03 ポア・カード
何もなかったはずなのに、さっきまで髑髏が手招きをしていた場所には、小さな丸テーブルと背もたれの無いカウンターチェアが一つずつ並んでいた。
「どうしたんだい?座らないの?」
いつの間に距離を詰めたのか、俺のすぐ傍まで寄ったイヴが下から顔を覗き込んでくる。
近い近いかわいい!
俺は驚いて一歩後ろに下がった――つもりだったが、俺の体は後ろに大きく跳躍した。
「そんなに離れなくたっていいじゃないか」
大きく離れたその先で、イヴが不満に頬を膨らませている。
あ、その表情すばらしいですはい。
「いや、なんだか体が軽くって」
「ああなるほど。ここは下界の重力とは違う引力が働いているからね、身体は軽く感じるだろう」
言われてみれば、確かに体が軽い。今なら空だって飛べるんじゃないか?
ん?体が軽い?空を飛べるかも?
もしかして!
俺は自分の頭上に手を運び、目いっぱい大きく動かしてそれを探した。
「いくら探したって、天使の輪なんて物、君にはついてないよ」
……ばれてたか。
体が軽いのはひょっとして天使の輪のおかげかと思ったのに、どうやらそんなことはないらしい。
「どうしてないんだ?俺は死んだんじゃないのか?」
イヴは頷いた。
「確かに君は死んだよ、真白堺君。でもまだ死んじゃいない」
なにそれなぞなぞ?答えはフライパンで間違いない。
「詳しい話をするから、まずは座らないかい」
「それもそうだ」
俺は言われるままに、用意された椅子に腰掛けた。
それを確認すると、イヴは満足そうに頷き、左手を振った。
振った左手が光ったかと思うと、何もなかった空間にはたちまち玉座のような椅子が現れ、イヴはそれに深く座った。
あれ?僕の椅子とはデザインも座り心地も随分と違いそうですけどそれは僕の思い過ごしですかね。
まあでも、今問題なのは椅子のデザインじゃない。
「さっきからそれ、何なんだ?」
「これかい?」
イヴは小さな手を広げひらひらと振って見せた。
するとテーブルにはお茶が、イヴの隣には大きな黒板が現れた。
「これは死神に与えられる力さ。君には超能力とでも言えば分かりやすいかな。一人間である君には使えないから、別に気にしなくていい」
隠れて何度も左手を振っていた俺を、誰が責められよう。
俺は小さく咳払いし、気を取り直す。
「で、俺が死んでないって言うのはどういう事なんだ?」
「言葉通りの意味さ。君は下界で腹を刺されて死んだ。でも、まだその魂はここにある」
てんで意味が分からない。
「つまりどういうことだ?」
「まだ生き返ることができるって事さ」
「ほんとうか!?」
「嘘は吐かないよ。あたしは死神だぜ?」
「だからだよ」
死神なんて、悪魔の次に嘘を吐きそうな存在じゃないか。
「偏見だなー」
「で、生き返らせてくれるのか?」
「生き返らせてあげるよ」
「ほんとうか!?」
「嘘は吐かないよ。あたしは死神……って、これはさっきもやったね」
腹を刺されて死んだら死神がいて、生き返らせてくれるって?
そんなうまい話、
「あるわけない」
「何がだい?」
「タダって訳じゃないんだろ?目的はなんだ」
「……察しが良い人間は嫌いじゃないぜ。君には手伝いをしてほしいんだ」
「手伝い?」
不適な笑みを浮かべると、イヴはまた左手を振った。
するとイヴの隣に設置された黒板に、何やら図が描かれはじめる。
図では『下界』から出た矢印が『天界』に入り、『天界』から出た矢印が『輪廻』に入り、『輪廻』から出た矢印が『下界』に入るという、三角形が出来上がっていた。
宙を浮かせた指し棒をひょひょいと動かし、図を指して、イヴは説明を始める。
「下界で死んだ魂は一度天界へ行き、天界にいる天使によって綺麗に掃除される。そうして綺麗になった魂は輪廻の輪に組み込まれ、転生の時を待つ。ここまではわかるよね?」
指し棒を消したイヴが俺を見る。
「わかったけど、じゃあここは?わえの間、だっけ」
「そう!この魂の循環工程に、わえの間は組み込まれていないんだ」
「ならここは?」
「ここは、たまたまその循環から外れて道に迷ってしまった魂を、正しい循環に導いてやるところなんだ。それが死神の仕事」
「じゃあ俺は迷子なのか」
「いや、君は私が連れてきた」
「どうして?」
イヴは深い溜息を吐いた。
「それが最近はね……どういう訳か迷子の魂がまったく来ないんだよ。このままじゃ死神は用無しと判断されて、天使に輪廻の輪に戻されてしまうんだよ!」
「だめなのか?」
「だめだよ!死神だぜ?神様だぜ?そんな地位を、この力を、どうしてそんな簡単に捨てられよう!」
「死神より天使のほうが偉いのか。神様なのに」
「そのへんはほら、大人の事情ってやつだよ」
お前は子供じゃないか。
と思っても、口には出さない。
そんなことで機嫌を損ねでもして、もう生き返らせないなんて言われたらたまらない。
「それで、何を手伝うんだよ」
「ここに魂を連れて来てほしいんだ」
「俺を連れてきたって事は、自分で呼べるんだろ?」
「そんな一人や二人連れてきたって、なんの意味も無いんだよ!もっと効率よくいかなきゃ!」
死神というのもなかなか大変らしい。
「で、どうやって連れてくればいい」
イヴはニヤリと、いやらしい笑みを浮かべた。
死神のわりに表情の豊かな子だ。
「これを使う」
イヴはテーブルの上で左手を振って、一つの真っ赤なカードを出した。
「これは?」
「これは『ポア・カード』」
「ポア・カード?」
ポアってあれ?あの危ない宗教のポア?なにそれ怖い。
「これを君に渡しておく。それを持って、君は下界で生活してくれればいい」
「それだけ?」
「もちろん違うよ。君にはできるだけ、できるだけ多くの人間に殺されて欲しいんだ」
「……え?」
この子は一体何を言ってるんだ?殺されてほしい?
「……どういう事だ?」
「言葉通りの意味さ」
イヴは前のめりになって言葉を続けた。
「いいかい、手順はこうだ。君が下界で殺されると、カードがそれをあたしに教えてくれる。そこであたしは君を殺した人間、仮にAとしようか。Aと君をここに連れてくる。そして君が死んだ原因を全てAに移して、Aは死に、君は無傷で下界に帰る」
「死因の移し変え、そんなことが可能なのか?」
「もちろん。死を司る神だからね」
「だとしても、俺は死ぬ苦しみを一度は味わう訳だろ?」
「そりゃあ、誰かが死なないとここには来れないからね」
「だったら……」
「メリットは三つ」
俺の言葉を遮って、イヴは俺の目の前に、箱を三つ出してきた。
「一つ、受けてくれれば、君はとりあえず生き返る」
一つの箱が開き、中から出てきた棺桶がはじけ飛ぶ。
「二つ、このカードがある限り、君はほぼほぼ不死身だ。少なくとも他殺で死ぬ事は無くなる」
もう一つの箱が開き、中から二人の小人が出てきた。顔はイヴの髪留めと同じしゃれこうべ。一人が包丁で他方を刺した。すると刺した方は血飛沫を上げはじけ飛び、刺された方は俺に向かって元気にガッツポーズを向けてきた。
「三つ、スタンプが溜まれば、願いが叶う」
最後の箱が開き、中から緑の龍が勢いよく飛び出した。
「スタンプ?」
「ああ。一人連れてくるたびに一つ、あたしがスタンプを押してあげる。そのスタンプを全部貯めれば、あたしが願いを叶えてあげる」
そんなこともできるのか……さすが神様。
「さーらーに!君はラッキーだよ!君は記念すべき千人目のポアだ!よって、引き受けてくれたなら、最上級ポアカードと、スタンプ三十個をお贈りします!」
イヴがそう言うと、真っ赤なカードはみるみるうちに黒く染まり、表面に浮き出たスタンプを押すための空欄は、五つを残してすべてが赤く染まった。
これじゃスタンプというより血痕だ。
「わあすごい!もうあと五人に殺されれば願いが叶っちゃうね!あ、既に一回殺されてるからあと四人か」
殺される殺されるって、簡単に言ってくれるな。
「で、どうする?受ける?」
イヴはおねだりする子供のように、甘えた上目使いで俺を見た。
くっ!かわいすぎる!
しかしそんなかわいい顔をされなくても、俺の心は決まっている。
「受けるよ」
「おおお!受けてくれるかい!」
もう一度、
「それじゃあいくぜ!お兄ちゃん!」
もう一度、沙柚を守れるというのなら、俺は死神の手伝いだってなんだってする。
イヴは大きく手を打つと、テーブルもイスも黒板も、一切合財きれいさっぱり無くなった。
イヴと俺の体が宙に浮く。
俺はそのまま尻餅をついた。
「痛ってえぇぇ!」
そんなに強く落ちたかとふと視線を下げれば、俺の腹は真っ赤に染まっていた。
深く、包丁が刺さっている。
「……かぁ……は……」
声が出ない。
力を振り絞ってイヴを見ると、イヴは右手で、俺を刺した男を引きずっていた。
「それじゃ、よろしく頼むぜ。スタンプは、カードを振れば確認できるから」
――はっ!
気がつくと、そこは女子トイレだった。
地面に座り込んだ俺に抱き付き、沙柚は大声で泣いている。
視線の先では、男教師達が何かを取り囲んでいた。
俺は左手をポケットに突っ込み、縋り付く沙柚を立たせて、教師の輪の中心に視線を落とした。
俺を刺したはずの男が、下腹に包丁を突き立てて死んでいた。