案山子が泣いた日
初めて投稿します。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
村よりすこし離れた山の奥から、規則正しく鈴の音が鳴り響いてくる。
しゃらん、しゃらん、と高く澄んだ心地よい音がときおり風にはこばれてきて、畑に精をだす村人たちの耳にも届く。一人が顔をあげて額の汗をぬぐうと、まっすぐに山のほうを見た。
「巫女さまはよう頑張るなあ。朝から一度も鈴の音が止まん」
「ほんにありがたい。ああしてネイ様が毎日泉を清めて下さらねば、わしらは作物を育てることができんしのう」
近くにいたほかの村人も草を刈る手をとめて呟いた。
「じゃが……なぜ泉は汚れる一方なんじゃろなあ。ネイ様がああして祓っても、すぐにまた邪気で覆われてしもう」
また別の一人がぽつりと漏らした言葉に、一瞬その場の皆がうつむいた。
「長老たちとカンナギが今朝から話しおうとる。きっと何とかして下さるじゃろ。わしらも巫女さまに負けんよう頑張って働かんと」
それまで話に加わらず、黙々と作業をつづけていた一人が窘めるようにそう言うと、周りも黙って頷き作業に戻った。
山のなかには泉があった。この村唯一の水源であり、神泉として古くから村人に親しまれ、カンナギという一族に代々守られてきた。
その泉の周りを一人の少女がゆっくりとした足どりで回っている。
手には鈴と白珠が交互に連なる首飾りを持ち、独特の歩調で歩みながら、ときおりその鈴を振っている。
着ている服は白い布地の上衣と裳。染み一つ無いそれらに、背中まで伸びた長い黒髪がよく映える、顔立ち美しい娘である。
「おい、そろそろ休もーぜ。雑魚はほとんどいなくなったぞ?」
自分より数歩先を歩いていた存在にそう声をかけられて、ネイは顔をあげた。鈴の音が止む。
振りあげたままだった手を降ろして彼女が辺りを見回すと、確かに彼の言うとおり小さな〝サワリガミ〟たちはいなくなっていた。だがネイには泉の周りの木陰から、今もこっそりとこちらを窺う複数の気配が感じとれていた。多分それは目の前の彼も同じはずだった。
まだ祓いきれていない、と言いかけて、ネイはやめた。
そのまま黙って水面に近づき、泉の様子を確かめた。朝は澱んで薄く瘴気すら発していた泉である。村の命綱ともいえるこの泉が、邪鬼たちの溜まり場になって穢れはじめたのはもう十七年も前のことだ。
泉に映った二つの紫色の瞳が、じっと自分を静かに睨んでいる。
―――なぜこんな色で生まれてしまったのだろう。
ネイは深くため息をついた。
瞳の色はすなわち、力の大きさを表していた。人も人でないモノも、瞳が赤に近ければ近いほど備えた力も強いという傾向にある。
だから人間であるネイが、それもこの村の神泉を守るカンナギの一族である彼女が、藤色の瞳を持って生まれてきたときには両親も村人も、皆が諸手をあげて喜んだ。
それは今も変わらず、ネイは村人から「ネイさま」と親しみをこめて呼ばれ、村を守る巫女として大切に扱われている。外で村人とすれ違うたびに深く頭を下げられ、ありがたいと拝まれる。
そんな彼らをネイも大事に思い、村を愛している。けれど。
「毎日毎日よく飽きねーな。祓ったってまた明日には元通りだぜ?」
泉を見つめたまま動かないネイに、脇から冷たい一言が投げかけられる。
視線だけで彼を見ると、呆れたような赤紫の瞳と目が合った。
長いまっすぐな黒髪と、しなやかな体躯。どの村人よりも整った顔。
人間離れしたその容姿は、多分常人が見たらため息をついて惚れ惚れとしてしまう。
事実彼は人間ではなく、人々の間で「鬼」と呼ばれ忌み嫌われる、妖の存在だった。いつも黒い衣で身を包み、闇のなかから気まぐれに人間に語りかける彼らは、ただ触れて驚かせたり精気を僅かに吸いとったりするサワリガミと違って、人間と言葉を交わすことが可能であり、サワリガミの持たない不思議な力を有する。
「分かっている。だが放っておいたら泉は死ぬ」
朝見た光景を脳裏に思い出しながら、ネイは声低く答えた。
本来なら水底まではっきりと透き通り、湧き出る水に水面はゆらゆらと穏やかに波うち、映した景色を優雅に躍らせる泉だ。しかし今朝は薄く緑色に濁ってかすかに腐臭を放ち、泉全体が瘴気に包まれていた。
母が病で世を去ってからずっと、ネイはこの泉を浄化してきたが、この数年で泉の穢れる速度は速まってきている。村に集まる邪鬼たちの数が増えつづけているからだ。
その原因がほかならぬネイ自身であることは、おそらく自分以外にはこの鬼しか知らない。
「……山鬼、おまえもわたしを喰いたいか」
ネイは今度は顔ごと向けて彼を見た。
かつて自分がつけた名で呼ばれた鬼は、軽く両眉をあげてみせた。
「当然だろ。おまえの魂は極上の香りがぷんぷんしてる。そいつを喰ったら今の何倍も大きな力が手に入るんだぜ? だが今はまだ食べ頃じゃあない。おまえが熟すまで俺は気長に待つわけよ。こうやって凝りもせず集まってくる雑魚どもを追い払いながらさ」
邪気祓いの鈴の音が止んだことを幸いに、また泉に近づこうと木陰から出てきたサワリガミを、山鬼はげし、と蹴飛ばした。膝丈ほどの土色の皺だらけの体に、異様に大きな目。そして尖った耳のサワリガミは、きぃっと悲鳴をあげて山奥へと逃げていった。
「……わたしの魂をやると言ったら、この村を守ってくれるか」
逃げていった小さな異形の背を見ながら、ネイはいつも考えていたことを口にした。
彼の言うとおり、自分の稀なる力に惹かれてあちこちから邪鬼たちが集まってきているのは事実だった。それはつまり、ネイが生きているかぎり泉の汚染はつづくということだ。
そもそも村には守り神がいない。
何代か前のカンナギが早世して、次の巫女が見つかるまでに時間がかかり、その間に逃げられてしまった。
村人は力ある巫女が神を下ろして祀ると思っているが、ネイは密かにそうして巫女が祀っているのは山鬼のような「鬼」たちなのではないかと思っている。
サワリガミとは違う、力のある鬼たちを封じ、神として祀って守らせているのではないかと、そう感じるのだ。
人間ではなくて、水を湧かせたり樹木を芽吹かせたり、風を吹かせたり火を起こしたりといった不思議な力を持つものを、ネイは鬼以外に見たことが無かった。
だからこそ考えた。村を脅かす元凶である自分の命をやる代わりに、この山鬼を村の守り神として祀れば、村は末永く平和を手にできるのではないか。
ただ自分が消えてなくなるだけではきっと駄目だ。いつかまた同じような事態が起こるかもしれない。
「あのな、おまえの意思とは関係なく、俺はおまえが食べ頃に熟したら喰うつもりなんだが?」
山鬼は笑顔を浮かべて言った。
「………ずいぶんと勝手だな」
ネイはわかりきっていた鬼の答えに、それでもちくりと心が痛んだ。
わたしの頼みなら……と、どこかで期待していた自分がいた。幼い頃、初めて出会ったときでさえ彼の望みは自分を喰うことだったというのに。
悪い虫がつかないように、とネイのあとをついてまわるこの鬼は、気まぐれにネイの手伝いをしたり、危ないところを救ってきたりした。まだ邪気祓いの力がうまく使えない頃などは、この鬼が群がるサワリガミたちを追い払ってくれていたのだ。
自分以外には見えないこの存在が、だからネイのなかではいつの間にかとても大きなものになっていた。
だがそれはきっとネイだけだ。
この鬼は自分の魂を得たら、すぐさまこの村など忘れて……ネイなど忘れて、どこか知らない場所へさっさと行ってしまうだろう。
「………勝手なのはわたしも同じだな」
ネイの自嘲めいた呟きに、山鬼が小さく首を傾げた。
「戻ろう。そろそろ協議も終わる頃だろう」
すい、と泉から離れると、ネイは踵を返した。
父と長老たちの話し合いの結論が、どのようなものになるのか大体の見当はついていた。
先日泉の実態を目の当たりにした長老の目には、明らかにネイに対する不審の色が浮かんでいた。言葉にはせずとも、彼が自分の力を疑いはじめていることはわかった。
瞳の色は、人も鬼も関係なく現れる。この藤色が表す力が人間のために働かないのなら、きっとそれは鬼と同じなのだ。勝手なのはきっと人間すらも同じなのだろう。
*
村には一本の太い道がいくらか高くなった丘へむかって走っている。
その道の脇に家が連なるような形で村は形成されていた。そしてその道を登ると、カンナギ一族の館と、更に上に長老の家がある。
ネイは緩やかな勾配の道を進み、家へと戻ってきた。
細めの丸太を組んだだけの簡素な門をくぐると、ちょうど家の戸が開いてなかから長老と村役の男衆が何人か出てきた。
ネイが気づいて頭を下げると、長老たちは一瞬目を細めて憐れむような表情を浮かべた。
だがネイが顔をあげたときにはすでに厳しい顔つきに戻り、軽く挨拶をすると会話もせずに門から外へ出て行ってしまった。
「相変わらず冷てえ奴らだな」
門の外から見ていた山鬼が呆れたように彼らを見送る。
山鬼は邪気を帯びる鬼なので、邪気払いの術が施されたネイの家には入れなかった。
それでも彼の言を借りれば、本気を出せばこんなものは屁でもない、らしい。真偽の程はわからないが、これまで山鬼が無理に館の敷地内に入ろうとすることはなかった。
「どうせろくでもないこと話しあってたんだろ。人間て奴はああだこうだ悩みすぎなんだよ」
実に本能に正直な鬼らしい意見を残して、山鬼は風に乗るとどこかへ行ってしまった。
館内にいる限りネイに邪鬼たちの害が及ぶことはありえないので、彼はいつもこうして彼女が家へ戻るのを見とどけると、どこへともなく消えていく。
その背中を見送りながら、毎回ネイの心は切なく疼いた。
―――いともあっさりと消えてくれる。
まるで未練もなく。自由気ままに。なんと憎たらしいことだろう。
さあっと風が吹いてネイの髪を揺らした。
未練たらしいのは自分のほうだと自嘲の笑みを浮かべて、ネイは館入り口の引き戸を開けた。多分、なかでは父が厳しい顔つきをして自分を待っているに違いない。
緩みかけた心を引き締めるように一度目を閉じると、ネイは静かに父の待つ部屋へ向かった。
人柱になれ、という協議の結果を、父はカンナギの長らしく、厳かな口調で途中途切れることもなく、ネイに伝えた。ただ、ふだんは威厳に満ちた目がかすかに細められ、眉間には見慣れない皺が一つ、刻まれていた。
ひやりと冷えた板張りの床に正座して、ネイは父の話を聞いた。
聞き終えても表情を変えることなく黙っている娘に、父親は小さく息をついた。
「おまえのなかに何か思うところがあるのなら正直に言いなさい。方法は他にもあるかもしれないのだから」
代替策があるのなら言えと、娘を庇う父にネイは小さく首を振った。
「この命が惜しいわけではないのです。心配なのはそのあとのことです。まだ村には次の巫女となる者がおりません。わたしが守り神を降ろしても、かの神をお祀りできる巫女がいなければ村の存亡は危ういままです」
ネイは父を見あげた。
今まで怒鳴ることも叩くこともしなかった優しい父だ。母が早くに死んで、一族の女たちの手によって育てられるネイを父はいつも遠くから黙って見守っていた。
怒ることも無いかわりに、優しく手を握られたり頭を撫でられたりすることも無かった。それでもネイは父が好きだった。母の変わりに厳しくしつけてくれた祖母や親類たちも愛していた。
一族にはネイのほかに子が生まれなかったため、彼らの愛情を一身に受けてネイは育ったのだ。
たとえ不器用な愛でも、ネイにはきちんと感じとることができた。だからこそ妥協はできない。村を愛するからこそ、守り神も不在のまま人柱になることなどできなかった。
「お願いです。もう少し、考えさせて下さい」
見あげた先で、父は悲しそうな目をして頷いた。
ネイが頭を下げると、ぽつりと父の口から本音が零れた。
「村を守るカンナギの娘として、おまえはいつも立派だ。だが……その覚悟がときに私にはこの上なく切ない」
淋しげな呟きを、ネイは床を見つめたまま黙って聞いた。
部屋を出て自室に篭ると、ようやくにしてネイは息をついた。
後ろ手に閉めた戸にもたれて、そのままずるずるとその場に座りこむ。上向いて両手で顔を覆うと、乾いた笑いが口の端から漏れた。
「立派なものか……本当のわたしはずっと浅ましい。皆なにも知らぬのだ」
この心の迷いがどこから来るのか、自分が一番よくわかっている。
巫女という立場でありながら、村を愛する心で同じくらい、もう一つの存在を想ってしまった。
「わたしは、馬鹿だ」
―――おまえは馬鹿だ。
いつだか山鬼が言った言葉が蘇る。
『できないならできないって言えばいいじゃねえか。命削るような真似してまでやる必要なんかねえよ』
『でも、みんなわたしを待ってるの。ずっと前から楽しみにしてて……。わたしがちょっと我慢すればいいだけだから……』
あれは確か、正式に巫女としての役目を継ぐ儀式の朝だった。
当時九つだったネイは、前日の夜からひどい熱が出ていたが誰にも言わず隠し通して、当日の朝を迎えたのだった。そのまま儀式の中核である舞の舞台に向かおうとして、ふらついたところを山鬼に支えられた。そして怒られた。
結局無理を押し通して舞に臨み、儀式もなんとか無事成し遂げた。
舞の間じゅう、山鬼が心地よい風をそっと送ってくれていたのを覚えている。はらはらした様子でその後もずっと見守っていてくれた。
そうして儀式がすむと、もう山鬼はネイに触れられなくなっていた。
一度、触れた途端に痛そうな顔をして手を引っこめ、少し悲しそうな目をして笑った。
『強力な邪気祓いだな、まったく』
巫女となってからは直接ネイに群がるサワリガミたちはいなくなったが、かわりにそれより格が上の、邪鬼たちが集まるようになった。
それでもいつも山鬼がそばにいたから彼らが寄ってくることも無かった。まるで案山子みたいだと、そのとき思ったのだ。
そうして集まりつづけた邪鬼たちは村の神泉を見つけて、恰好のねぐらとして棲みつきはじめた。
泉の放つ清浄な空気は彼らにとっても心地いいらしい。ネイが鬼と神の違いに本格的に疑問を抱きはじめたのも、その事実に気付いてからだった。
最初のきっかけは、山鬼の優しさを勘違いしたからだった。『喰う』と言う意味が、幼い頃は理解できなかった。
小さい子どもが怯えを忘れるほど、山鬼は陽気な笑顔を浮かべて親しげに話しかけてきたから。
ネイは両手を下ろして天井を見あげた。
今頃山鬼はどこで何をしているのだろう。ネイを家に送り届けた途端、自分のことなど忘れて気ままに遊んでいるのだろうか。
館のなかは静かで、天井の梁は高い。しんとした沈黙に押しつぶされそうになって、ネイは立ちあがった。
そのまま部屋を出て桟敷から直に外へ出る。
家を出ればまたきっとあの鬼は自分を見つけてひょいと姿を現すはずだ。その根拠も山鬼の気まぐれにすぎないとはわかっている。
だからいつも家を出るときは小さな賭けに、大きな不安が揺らめく。同時にこんな巫女で申し訳ないと、カンナギの一族に胸の内で頭を下げる。
今回も例に漏れず、ネイはそうして門をくぐった。
*
外へ出ると、山の端へ傾きかけた日に空はうっすらと茜色に染まりはじめていた。
遠くどこかの梢から烏が恋しげに鳴く。ネイも空を見回したが山鬼がやってくる気配は無かった。仕方なく道を下り、村人たちの畑の前をすぎて泉のあるほうとは反対側の村はずれへ向かった。
やや北よりの東の外れに幾分小高くなったところがあり、村のおおよそを見下ろせるその丘は、ネイの考え事の場所になっていた。
途中、田の間の道を通るとき、稲穂の様子を確認したが、泉の汚れのせいか実りが昨年と比べてあまりよくないようだった。そろそろ刈り入れの時期だというのに、穂先が殆ど空を向いている。その様を見てネイの心はまたちくりと痛んだ。
丘へついてそこに腰をおろすと、ネイは村を見下ろした。
畑ではまだ村人たちが精を出して働いていて、誰もいない田では案山子が留守を預かって鳥や猪に目を光らせている。やせた枝を十字に組んでぼろ布を巻きつけた体と、藁の頭に麻布を被せ、蓑笠をのせただけの貧相な案山子である。顔はない。それでも一生懸命田を見守っているように、ネイには見えた。
「今度は何を考えこんでんだ?」
ふっと風が吹いたかと思うと、すぐ脇に慣れた気配が座りこむ。
首をめぐらすと山鬼が両手いっぱいに何やら抱えて、どこかご機嫌な顔をしてこちらを見ていた。
「おまえはいっつも一人でここにいるな」
これでも食え、と山鬼は紫色をした拳大の縦長の物体を差しだした。
しっとりと淡い色あいの紫の外皮がぱっくりと割れて、そのなかには真っ白な光沢のみずみずしい衣に守られた、小さな黒い種たちが身を丸めて納まっていた。
「木通か。これをとりに行っていたのか?」
ほのかに甘い味を思い出して、ネイは小さく微笑んだ。そういえばこの鬼は木通が好きだった。
今までにも何度かこうして実をもらったことがある。山鬼は得意げに頷いた。
「訊いたって場所は教えてやんねーぞ。鬼しか知らない秘密の場所だからな」
山鬼がふふん、と鼻を鳴らして胸を張るので、ネイは苦笑した。
「べつに訊かぬ」
もらった木通の実を二つに割ると、空いた果肉のほうを匙にして種を口に含む。
途端にふわっと上品な甘さが口いっぱいに広がった。
「だったら話せ」
おいしい、と微笑んだところで山鬼がそう言い、ネイはわからず振りむいた。
山鬼は木通をずる、と一口で吸いこむと、空いた果肉を背後に投げ捨て、次の実を手にとった。口に含んだ種もすぐにぺっと吐き出し、とても味わっているようには見えない。
もごもごと口を動かしながら、山鬼はネイのほうは見ずに言った。
「おまえがここに来るときは大抵何か悩んでるときだろーが。協議の結果が原因か?」
ネイは黙って視線をそらした。口のなかの木通が瞬時に甘さを失った。
悩んでいる原因本人に悩みを話せと言われても、ネイは困ってしまう。
素直に話したらこの鬼はどんな反応をするのだろう。自分の魂をずっと前から欲しがっている彼は、賛成こそすれ、反対などしないのではないか。
面と向かってさっさと人柱になれ、などと言われるのはさすがに辛い。ネイは木通を持った両手を見下ろした。
「喰われた魂は………鬼のなかでも生きつづけるのだろうか」
静かに口にした言葉に、山鬼はさあな…と呟いた。
「喰ったら終わりなんじゃないか? この木通と一緒で、口ンなか放りこんで飲みこんだらそれきりおしまい」
相変わらずの速さで両手いっぱいだった木通をあっという間に食べ終えて、山鬼は最後の果肉を思いきり遠くに投げ捨てた。
「あーうまかった。木通は好きだな。熟すほど甘みが増す。おまえに似てる」
朗らかに笑う山鬼に、ネイは痛みを覚えた。だがあえて微笑んだ。
似ているというならきっと自分の結末もほうられたあの果肉と同じ運命なのだろう。
「わたしが死んだら、おまえは泣いてくれるか」
自嘲ぎみに問いかけると、山鬼は眉根を寄せた。
「鬼は泣かねーぞ」
「………そうか」
ぼんやりと暗くなりはじめた村を見下ろし、ネイは静かに決心した。
「山鬼、一つ賭けをしよう」
「賭け?」
頷くと隣の鬼は怪訝な顔をして首を傾げた。
「あの田に立っている案山子をわたしの言うとおりに動かすことができたら、わたしの魂を必ずやると約束しよう。だができなかったらおまえの負けだ。わたしの生あるうち、泉と村を守ってもらう」
どうだ、と訊くと、山鬼はぽかんとした。
「おまえが約束するもしないも関係なく、俺はおまえを喰うと言っただろーが」
「そう自信を持って断言するが、おまえはわたしに触れることもできないじゃないか。それに負けるつもりがないなら賭けたところでおまえに損はないだろう」
ネイの挑発に山鬼はむっとして立ちあがった。
「そこまで言うならやってやろうじゃねえか」
言うや否や、山鬼は軽く跳躍し、丘を一跳びで下ると田の案山子の前で立ちどまった。
そのまますうっと体が透け、案山子に溶けこむ。ネイがじっと見守るなかでやがて案山子はぶるぶると震えだし、少しずつ体が土から抜けていく。
すぽん、と音を立てるようにして足が抜けると、案山子はぴょんぴょんと跳ねながら丘を登ってネイの元までやってきた。
「どーだ。これぐらい朝飯前だぞ」
案山子が得意げに胸を張る。と言っても顔はのっぺらぼうであるし、上体を少し後ろへ傾けただけだが、ネイには案山子の頭の上にうっすらと山鬼が透けて見えた。
彼は予想通り得意な顔をしてふんぞり返っていた。
「ではわたしの周りを、わたしに背を向けて一回りすることができるか」
問うとすぐに案山子はくるりとネイに背を向け、ひょこひょこと細かく跳ねながらネイの周りを回りはじめた。それを見つめながらネイはそっと首にかけていた白珠と鈴の首飾りを外した。
「できたぞ。全く賭ける意味がねーな」
ふん、と馬鹿にしたような笑いが聞こえてくる。ネイは気にせずつづけた。
「ではお辞儀はどうだ。まっすぐな身体ではできまい」
「ぬかせ。見てろよ」
山鬼は意気こむとどこか歯を食いしばったような表情で案山子の身体をネイに向かって傾けはじめた。
一本足の案山子は、本来ならありえない角度で傾きを保ちつつ、ネイの首元まで頭を下げた。
「どうだ、わかった、ろ」
何となく苦しげな口調で訊いてくるのへ、ネイはうむ、と頷いて持っていた首飾りを案山子の首にかけてやった。
「あ?」
途端に案山子はどさ、と地面に倒れこんだ。
うつ伏せになったそれを両手で抱えあげ、支えながら再び立たせるとネイは小さく笑った。
「おまえもなかなかに馬鹿だな」
「おいこら、何をした!? 全然力が出ねーぞ!」
慌てた様子の山鬼は焦って案山子から出ようとするが、それもできないことに気づいてさらに困惑したようだった。
「この数珠はな、代々巫女が受け継ぐもので、持ち主の力を少しずつ溜めこんできたんだ。だからわたし以上に邪気封じの力を持っている」
たとえおまえでもたやすく破れはしない、とネイがつけたすと、山鬼はみるみるうちに怒りの形相へと変わり、ネイを睨みつけた。
「おまえ、初めからこれが目的だったな? 俺を封じこめてどうする気だ」
「言ったろう……わたしの命をやる代わりに、村を守って欲しい。ずっととは言わぬ。次の巫女となる者が見つかるまででいい」
静かな瞳でネイが山鬼を見つめると、鬼は僅かに怒りを鎮めたようだった。
「………なんで急に、そんな焦ってんだよ」
呟かれた言葉に対して、ネイは答えなかった。
「私の魂を喰って力を得れば、容易くこの呪縛からも抜け出せるだろう。村を守ると約してくれぬなら、一生このままだぞ。どうだ」
ネイの言葉に山鬼はしばし沈黙した。
やがて疲れたようなため息を一つつくと、黙って答えを待ちつづけるネイに山鬼は言った。
「しょうがねえな。……分かったよ」
ネイは心から微笑んだ。
「きっとだぞ。決して違えてくれるな」
「しつけーぞ。嬉しそうにしやがって……そんなに村が大切かよ」
山鬼の言葉にネイは頷いた。
幼い頃から村を守る巫女として育てられたことも確かに関係あるが、村人たちはいつもネイに優しかったし大切にされてきたことはネイが一番よくわかっている。
そんな彼らの生活を自分が脅かしていることが、ネイには苦痛で堪らなかった。自分の命で村が助かるなら、それはネイにとっても本望なのだ。
ただ唯一心残りは、目の前のこの鬼だった。彼が約束をしてくれたという事実は、だからネイのなかでは特別な意味を持ち、約束の内容と同じくらい嬉しいことだった。
「おまえはいい奴だな」
ネイが思わず呟くと、山鬼は呆れた顔をする。
「脅迫しといて何言ってんだ」
確かに、とネイは口元で笑い、案山子を両手で抱えあげると丘を下りはじめた。
いつの間にやらあたりはすっかりと茜色に包まれ、東の空からは闇が迫りはじめている。本当なら一番活発に動き回れるはずの鬼は今、ネイの腕のなかでおとなしい。
「………おまえの手、あったけえな」
ぽつりと漏らした山鬼の言葉に、ネイは微笑んだ。
「おまえの手はいつも冷たかったな」
それでもその手で触れてもらえたとき、ネイの心は春の陽射しのように暖かくなった。
何も知らないあの頃は、なんと幸せだったろう。ネイは少しだけ切なく、幼い頃を思い出した。それきり山鬼もネイも黙った。
*
館に帰ってネイが案山子を裏山の木陰に立たせ、明日までそのままで辛抱してくれと告げると、山鬼は予想通り不機嫌になった。それへ理由も告げず一言詫びるとネイは早々に部屋へと戻った。
部屋に入るなり体から力が抜け、ネイはその場に膝をついた。
褥と櫃があるくらいの質素な狭い自室は、灯りも灯していないのでなかは外闇と同じくらいに薄暗く、空気も冷えていた。
相変わらずの静寂のなか、かすかに厨のほうから忙しそうな声が聞こえてくる。
一族は叔父叔母や祖父母などあわせると結構な人数がいるのでいつも食事のしたくは大変そうだった。
厨の采配は祖母が行なっていて、歳を感じさせないきびきびとした動きや的確な指示に皆が敬服していた。ネイも祖母の料理は好きだ。
いつもと変わらない日常の響きを聞きとって、安堵と言いようの無い淋しさがこみあげてくる。ゆっくりと腰をおろしてその場に正座すると、ネイは誰にとも無く呟いた。
「……わたしは村を愛している」
目を閉じると厨からとぎれとぎれ家族たちの声が聞こえてくる。心のなかがじんわりと温かくなる。
「村は山鬼が守ってくれる」
あの鬼は気まぐれだが、約束したことはきっと守ってくれるだろう。もう何も心配しなくていいはずだ。
「山鬼はわたしの魂を喰う」
そうして喰われた魂は、一体どこへ行くのか。
わたしを喰った後、山鬼はどこへ行くのか。
「わたしは明日、いなくなる」
胸の内を秋風が通りすぎていく。
冷たい風が、山鬼を乗せてどこかへ去っていく。山鬼だけを乗せて。
俯いたネイの両目がわずかに潤んだ。
次の日、村は朝から騒然としていた。
村の神泉の周りに人だかりができ、老人も子供も集まっている。みな不安げな表情でそわそわしているなか、唯一長老だけが落ちついて杖に両手をつき、静かに泉を見つめていた。
その視線の先で泉は今までで一番ひどく濁り、水面から放たれる腐臭は側に寄って覗きこんだ村人の顔をしかめさせ、なかには気分を悪くして座りこむ者もいた。
いつもならネイが朝から邪気を祓い、清浄な状態に戻すのだが、今朝はその毎日の日課は行なわれずネイの姿もそこにはなかった。
「巫女さまが神下ろしをするらしいって、本当かな」
誰かがこそこそと話す内容が聞こえたのか、長老は顔をあげると振り向き、その場の村人を見回すと短く言った。
「ネイには、人柱になってもらう」
大きくはない長老の声は、それでもその場にいた村人たち全員の口を閉じさせるにはじゅうぶんな力を持っていた。
一瞬の間をおいて言葉の内容を理解した村人たちは、途端にざわざわとどよめきはじめた。
「ど、どういうことですか、長老。ネイ様が人柱とはっ」
「ネイ様がいなくなったらこの泉も枯れてしまいます。そうしたら村はおしまいじゃないですか!」
若者たちが一斉に訴えると長老は首を振った。
「守るべき者が務めを果たせぬのでは仕方あるまい。あの娘の力だけではもう泉を守りきることは難しい。この村には守り神が必要なのだ」
「だったら神下ろしをすればいいじゃないですか! 何もネイ様が死ぬことはないはず」
反論しかけた若者は長老の鋭い視線に見つめられて、ひく、と喉を鳴らして唐突に言葉を止めた。
白く長い眉に隠れそうな両目から、何もかもを見通したような黒い瞳が睨むように若者を見ている。
「………儂はつねづね思っておった。あの瞳の色が示す力は、果たしてどちら側のものなのか」
長老がそこまで言うと、大人たちが気まずそうな表情で俯く。
「泉が汚れはじめて十七年。あの娘と同じ歳だな」
意味深な長老の呟きに若者の一人が眉を顰め、口を開こうとしたとき。
「お待たせして申しわけありません」
ネイがようやく泉の前へと姿を現した。
*
ネイは儀式のときにだけ着る白い巫女衣装に身を包み、カンナギ一族につきそわれてやってきた。
いつもとは違う整えられた姿はどこか神秘的ですらあったが、その背が背負う物に、村人をはじめ長老も一瞬とまどいを隠せなかった。
訝しむなかにどこか異様なものを見る視線を感じ、ネイは村人たちにわからぬよう苦笑した。
「おい、一体何がはじまるんだよ?」
背中から山鬼が問いかけてくるが、今のネイには答えられない。先を歩いていた父が脇に避けてネイを促す。前方に立つ長老に向かってネイは深く頭を下げた。
「案山子など背負って……何をするつもりなのかね」
怒るでも笑うでもない声に問われ、ネイは顔をあげた。
「はい。この案山子に神を下ろします。わたしの命をかけて、神をお呼びします」
言った途端、背中から山鬼が「ちょっと待て!」と慌てた声をあげる。
周囲にいた村の若者たちもネイの名を呼んで止めようとした。長老はまだどこか不審を含んだ眼差しでネイの背の案山子を見ていた。
「……案山子は人がいるときもいないときも、一人でずっと、田や畑を見守ってくれています。作物を荒らす動物たちから大地の恵みを守ってくれています。お下ろしする神も、案山子のように村を守って下さるよう選びました」
ネイの言葉にようやく長老は頷き、なお騒ぐ若者たちを黙らせると威厳ある面持ちで村人全員に告げた。
「カンナギ一族を代表して村を救うべく、ネイがその命をもって神をお招きする。皆も成功を祈ろう」
有無を言わせぬ響きを持って長老の言葉が終わると、ネイは皆に一度頭を下げ、泉の前に立った。
若者たちもネイの覚悟を決めた真剣な表情にもう何も言えなくなり、心配の眼差しで見守った。
懐に入れておいた縄をとり出すと、ネイは案山子と自分の身体を縛りはじめた。
「おい、人柱っておまえ死ぬ気かよ?」
山鬼が焦れたように訊いてくる。
ネイ以外には見えない彼の問いかけに、村人たちの前で答えるわけにもいかず、ネイは小さく彼にだけわかるよう頷いた。
「確かにおまえの魂を喰ったら村を守ると約束したが、こんなに早いとは聞いてねーぞっ」
俺は熟した魂が喰いたいんだ!と怒りはじめた山鬼を背に背負ったまま、ネイは両手を合わせると祝詞を唱えながらゆっくりと泉に右足をつけた。
どろり、とした感触がまず足首まで伝わって、そのあとひりひりと沁みるような感覚がやってくる。
それをこらえて左足も踏み出し、ネイは泉の中央へと歩み出した。
腐った泥の匂いが動くたびに湧きあがる。
こみあげてくる気持ち悪さを祝詞で浄化するように唱えつづけ、ネイは進んだ。
やがて泉の半ばまで来ると水位が深まり、ネイの腰までを飲みこんだ。山鬼が更に慌て出した。
「おい、よせ! なんでそんな急に早まった真似してんだよ! 考え直せって!」
岸の村人たちからじゅうぶんに離れたことを確認してから、ネイは小声で答えた。
「こうすることはずっと考えていたのだ。おまえには申しわけないが。長老もわたしを怪しみはじめた。そういう意味でも潮時なんだ」
多分、怪しんでいたのは長老だけではなかったのだろう。村の大人たちの表情を思い出して、ネイは俯いた。
「だからおまえに死ねってか? これまで泉を守ってきたのはおまえじゃねーかよ。怪しいからさっさと処分なんて、おまえはそれでいいのかよ!?」
「それはおまえも同じだろう、山鬼」
ネイの言葉に山鬼は黙った。黒っぽい緑の水面はネイの胸元まで来ていた。
「おまえはわたしの魂を喰ったらさっさとどこかへ行ってしまうつもりだったろう。今までわたしを生かしておきながら、熟せば喰っておしまいだ。わたしの気持ちも関係なく」
ネイの長い髪が泥のような水に絡まり、進むたびに後ろへ引かれる。その重みがどこか自分の未練と同じ重さのような気がして、ネイは苦笑した。
「でもおまえは村を守ると約束してくれた。だから決心がついたのだ。……ただ喰われるだけなんて、嫌だった」
体じゅうが針で刺されているような痛みがやってくる。
穢れに満ちた泉の水は、邪気封じの数珠をつけていないネイにとっては毒の原液に浸っているも同じだった。だんだんとそれらが体内に滲みこみ、ネイの呼吸を浅くする。
「本当は、おまえと生きたかった……泣かなくていいから、せめてわたしのことを忘れてくれるなよ」
はあ、と苦しげに息を吐くと、ネイはそれきり黙った。水はすでにネイの肩までをとりこんでいる。
終わりが見えるからこそ、ようやくネイは自分の本音を言えた。
巫女として、村を守る者として、自分の想いは認められないものだとよくわかっていたから、こんなときにまでならないと言えなかった。
山鬼は今どんな顔をしているだろう。不快な表情を浮かべているだろうか。
想像してネイは彼を背中に背負っていてよかった、と思った。
「な……んだよ、それ。どういうことだよ! 答えろよ!」
山鬼はネイの背中で怒鳴った。
案山子に封じられた状態では彼には、薄い水色の空しか見えなかった。聞いてもネイは答えず、徐々にその全身が泉へと沈んでいく。
「生きたかったって何だよ! だったら生きろよ! 俺だって、おまえが死ぬのはっ」
そこで唐突に言葉が途切れた。そのまま後がつづかない。
ネイの足が止まり、顔が泣き顔に歪んだ。涙が零れるのをきつく目を閉じ、口を結んで堪えると、ネイは身体の縄を解きはじめた。
本当は儀式ではなく、独りよがりの心中だった。
鬼の山鬼は死なないけれど、せめて一緒に入水することで自分の我儘な想いを満足させたかった。
でも、そんなのはやはりよくない。
山鬼の心にネイの魂はあっても、ネイはいない。こんなことをすればよけい惨めになるだけだ。
「……おい?」
縄を解ききるとネイは案山子の顔を見ないようにその足を水底に刺し、一人、さらに深みへと進んだ。
「待てよ。やめろ! 行くな!」
山鬼が必死に呼ぶがネイは止まらなかった。
先程よりも歩調を速めるように中心へと進んでいく。山鬼は思わず追いかけようとしたが、封じられたからだがいうことを聞かない。ネイのかけた数珠がきつく束縛する。
「……くそっ! 勝手に決めんなよっ!!」
山鬼の怒りが頂点にまでくると案山子の体が小刻みに震えだした。山鬼は歯を食いしばり、今までで一番の力を出そうともがいた。
岸辺から祈りながら様子を見ていた村人たちも、案山子の異変に気づき再びざわつきはじめる。山鬼が見えない彼らは、もしや神が下りたのでは、とにわかに喜びだした。
低く唸りながら山鬼は意識を首元の数珠に集中させる。
まずは一個だ。一つが壊れれば呪縛は解ける。
ざわり、と空気が案山子の周りから逃げ出し、水面に波紋が広がる。
案山子の首の数珠からチリチリと鈴の音が零れはじめ、人間たちの様子を木陰から見ていたサワリガミや邪鬼たちも慌てた様子で逃げていく。
緊張した空気の変化にネイが気づいて振り返ったとき、案山子の首の数珠の一粒が弾けとんだ。思わずネイは目を見開いた。
破れるはずが無いと思っていたのに、ネイの目の前でそれは次々に亀裂を生じ、そこから一つずつ砕け散っていった。
「……こんな泉があるからいけない」
山鬼が僅かに息を乱しながら、怒りを抑えた声で呟いた。
すうっと案山子から出てくると、驚いたまま固まるネイを見下ろし、はっきりと言った。
「こんな泉、ぶっ壊してやる」
ネイが更に瞠目するのと、山鬼が右手を振りあげるのは同時だった。途端に暴風が吹き荒れ、緑に濁った水を巻きあげていく。岸辺の人間たちが悲鳴をあげながら降りかかる水から逃げはじめた。
「やめろ、山鬼っ」
ネイが叫ぶが山鬼はさっと宙に舞うと、振りあげたままだった右手を村のほうへ向かって振りおろした。
ずずず、という地鳴りと共に大地が震え、山鬼が示した直線上の木々がキシキシと音を立てながら傾いていく。そのまま次々に根こそぎ倒れていく。
一瞬山鬼は力むように目を細めたあと、咆哮をあげながら全身から力を迸らせた。その力の放出に泉全体が揺れ動き、水底に大きな亀裂が生じる。それはビシビシとうねりながら村へ向かって走り、一本の線を築きあげた。
泉の水はみるみるうちにその亀裂に沿って村へと流れ出ていき、ネイが見ている前であっという間に一つの川が出来あがった。逃げまどう村人の何人かがその流れに流されていく。
ネイは為すすべもなくその場に立ち竦んだ。
いつもふざけた調子の彼のなかにこんな恐ろしい力があるとは思わなかった。鬼が恐ろしいと、初めて思った。
ネイが僅かに震えながら鬼を見あげると、赤紫の目が見下ろしてくる。その色を見て、ああ、とネイはようやく思い出した。
「おまえは……本当はいつだって、逃げられたんだな」
なんでそんなに優しいんだ、と。ネイはたった今恐ろしいと思った鬼を、また少し好きになった。
「……泉もおまえも、溜めこんでるから駄目なんだよ」
山鬼は吐き捨てるように言い、ネイのもとに降り立った。
す、とネイが鬼の頬に手を伸ばすと、吹き荒れていた風が止む。ネイはまっすぐに鬼を見た。山鬼の頬は、濡れていた。
さっきまで荒れ狂う鬼神のような存在だった彼は今、ひどく切ない表情をしてネイを見ていた。
「言いたいことはちゃんと言え。じゃないとみんな澱んで駄目になる」
山鬼はネイを抱き寄せた。ネイが驚いて身を硬くすると、山鬼は更に抱く手に力をこめた。
「守ってやるよ。おまえも、おまえの村も。約束なんか関係無しに」
山鬼の言葉にネイは小さく首を振り、その腕のなかで泣いた。
冷たいはずの手を、温かいと感じた幼い頃を思い出す。多分それは間違いではなかった。ネイを抱くこの腕も胸も、今だってこんなに温かい。
「わたしを喰うんじゃなかったのか」
涙声の問いに、山鬼ははっきりと答えた。
「おまえは喰わない」
ネイが顔をあげると、山鬼は言った。
「おまえはもっと我儘になれ。俺が全部叶えてやるから。……だからもう泣くな。俺は笑ってるおまえを見ていたい」
「……鬼も人間も、たいがい勝手な生き物だな。でも、だからこそ愛しいのかもしれない」
ネイの頬に新たに涙が伝ったが、彼女は微笑んだ。その表情に山鬼も満足げに頷く。
ようやく鎮まった嵐に、あちこちから呻き声が上がりはじめる。ネイが首をめぐらすと、岸辺だった辺りに倒れていた村人たちが次々と起きあがっていた。
流されて行った者たちは分からないが、見た限りここにいる村人たちはみな無事だったようである。
殆どの水が流れ出ていった泉の中央で、そのとききらきらと陽光がかすかに煌めいた。
「山鬼、水が」
ネイが近寄って見ると、水底の亀裂から新たな湧き水ができていた。
汚れない、清らかな透明の水がちょろちょろと流れをつくりはじめる。
新たな再生の光景に、ネイは静かな感動を覚えた。その場に跪くと感謝の祝詞を捧げ、深く頭を垂れた。
ネイの姿を見つけた村人たちが名を呼びながら走ってきて、同じく湧き水を見つけて感嘆の声をあげた。
「ネイ様、これは……!」
「神の怒りに触れたかと思うたが、違ったのかの」
「凄まじい力に畏れ慄きましたが、これは神からの恵みでしょうか」
若者たちもネイの周りに集まって、嬉しそうな表情を浮かべる。ネイは頷いて立ちあがった。
「やがて泉に溜まった水は、村へと川となって注がれるでしょう。川は穢れも流してくれます。もう、泉が瘴気に包まれることは無いと思います」
ネイの言葉に村人たちはおお、と喜びの声をあげ、務めを果たした村の若い巫女を拝みだした。その姿に苦笑し、ネイは言った。
「わたしの力ではありません。拝むなら、あちらにおわす神を拝むべきです」
す、とネイは山鬼を、その後ろの案山子を、指さした。
ぎょっとした様子の山鬼を通り越して、村人たちは泉のなかほどに立ったままの案山子のもとまでゆくと、熱心に手をあわせた。その様に山鬼までもが苦笑する。
「人間も案外正直なもんだな」
敵わん、と山鬼は頭の後ろで腕を組んだ。
「………流された奴らもちゃんと無事だぜ。おまえを泣かせたくはねーからな」
ぼそりと呟かれた内容に、ネイは笑みを浮かべて頷いた。
「ありがとう、山鬼。わたしはおまえが好きだ」
途端に鬼が組んでいた腕を離し、顔を赤らめて固まった。その反応にネイはくすくすと笑いはじめる。
今まで見せたことの無い明るい笑顔に、固まっていた山鬼も呆れたように肩をすくめるとつられて笑い出した。
「ったく……今度は素直すぎるんだよ」
喜びに満ちた村人たちの頭上で、青い空にヒヨドリが舞い、やがて山の木々にとまると声高くさえずりだした。
ようやく村に平穏が戻りはじめていた。
*
穏やかに晴れた空の下、丘の上からネイは田を見下ろしていた。
あちこちの稲穂がガサガサと揺れ、金色に染まった田のなかから村人たちがときおり顔を出す。村では稲の収穫がはじまっていた。畦道の上から長老が指示を出すのへ、若者たちも素直に従っている。
昨年に比べて実りはよくないが、村人たちの表情は晴れやかだ。ネイはふ、と笑みを浮かべ、隣の山鬼に話しかけた。
「みんな幸せそうで本当によかった。おまえにも本当に感謝している」
「感謝はいいけどよ、毎日毎日拝みに来られちゃ気が滅入るぜ、まったく」
山鬼はネイの横に立ち、木通を片手に同じく村の稲刈りの様子を眺めていた。泉の脇には今では案山子が祀られており、その祠に彼は棲みついていた。
山鬼は持っていた最後の一つの木通を、大事そうに割り開いた。
「川ができたおかげで田にも水がよく渡るようになったし、生活も随分と楽になった。拝まずにはいられないのだ。わかってくれ」
ネイが苦笑すると山鬼は肩をすくめた。
「あいつらが拝んでんのは俺じゃなくて案山子だぞ」
「そのなかにいる、守り神だ」
「だから俺は神じゃねーって」
山鬼がさんざん議論したはずの言葉をまたぶり返す。
ネイはあの神下ろしの儀式の後、かねてから自分が思っていた考えを山鬼に話した。
人間が畏れ敬い崇める神という存在は、実は鬼なのでは無いかという、推測だ。もちろんネイも全てがそうだとは思わない。でもこうして山鬼と一緒にいると、どうしてもそう考えてしまうのだった。
「だがこの村にとって、わたしにとって、山鬼は守り神だ」
ネイが満面の笑顔で見あげると、鬼は木通を食べかけた状態のまま固まり、遅れてごくりと実を種ごと飲みこんだ。
「………甘い」
苦虫を噛み潰したような山鬼の言葉に、ネイは堪らず声をあげて笑った。
おわり