波のまにまに蝶が飛ぶ(三十と一夜の短篇第6回)
わたしの前に広がる一面の灰色。
うねり。
荒ぶり。
ひいては押す、しろい波頭。
外洋にながく突き出た防波堤に佇み、わたしは独りで待っている。
ただただ。じっと待っている。
※ ※ ※
父が亡くなったのは、わたしが十歳の初冬だった。
地方新聞の記者だった父。背が高くて、逞しくて、面白かった父。よくおどけて見せては、幼いわたしを笑わせてくれた。
父は職場で倒れた。
救急車で総合病院へ運ばれたが、意識が戻らぬまま亡くなった。あっけない。早すぎる死であった。
父の突然の不在をわたしも母も、どうやって受け止めてよいのか、分からぬうちに淡々と時間ばかりは過ぎていった。気がつくと真っ黒い服を身にまとった人々に囲まれて、お葬式が済み、火葬場へと向かい、骨壺にはいった父を手にしていた。
わたしと母は父のいない日常に、ぽんと二人きりで取り残された。
そんな時だった。
あの男がやって来たのだ。
父と年が近いであろう。中年の男であった。
男は年に似合わぬ、肩まで伸ばした髪をしていた。
着古したセーターに、膝のでたベージュのズボン。黒いものは何ひとつ身にまとわずに、男はふらりとやって来て、父の遺影に手を合わせた。
仕事上付き合いの広かった父である。
様々な友人知人がお葬式にやって来た。だがそのなかの、どんな大人とも男は違って見えた。
まるで学生のような格好に髪型。それらからは社会の立ち位置が見えない、得体の知れなさを醸し出していた。
子どもであったわたしにとってさえ、そうなのだ。
夫を亡くしたばかりの母にしてみれば、さぞや不安な存在として映ったであろう。
「志村さんに頼まれていました」
そう言って下げていた肩掛け鞄から、男が取り出したのは、小さな硝子瓶であった。
青の色硝子でつくられた、六面体の細長い瓶。
うすく。
こく。
或はざらついた色調をして。六枚の硝子の青は、全て微妙に違っていた。
和室の障子を通して差し込んでくる、冬の柔らかな日差しを映し。男の節くれ立った掌のなかで、色硝子がひかる。畳にうっすらと映る青のプリズムに、
「……きれい!」
幼かったわたしは感嘆の言葉をあげた。
しかしわたしの言葉は、男に無視された。男は視線さえ、わたしによこさなかった。
お葬式の最中。わたしは父の同僚。先輩。後輩の大人たちから、ずっと気を使われていた。彼等にとってわたしは、可哀想な可愛い憐れむべき女児であった。
そもそも父ならば。「ほら観てご覧」そう言って、いの一番に硝子瓶をわたしへと差し出すはずであった。それをこの男は煩わしそうに、知らぬふりをするばかりだ。
わたしは男の険がある横顔を、不満な思いで見上げた。
「これを、主人が?」
母はわたしと男の間に流れる、微妙な空気に気がつかない。
父の突然死からずっと。母は心を半分落としてしまったかのように、ぼおとしていた。
ほっそりとした母の指先が、男から受け取った硝子瓶を、確認するかのように撫で擦る。
お母さん。次はわたし!
そう叫びたい気持ちをあえて押し込めた。ここで母にまで無視されたら?
その想像に、こころが震えるような寂しさを覚え、わたしは快活な態度がとれなかった。不満をこめた眼差しで、二人のやり取りをじっと眺めるのが精一杯であった。
「生前志村さんが注文されていた品です。こちらが注文票です」
男が紙片を母へ渡す。途端母の口から、「三十万!?」悲鳴にちかい声がもれた。
「こんな……こんな硝子細工にそんなお金だせませんっ」
毒でもはいっているかのように、慌てた動作で母が小瓶を男へと押し返そうとする。
それをやんわりと遮って、「ご安心下さい。すでに代金は志村さんからいただいております。注文書の下をご覧になってくだされば分かります。領収書になっておりますから」男が言った。
「え? ああ、ホント……」
安堵の息を母が吐いた。
「それにしたって」
柳眉を寄せ、手のなかの小瓶と男を交互に睨む。
「こんな小瓶に三十万も……」
「なにせ特注でして」
男が唇の端をつり上げた。
笑っているつもりなのかもしれなかったが、とてもじゃないが笑顔には見えなかった。
「この領収書。十年前だわ」
母の呟きに男が頷いた。
「娘さんの生まれた記念にと、おっしゃっておりました」
「それを……今更?」
「奥さん。当方の商品は全て特注。しかも大抵の方が陶器での注文とすべきところを、志村さんからの、たっての希望で硝子細工とさせていただきました。正直このお値段でも決して高いわけではございません」
「……」
「大変人気の商品です。紹介のある方にしか造っておりません」
母はまだ不満げであった。それには構わず、男は、「では。わたしはこれで」とぞんざいに頭をさげると席をたった。帰り際。
「できれば、小瓶をご主人と思い、日々の暮らしの出来事などを語っていただけますか」
奇天烈な事を言い出した。
「小瓶にですか?」
母がとうとう素っ頓狂な声をあげた。
「はい。思いでの小瓶と呼ばれている品で、小瓶を通してあなた方の言葉は、志村さんへきっと伝わります」
至極真面目な顔で呟き、男は帰って行った。
母は男の背を眺め、「お父さん、詐欺にひっかかっていたのよ」怖い顔でそう言った。
お父さん。
わたしはそっと肩口から、父の遺影を振り返った。なんでこんな男に、こんな硝子瓶を託したの?
遺影のなかの父は暢気な笑みを浮かべているだけで応えてくれない。
母が荒々しく引き戸を閉めた。
父の死は、今でいう過労死だったのかもしれない。
哀れに思われたのか。責任を感じたのか。
父の勤めていた地方新聞社が、母を事務員として雇ったのは、父の死後半年たってからだった。昭和だったからできた計らいであった。今ならばとてもできた事ではない。
結婚までの間。母は市内のデパートで、エレベーターガールをしていた。
「お母さんがあんまり美人だったから。お父さん用事がなくっても、毎日エレベーターに乗りに行ったんだ」
生前父は夕餉の席で、小さかったわたしを膝のうえにのせ、楽しそうに語っていた。
「みっちゃんも、お母さんみたいな美人になるぞお」
そう言って、髭ののびた頬をわたしにすり寄せた。わたしは父のざらついた頬がくすぐったくて、はしゃいだ声をあげて逃げまわった。
色の黒い四角い顔に太い眉。
残念なことに成長するにしたがって、わたしは父そっくりになっていく。
数十年ぶりの母の社会人生活がはじまった。
母は朝早く起きてご飯を炊くと、まずはお仏壇にそなえる。新しい水を用意するのは、わたしの役目となった。
硝子瓶は父の遺影の横にひっそりと置かれていた。わたしは小瓶に口を寄せると呟く。
「あーあー。こちらみつき。本日も異常なし」
まるでトランシーバーのように、小瓶へ報告をする。
それからそっと小瓶の表面に指をはわせる。
みだりに触ると、硝子に指紋がつくと母にお小言を頂戴する。だからこの行為は内緒だった。
父がわたし達へ託したという、からっぽの硝子瓶。
宝石でも、お金でもない。もしかしたら母はがっかりしたのかもしれない。
けれど子どものわたしには、硝子瓶はお宝に思えていた。父がわたし達へ残してくれた、儚く。壊れやすい。奇麗なもの。
撫でると、硝子はひんやりとした手触りを伝えてくる。そこから父の力強さと優しさが、ほんの僅かだけ流れこんでくるかのようだった。
父と見えない絆でつながって、力をもらっている気がしていた。
一年が過ぎ。二年が過ぎ。
母は少しずつ華やかになっていった。それは子どもだったわたしの目から見ても、はっきりと分かった。
働き始め。
母は黒や灰色や紺色の、何の飾りもない、汚れの目立たないシャツにズボン姿であった。それがいつの頃からだったろうか。化粧気のほぼなかった母の唇が、華やかなピンクやオレンジで彩られた。華奢で可愛らしい耳飾りやネックレスが、母の顔まわりを飾った。髪にはパーマネントをあて、流行のブラウスや、ヒールの高い靴を履く様になっていた。
「みっちゃんのお母さん奇麗でいいな」
授業参観日や、PTA懇談会の度にクラスメイトの女子にそう言われた。わたしは鼻を高くする変わりに、「そうかな……」と複雑な思いで呟いた。
母は地味なままで良かった。
地味なままが良かった。だってお母さんだもの。
そんな思いをそっと飲み込んだ。口にだすと母の奇麗な顔が曇るような気がした。
変わらないものもあった。
髪の長い男は、毎年父の命日にやって来た。遺影におざなりに手を合わせ、後は硝子瓶を手に持っては変わりがないか確認していた。土日でも、平日でもお構いなしであった。
わたし達が留守の時は、郵便受けのうえに菓子折りの小箱が置かれた。
菓子は大抵が最中や羊羹であった。
有名店で買ったものではない。齧ると、変にじゃくじゃくと甘い餡子の菓子は、ちかくの商店街でひょいと買ってきたような物だった。
「気味悪いわ」
母は男の訪問を喜びはしなかった。
わたしは菓子折りに貼られているのしを、毎年こっそりと剥がしては、机の引き出しに閉まった。のしには墨で黒々と男の名が書かれている。顔を近づけると、安っぽい菓子には似つかわしくない、上品な墨の香りが鼻腔をくすぐった。
「源と申します」
初めて会った日の男の言葉を、のしを見る度にわたしは思いだす。
男の暗い目は、陽気な父とはかけ離れていた。
胡散臭い陰気な大人。
子どもは嫌いですと、顔に書いてあるような。父とは真逆の大人。
それなのにわたしは、成長するにしたがって、徐徐に男に親しみを感じ始めていた。多分男が変わらなかったからかもしれない。
一五歳。
わたしは中学三年になっていた。
華やかになっていく母。
成長していくわたし。
遠い。とおい場所へと独り逝ってしまった父。気を抜くと、ふいと忘れてしまいそうになっていく父。
変わらぬ男は、いつしかわたしの心の拠り所にさえなっていた。
半ドンの土曜日の午後。母が恋人と一緒にいた場面を見かけた事があった。
人口三十万弱の地方都市。ひろくはない繁華街。子どもも。大人も。行くところなんて、たかが知れている。
衝撃的な場面を、目にしたわけではない。ホテル街とかだったら、笑っちゃうような安っぽいドラマ仕立てだけど違う。
二人を見かけたのは、喫茶店のおおきな窓越しだった。
飴色の木のテーブルを挟んで、向かい合わせの席に座っていた。店の奥にはビリヤード台のある、中学生には敷居の高い店。たまに私たちが集団で行くのは、もっと煌びやかで、賑やかでカラフルな色彩にあふれた店だ。
珈琲を飲みながら、二人は談笑をしていた。
手を握り合っていたわけではない。口づけをかわしていたわけではない。それでもわたしは二人の間に流れる、濃密な男女の匂いを嗅ぎ付けた。
声はかけなかった。
子どもっぽさを武器に、「なにしてるの、お母さん? 」と窓ガラスを拳でたたき、甘い空気をこわす事もしなかった。
見つかりたくなくて、駆け足でその場を去った。
家に戻り、わたしは手も洗わずに母の鏡台の引き出しを開けた。色とりどりの口紅。そのなかの一本。一番古くて、この頃は滅多に使われなくなった、地味なピンクベエジュを掴むと、青い硝子瓶と一緒に鞄にいれて家を飛び出した。
どこかに行くあてなんてなかった。
制服のポケットにはいっている小銭いれをたよりに、一番近くのバス停から路線バスに飛び乗った。
バスは多くのひとで込み合っていた。わたしはつり革につかまったまま、現れては消えていく車窓の冬景色を、一心に睨みつけていた。
住宅街を抜け。繁華街を通過して、バスは走る。途中全く見知らぬ街が現れ、わたしの鼓動と緊張は高まったけれど、終わりはあっけなく訪れた。バスの終点。駅前ターミナルを目にした瞬間、拍子抜けする気分に襲われた。
馬鹿馬鹿しい逃避行だ。家出にさえならない、無力の。行き場のない怒りだ。わたしは不平不満を言葉にだして、母に投げかける事もできない弱虫の子どもだ。
終点で多くの人たちと共に、バスを降りた。
三角形の駅舎の屋根すれすれには、飛び交う小さな黒い影があった。鳥の群れかと思ったが違う。蝙蝠だ。
冬の凍てついた空を飛び交うちいさな黒い影を見上げていると、寂しさがこみ上げてきた。
鞄から小瓶を取り出し、唇を寄せる。
「あーあー。こちらみつき。ただ今駅前。一人です」
「あーあー。こちらみつき。お父さん。どうすればいいですか? お父さん」
それはもはや癖になっている、父への報告だった。
母はわたしの知る限り、小瓶に話したりなどしていなかった。
「あーあー。こちらみつき」
ほんのちいさなわたしの囁きは、誰の耳にも届きはしない。
駅構内からは出て来る人々と、入っていこうとする人々の波が、規則的な縦縞になって流れていく。
こんなにも大勢の人のなか、わたしは一人ぼっちだった。
駅舎の時計が午後六時の鐘を告げる。あれだけ大勢いた人の波が、不自然な程ぱたりとやんだ。そのぽっかり開いた、奇跡のような時間のあいまに、わたしは会うはずのない顔を見つけた。
「やあ。お嬢ちゃん」
駅舎の壁にもたれ、片手をだるそうにあげているのは髪のながい男であった。
「春の空のうす青。湖の凛とした青いろ。夕闇の深い群青いろ」
男が手にした瓶の色硝子を指しながら歩く。わたしは男の意外に広い背中について行く。
駅舎から続く。外灯のすくない港沿いの道を、わたし達は歩いていた。
右手には海が広がり、左手はうす暗い倉庫群になっている。行き交う人の姿もない。
男はわたしを迎えに来たわけではない。男が来たのは、ここに父の硝子瓶があるからだ。
男は硝子瓶を追って来たと、わたしに告げた。
「紫がかった桔梗色。南の海の鮮やかな青。北の海の冷えた青」
「……何でわたしのいる場所がわかったの?」
本州へ渡って行く、連絡船の汽笛がぼおおおと港中に鳴り響く。肥えた鴎が一羽。汚れたしろい腹を見せて、とおく水平線に向かって飛んでいくのが、見上げた視界におぼろに映った。
「硝子瓶が動けば、わたしには分かるんだ」
男が言った。
「うそ」
「本当だとも」
「うそに決まっている」
「だが、わたしの話しが嘘だという証拠を、君はわたしへ提示できまい」
そう言うと、男はくつくつと喉の奥で笑った。
男の笑い声を、わたしは初めて耳にした。乾いた。枯れ木を渡る北風のような笑い声であった。
「一方わたしは、今ここに存在している。これでは、わたしに分があると思うがね?」
「……偶然かもしれない」
精一杯の威厳をこめて、わたしは反論を試みた。
「偶然? それは何とも都合の良い偶然だ。偶然君は腹に据えかねた出来事に遭遇し、偶然来たバスに乗り、終点で降りた駅舎で、偶然見知った顔に出会う。ドラマだったら即却下がでるようなご都合主義の話しだ。酷い。ひどすぎる。そうは思わないかね?」
「どうしてそんな事を、さも知っているように言うの?」
腹に据えかねた出来事。バス。終点。
わたしは男に何も説明していない。男は現れるやいなや、すぐにも硝子瓶を取り上げたのだ。だから後ろを仕方なく、ついて歩いているだけだった。
「わたしをつけて来たんでしょう? だから知っているんでしょう?」
「おやおや」
わたしの声高らかな抗議に、男は肩から振り返りると、立ち止まり呆れた顔をしてみせた。
「君。受験生だろう? 三年四組と記章にある。そんなお粗末な頭で大丈夫かね?」
「なによ! 成績は良い方なんだから!」
「学校の成績が良いにこした事はない。しかし思考力が足りない。圧倒的に足りない。あのバスで、君はわたしの姿を見たのか? それともわたしが乗っていて、気がつかない程ぼんくらなのかね? 君は」
そう言うと、男はまた歩を進める。
夕闇はふかくなってきている。わたしは思いきり男の背を睨みつけると、鞄を開けて母の口紅を海へ投げ捨てた。何もかにもむしゃくしゃしていた。
小走りに駆け寄り、男の隣を歩く。頬を冷たい潮風がなぶっていく。
「でもあなただって、証明なんてできゃしない。そうでしょう? どうせ嘘っぱちだもの」
「君は少し理論的に考えるやり方を、学ぶべきだ。嘆かわしい」
男は頭を左右に振ってみせると、大袈裟な動作で肩をすくめた。やれやれ。男の無言の声が聞こえてきた気がした。
「良いかね。君がこれを」
そう言って、右手にある瓶を振る。
「持ち出した。そこへわたしが待ち構えていた。これ以上の証明があるのかね? わたしは分かるのだ。瓶が今どこにあり、何を思っているのかを」
「おもう? 瓶が?」
わたしは嘘! と叫ぶのも忘れ、立ち止まった。
「そうとも」
わたしの受けた衝撃に男は気を良くしたのか、立ち止まるとわたしと向い合った。
外灯の明かりの下。男は無言で笑っていた。爬虫類がもし笑えたら。こんな笑顔かもしれない。そう思える、実に厭らしい笑い方であった。
そして、さも重要な秘密をもらすといった風情で、男はわたしの耳元に唇をよせた。
「わたしの造る瓶は特注だ。瓶のなかには、君の父親の記憶が閉じ込められている」
波音にかき消されそうなちいさな声で、男がささやく。
「わたしは瓶を通して、君の父親の記憶とつながる事ができる。父親が死んでも尚。記憶は瓶のなかで生き続ける。君たちの囁きは瓶に蓄積され、やがては父親の記憶に上書きされ、わたしにつながる。そう言ったら。信じるかい? お嬢ちゃん?」
※ ※ ※
波が打ち寄せては、ひいていく。
本州へ繋がる海原を、成長したわたしは一人で眺めている。荒ぶる潮風に、長くのばした髪の毛を遊ばせるままにして、ただ一心に水平線を眺めている。
待っている。わたしは外洋に突き出した防波堤に立ち、一五の年の約束を待っている。
冬の海辺を訪れる人はまばらだ。
先ほど。大型犬を散歩させている老人が、ゆっくりと防波堤の先まで行き、戻って行ってから誰も来ない。わたしは鞄から取り出したスマホで、うねる海の写真を撮る。
フォトアプリをタップする。
保存されている写真は、どれも海ばかりだ。
初めて海の写真を撮ったのは、男と訪れた一五の冬。今では存在さえ知らない若者がいる、使い捨てカメラで撮った。それが四年続いた。
大学生になり。わたしは母と住んでいた街を離れた。バイトをして初めて買ったカメラを片手に、冬のこの海へ来た。あの時はフィルムを三本も使って夢中で撮影した。毎年。毎年。わたしは生まれ故郷の冬の海を撮った。
一五の年から四十年。
わたしは男との約束を忘れぬようにと、海の写真を撮り続けた。
その間に母は、恋人であった男と別れた。
恋人の年老いた父親が倒れ、半身不随になったらしいと噂で耳にした。とうに大人になっていたわたしは、母の判断を薄情と言い切れるだけの純真さを失っていた。
だからといって母の煌びやかな美しさを受け入れたわけではない。
やわらかな娘時代を、わたしは黒や灰色の服ばかり身にまとって過ごした。
大学を卒業しても、この街には戻らなかった。母も戻れとは言わなかった。
瓶はずっと実家の仏壇のうえにあり、男は訪問を続けていると母がたまによこす電話で聞かされた。わたしはあの一五の家出以来男には会っていない。
男はわたしには全く興味がないからだ。
暗い目をした。不思議な男。
いけ好かない。けれど待ち続けていた男は、わたしへかつてほんの少しだけ小瓶の秘密を告げてくれた。
わたしは寒風でかじかんだ掌を開いた。
六面体の青いほっそりとした小瓶がある。
先日母が亡くなった。
父よりもうんと長く生き。女手ひとつでわたしを育て。大学までいかせてくれた人。
わたしの知っている限りで、母は最初の恋人と別れた後に二人の男性とお付き合いしていたが、どちらとも再婚には踏み切らなかった。年をとってからは、幾人もの、ボーイフレンドという名のおじいちゃん方に囲まれ、趣味に勤しんでいた。
わたしは母の葬儀後、まっすぐにここへ来た。
青い小瓶を鞄につめて。一五の冬以来の、小瓶との外出だ。
今。わたしの手の中の小瓶はずしりと重たい。
本来それは軽く。空っぽであった。
男が渡しに来てくれた日。男はわたし達親子の前で瓶の蓋をとってみせた。中身の何もはいっていない。奇麗なだけの小瓶。母の幾分がっかりとした顔と、男の飄々とした様子は未だに脳裏に鮮明に浮かび上がってくる。
留守番だらけで寂しかった小学生のわたしは、時々こっそりと小瓶を仏壇から持ち出しては、庭先で陽光にかざした。ひかりが織りなす青いプリズムを楽しんでいた。
瓶の蓋は何度試してみても開かなかった。
「わたしが鍵だからな」
港で男はわたしにそう言った。
あの日。男はわたしの目の前で、開かないはずの蓋をほんの少しだけ開けてみせた。それは一瞬の出来事で。瞬きの間に見た夢のようだった。
今日。数十年ぶりに家の敷地から出た瓶の重さに腕がだるくなりそうだ。何も入っていないはず。何も入れないはず。なのに瓶はどんどん重たさを増していっている。
「やあ。お嬢ちゃん」
やがて。わたしの背後で、待っていた声がした。
あの日と同じだ。男はふいに現れる。
わたしはもうお嬢ちゃんと呼ばれる年齢をとうに越している。
髪には白いものが混じり、視力ががたりと落ちて来た。老眼鏡は老いを認めた様で、今だ手がでない。
だというのに、男に変わったところは余りない。相変わらず安ものの服を着て、髪がながい。悔しいことに男の方が、白髪が目立たっていない。
目の前に佇む男の年のとりかたは、随分ゆっくりとであるように思える。
「あの日の約束を覚えていますか?」
「無論覚えているとも」
男がわたしの前まで歩いてくる。焦れったいほどのゆったりとした歩みだったが、わたしはじっと待っていた。灰色のあつく濁った空から、雪がはらりと舞い降りだした。
雪はわたしと男の頭へ。肩へ。躯のうえへと落ちてくる。
わたしはやって来た男へ、小瓶を手渡した。
小瓶を受け取った男が、重たさを確かめるように左右に転がしてみる。
「うん。随分重い。しかし開けて良いのかね? 全部開けてしまったら、小瓶はただの空っぽになってしまう。もう二度と使うことは叶わない」
「はい。分かっています」
わたしは深く頷いた。
「もう。わたしは一人です。本当に一人になった今日。小瓶の秘密を知りたいんです」
わたしの言葉に、「では」男はそう言うと小瓶の蓋に手をかけた。
蓋は不思議なほど、するりと開く。
すると開いた小瓶の口から、カサリ。と、乾いた音がする。
音はひとつではなかった。
カサリ。カサリと音はいくつも重なっていく。
やがて。小瓶の口からほそく、ながい線がふたつ現れた。線は北風に細かく、ふるふると震えている。それは蝶の触覚であった。
一五の年に見た光景だ。
あの時男はほんの僅かだけ、蓋をずらして見せてくれた。
これから先に起こる事を目にするのは初めてだ。わたしは固唾を飲んで続きを待った。
男が小瓶をかるく上下に振る。するとそれが合図であったかのように、するりと一頭の蝶が空へと飛び立った。蒼い羽に、黄色い線のはいった羽をもつ、美しい蝶であった。
一頭が空へ舞いあがると、途端次からつぎへと蝶は小瓶の口から現れる。こんなにもちいさな瓶のなかに、はいっているとは信じられぬ程多くの蝶が飛び立っていく。
わたしは思わずスマホを蝶の群れへとかざした。
目を離したら、すぐにも消えていってしまいそうな幻に思えた。
北風に流されるように見えながら、蝶の群れはまっすぐに外洋の彼方を目指して飛んで行く。
雪がかれらの行く手を覆っても、かっきりと。ひとつの意志に導かれるように飛んで行く。
「きれい……」
思わず手を伸ばしたわたしの指先の。すぐうえをかすめるように、蝶は飛び去っていく。
波の合間をぬうように、数多の蒼い蝶がいく。
「見事だろう。わたしの最高の細工だ」
腕を組んだ姿勢で、男が満足気に微笑む。それは爬虫類ではなく、暖かなひとの浮かべる笑みであった。
「耳をすましてみたまえ」
風と波音の合間に、しんしんと響いて来る音がある。ちいさな。蝶の羽音に重なりあうように流れだす、ささやく声。
ーー あーあー。こちらみつき。本日も異常なし。
ーー みつき。
幼いわたしの声に応えるように、父がわたしの名を呼ぶ声が聴こえた。
一五の年に。ほんの僅か、聞かされた声と同じだ。わたしが長年待ち続けた子瓶の秘密だ。
蝶が羽ばたく。声がする。
わたしは思わず男を見上げた。男の言葉に嘘はなかったのだ。
男が面白げな表情で、人差し指をそっと唇へあてる。
黙って聞きたまえ。そう言われていると理解した。
ーー あーあー。こちらみつき。ちょっとだけ退屈です。
ーー あーあー。こちらみつき。お母さんが遅いです。
ーー あーあー。こちらみつき。小学校今日が卒業式です。
わたしの声に応えるように、父の声が追ってする。
ーー みつき。
みつき。
みつき。
みつき。元気か。
大丈夫か。ずっと見ているぞ。
どんな仕掛けなのか分からない。
まやかしなのかもしれない。それでも良かった。
父の声を聞き。眦に暖かなものがこみ上げてくる。
「この光景を目に焼き付けることだ。もう二度と見られない光景だ」
男の言葉にわたしは素直に頷いた。
よくよく見ると蝶の羽の蒼は様々であった。様々な濃淡の蒼い蝶が飛び交っては、彼方へと消えていく。
一頭。一頭の蝶がわたしと父との思いでを語っていく。
「あーあー。こちらみつき。お父さん」
わたしは叫んだ。精一杯。天の父に届くようにと叫んだ。
灰色の空。灰色の海を渡っていく蝶へむかって、叫びながら大きく手を振った。
「あーあー。こちらみつき。元気でやっていきます」
わたしを残し。男が背を向けて去って行く。行く間際。小瓶をわたしの足元へ置いて行った。
北風にわたしと父の言葉がながれていく。
蝶の姿は既に少ない。波がうねり、海上に雪が舞い散り消えていく。残り少ない蝶が舞い。突然わたしと父以外の声が空から聴こえてきた。
ーー あなた。……わたし。
蝶の羽ばたきの後から聴こえてきた、か細い声は母であった。
わたしは途端躯を強張らせ、蝶を目で追った。
ーー あなた。いるの?
ーー あなた。この頃あの子、わたしと全然話さないの。
ーー 大学。合格したわ。頑張ってた。けど……家をでてしまう。
母の声であった。
母は、話していたのだ。
父を思って。ひっそりと。一人で小瓶に語りかけていたのだ。
「お母さん!」
もうほとんど姿の見えなくなった蝶に向かって、わたしはもう一度大きく手を振った。スマホを握りしめ、両手を振った。
「おかあさん! おとうさん! こちら、みつき。みつきはここです! おかあさああん。おとうさああん」
蝶が消え、白い雪ばかりが降り続く。
灰色の空はなにも応えてくれないけれど。わたしはいつまでも天に向かって、手を振っていた。
完
短篇で一万文字超え。長くてすみません。ここまでお読み下さった方、ありがとうございます。心から感謝いたします。
本作に登場の源さんは、相互の皆さんでも知っている人は、ほぼいないであろう「源ミサイ」です。
無駄に長い。暗い。重い。バットエンドの「タキエの日記」に登場する性格悪いおじさんです。
波の合間を飛ぶ、冬の蝶のシーンを書きたかった短篇です。
最初の設定ではちょっとだけ若いミサイに絡む恋バナを予定していました。しかしあえなく挫折。みっちゃんママを恋の相手にしても無理。みっちゃんの仄かな初恋話しにしても無理。ミサイはね……無理です。この男と恋愛できる女性のイメージが掴めません。この手の男性がお好みの方が万が一いらっしゃいましたら、今後の参考の為、ぜひにもご連絡ください。
結局は全く恋愛要素皆無の、うす暗い娘と母の物語になりました。シュール度は低いです。(カラスウリ比)
もしよろしけば、感想等いただけると嬉しいです。
原稿用紙換算枚数 約32枚