆のコーヒー』『アジェク風コーヒー』『メルシャ乳のプリン』など訳の分からないものが並んでいた。
眉根を寄せていると、くすくすと笑いながら「一番リアルの味に近いのは『エレッタ豆のコーヒー』だとわたしは思いますぅ」と言って来たので、彼女同様『エレッタ豆のコーヒー』を頼んだ。
「それで……俺はどうしたらいいのかな、って」
早速だが、本題を切り出す。
グッドスリープの時間を借りている状態なのだ、話はさっさと済ませるべきだ。
「スピカについて、アマリの言う事やロクの態度を考えたら近付かない方が良いように思えるけど、同じ『トロヴァトーレ』のメンバーだし……」
「んー、そこはカズキさんの自由では?」
お待たせしました、とテノールが響き、先程カウンター内に居たマスターの手によって『エレッタ豆のコーヒー』が二杯分運ばれてくる。
コーヒー特有の苦みを孕んだ香りが鼻孔を擽り、サイドにあったポーションミルクだけを放り込んだ。
「カズキさんの人間関係はカズキさんのもの。なら、誰と付き合おうが何をしようが、アマリちゃんに何かを言う権利はありません。それはもちろん、わたしもですぅ」
「だけど……俺と仲の良いアマリが嫌ってるスピカと俺が仲良くしてるのって、何て言うかこう、歪じゃないか?」
「良いんじゃないですかぁ? カズキさんがそれで嫌な思いをしないのであれば」
「うーん……そういう問題なのかな……」
板挟みだ。
恐らく、アマリは自分がスピカと親しくなることを望んでいない。
悪評について、『本当は言いたくない』というのも本音なのだろう。
だが、現段階でスピカを判断する材料が偏り過ぎていて、足りない。
グッドスリープは先程から、はっきりとした答えをくれていない。
にこにこと微笑みを浮かべたままなのもいつも通りすぎる。
いや、答えそのものをきちんとくれてはいるのだが、カズキの求めた答えではないのだ。
それを薄々自覚しつつ、コーヒーの仄暗い水面を見つめながら少しだけ話題の方向性を変えることにする。
「逆に訊くけど、ぐっすりさん的にはスピカはどうなの? どう映ってる?」
「良い子ですよぉ? 明るくて元気で、それこそアマリちゃんのようなムードメーカーでもありますし、戦闘能力も高いですし、拾ったアイテムは積極的にギルド内に融通してくれますぅ」
「なるほど……」
「……そうですねぇ、うーん……どうしましょう……ふむぅ」
先程まで柳のような答えしかくれなかったグッドスリープは、カップに指をかけ、飲もうとする仕草を見せたがすぐに右手を引っ込める。
それから顎に手を遣ると思案顔になり、急に言葉を濁し始めた。
「……どうかした?」
「いや、ちょっとわたしもどうしようかと思いまして。アマリちゃんとスピカちゃんについては、いずれこういう事が起こるのは想定していましたし、わたしの主張は最初から一貫して『個人の自由』ではあるのですけれど」
「と言うと?」
今度こそ、グッドスリープはエレッタ豆のコーヒーのカップを持ち上げた。
ブラックのままのそれを一口だけこくんと飲み下すと、ソーサーに置く。
かちゃんとカップとソーサーの触れる音が耳に触れた直後、アクアマリン色に輝く垂れ目がちな双眸がじっとカズキを見据えた。
「アマリちゃん、やたらと『リアルを詮索するな』と言うでしょう?」
「……言う」
そう。
このXYZ ONLINEで初めて出会ったのがアマリで、アマリが『リアルを詮索するな』と言うから、それが当たり前かと思っていた。
しかし、ロクは『気にしすぎ』だと言うし、サダメが社会人であるということをロクは知っていた。
ある程度、皆のリアルの事情を知っている。
ロクとレイとナナのようにそもそもリアルで知り合いであるメンバーすら居るくらいだ。
そもそもの話、『トロヴァトーレ』自体、ショウのリア友の集まりだと言うし。
カズキ自身は、アマリから『言うな』と言われているのもあるので何も話していないし、アマリも詮索してこないので殆どリアルに関することは話していない。
それに、自分から話そうともしていない。
だが、ある程度親しくなればちょっとした情報くらいなら与えても問題ないのではないか、と思わなくもない。
ふう、と息を吐くと、グッドスリープは小声でこう続けた。
「……それはアマリちゃんが、ネトゲとリアルの絡みで嫌な思いをしたことがあるからで、自分と同じ轍を踏む人が現れないように忠告しているだけなんです」
「……もしかして、『リア凸』ってやつ?」
アマリが言っていた『リア凸』とやらは、ぱっと聞いただけでは意味が解らなかったが、恐らく『リアルに突撃』の略だろう。
つまり、個人情報からリアルの位置を突き止め、リアルで接触する、もしくはされた。
「そんな可愛いレベルなら良かったんですけれどねぇ。でもこれ以上はアマリちゃんのプライバシーに関わるので、わたしから話せるのはここまでですねぇ。と言うか、これを話しただけでもわたしはアマリちゃんに怒られても仕方ないですねぇ……」
「そ、そうなのか……なんかごめん……」
「いえ、良いんです。これはわたしの判断ですし、カズキさんがこういう事情を無暗に吹聴する方ではないと信頼してのことですから」
眉尻を下げて、困ったように笑う。
……確かに、無暗に吹聴していい話ではない。
アマリだって、グッドスリープのことを同性として、そして人間として信頼できる相手と判断したから打ち明けたことなのだろう。
そんな話を、アマリの許可なく聞いて良いとは思えなかった。
「アマリには黙っておくよ」
「いえ、良いですよぉ? カズキさん、嘘は苦手でしょう? 変なタイミングでバレるより、『知っていることを知っている』状態になって貰った方が、アマリちゃんも気楽じゃないでしょうかぁ。わたしからバラしても良いですし」
「それは……俺が言わせたようなもんだし、バラすとしたら俺がやるよ。ぐっすりさんがしなくても……」
「じゃあこれについては、適当なタイミングでアマリちゃんに伝えてあげてくださいなぁ」
そう言うグッドスリープは、既にもういつもの微笑みを取り戻している。
こういう切り替えの早さは、感心すべきか呆れるべきか。
しかし、いつまでも湿っぽい空気で居るよりは断然こちらのほうが心地良い。
やはり、グッドスリープに相談して正解だった。
「と言うわけで、アマリちゃんはネトゲとリアルの絡みで嫌な思いをしたのに反して、スピカちゃんはネトゲで積極的にリアルと交わろうとする」
「あぁ……なるほど。価値観が正反対だから、アマリからは理解できないってわけか」
「そういうことになりますねぇ。……わたしも、正直リアルでお会いするのはリスクが高すぎるのでどうかと思うのですが、スピカちゃんの場合コスプレイヤーですから、イベントなんかでしょっちゅう大人数と顔を合わせていたみたいなんですよねぇ」
段々とピースが嵌まってくる。
ネトゲとリアルの絡みで嫌な思いをしたから、リアルについてネトゲで明かすべきではないと思っているアマリ。
ネトゲプレイヤーであると同時にコスプレイヤーで、リアルイベントで様々な人と触れ合ってきたスピカ。
おそらく、どちらも正しいし、どちらも正しくないのだろう。
「カズキさん、スピカちゃんについて何か調べたりはしました?」
「あぁ、うん。一応は。NEGL……だっけか。エンオンを運営している会社の前作を調べて、スピカって名前と一緒に検索したら色々出てきた」
「なら、ご存じでしょうね。彼女の人気の理由、そして驕る理由を」
「……ああ」
夕飯の時一度ログアウトして、スピカのコスプレイヤーとしての活動を調べた。
XYZ ONLINEの運営会社NEGL、その前作であるDestiny Lifeについて。
基本的なシステムはXYZ ONLINEと殆ど同じであるが、Destiny Lifeは全身ダイブ型VRMMOではない。
全身ダイブが可能なベッド型カプセルではなく、ヘッドギア型の装置を装着する、言うなれば『半身ダイブ』のようなものだった。
そして、そのDestiny Lifeで選択可能だった生き方の一つが『偶像』。
スピカは、Destiny Lifeの『偶像』としてトップレベルの存在であったという。
オフラインイベントでは、偶像の有名プレイヤーのコスプレ姿を撮影ブースで撮影出来たり、ゲーム内楽曲をダンスしながら歌唱する『ステージ』の披露などもあった。
スピカは、そういった『ほぼスタッフ並みの扱い』を受けていたプレイヤーの一人だったそうだ。
当時の写真も色々出てきた。
確かに、彼女のコスプレはクオリティも高く、Destiny Lifeへの溢れんばかりの愛を感じ取ることができた。
「……まぁ、コスプレってのも簡単なものじゃないし、それで認められたことで自信を持つっていうのは解らなくもない」
「そうなんですよねぇ、そこはスピカちゃんの純粋な努力ですから。それを否定してはいけない、と……わたしも思いますぅ」
エレッタ豆のコーヒーに口を付けると、熱い苦みが喉を通り抜ける。
グッドスリープも、どうやら自分と同じ考えらしい。
どちらも正しく、どちらも正しくないのだと。
「ただ……このままアマリとスピカについてどっち付かずな態度を取り続けるのは、歪さを助長させてしまうような気がする」
「……カズキさんは、そういう事を無視出来ない方なのですねぇ。それは、アマリちゃんには色々と導いて貰った申し訳なさから、ですかぁ?」
「それも……たぶん、違う。たぶん」
上手く言えない。
いや、違う。
自分でも解らないのだ。
アマリについて、スピカについて、『トロヴァトーレ』での立ち位置について、XYZ ONLINEでの振る舞いについて――。
「ちゃんと……一回話してみた方が良いかもしれないな。アマリとも、スピカとも」
「それが、カズキさんの答えですかぁ?」
「解らない。これを答えと言って良いのか……この行動が正しいのか、俺にもまだ判断が付かない。でも何もしないでコウモリしてるほうが、ずっとモヤモヤすると思うんだ」
「……なら、そうしたら良いと思いますぅ。これはこれでネトゲの醍醐味ですからねぇ。人と人が交わるから、楽しいことも、困ったことも、等しく訪れる」
ネット初心者の自分がXYZ ONLINEで色々と苦労することは予想していた。
しかし、ある程度はその予想通りとは言え人間関係の拗れだなんてリアルでも初歩的なところで自分が懊悩する羽目になるとは、想像力が欠如していたと言って良いだろう。
もっとこう、道具のように扱われるだとか、誰とも仲良くなれないだとか、ネット上での人間関係は冷たいものだと思っていたのだ。
現実はまるきり逆で、『映像の向こうには実際に人間が居る』ことを強く理解して振る舞うプレイヤーのほうが圧倒的に多かった。
そう、それこそ『トワイライト』がしてきたような事が横行しているとしか思っておらず、そしてネトゲで起こり得るトラブルなんてそんなものだろうとしか思っていなかったのだ。
「わたしで力になれるなら、いつでもなんでもご相談に乗りますからねぇ。とは言え、この件に限って言えば『個人の自由です』としか言わないと思いますけれど」
「いや、でもぐっすりさんの考えは理解できるし一理あると思うよ。俺が割り切れないのが悪いだけで」
「悪い……とまでは言ったつもりはないのですけれど。あまり思い悩まれないでくださいねぇ?」
あぁ、ごめん。
苦笑してしまったグッドスリープに、頭を掻きながら謝った。
エレッタ豆のコーヒーを、お互い示し合わせたわけでもなく同時に飲む。
少し冷めたそれは、するすると喉を滑り落ちてゆく。
そうして、コーヒーカップは空を迎えた。
付き合わせたのだし支払いをしようとしたところで、画材の購入で財布が素寒貧であることを思い出す。
喫茶店に誘ったのはわたしですから、と微笑むグッドスリープに甘えて、ここは奢られることにした。
「ではわたしはアジトに戻りますが、カズキさんも一緒に戻りますかぁ?」
「俺は……残るよ。アマリと話す」
「……早速ですかぁ。わたしに対して怒っていらしたら、一言メールをくださると助かりますぅ。言い訳を考えておきますので」
「あぁ、解った。今日はありがとう、ぐっすりさん」
それでは、と手を振るグッドスリープの背を見送ると、ギルドリングに触れてメンバーリストを表示する。
リストからアマリの名前を選ぶと、1:1送信モードに移した。
「アマリ、今時間あるか? 別に今でなくても良いんだけど」
唐突すぎただろうか、と思ったが、このモヤモヤは早めに晴らしておきたい。
それが自分のエゴだったとしても、先送りにするとスピカやアマリのことすら傷付けかねない気がしたからだ。
意外にも、アマリからのレスポンスからは迅速に行われる。
『何? どした? ……ってか何処に居るの? アジトに居ないよね』
「……ちょっと話がある。出来れば会って話したいんだけど、街に出て来られるかな。今、えーっと……『Black Noise』の前に居る」
『ブラックノイズ? それってぐっすりさんの友達のお店じゃん……なんでカズキがブラノイに?』
……ちょっと待て。
ぐっすりさん、そういう事は早く教えてくれ。
しかしそれは小脇に置いておいていい問題だ。
と言うか、問題ですらない。
「それについても会ったら話す」
『……解った。ブラノイの前に居て。今お金無いって言うか絶対ぐっすりさんと一緒にお茶したでしょ? それについてはまぁ置いておいて、中央広場の公園なら話くらい出来るでしょ』
「頼む。待ってるから」
『OK。迷うだろうからそこから動かないでね』
アマリの奴、案外察しが良い。
さて、どう切り出したものだろうか?