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芥子粒のようだったカイティーリヤの艦が、みるみる大きくなっていく。暮れかけた海の上を、黒い影となって覆いつくそうとする。
もう望遠鏡を使わなくてもはっきり見えるようになった艦上には、なびくカイティーリヤの旗が見えた。
「全員、戦闘配置!」
副長や士官の声に水夫たちが動きだす。
が、その動きに常の切れがない。まるで徴募されたばかりの新人水夫のようだ。だらだらとした動き。迷いという不可視の存在がこれだけ動きを妨げるのか。
アレクシスは歯を噛みしめた。
前の会合の時にテンぺレスト号を見た。タールの臭いも新しい、三十二門搭載の新造艦。きっと真新しい船体にはフジツボも藻もついていない。同じフリゲート艦とはいえあちらのほうが速度が出る。砲も飛距離の長いものを積んでいるかもしれない。こんな動きの鈍い艦では勝てない。
勝つ?
なんのために?
アレクシスの頭の中に疑問が浮かぶ。
勝利を捧げるべき相手はもういない。自分は失敗したただの逆賊だ。なんのために自分は反撃を命じようとしているのか。
艦橋に立ちつくしたアレクシスの周囲を、のろのろと水夫たちが通り過ぎていく。士官たちの怒声もその歩みを速めることはできない。
「艦長」
忠実なテニスンが声をかけてくる。
アレクシスはテニスンのつぶれた、刀傷の残る顔を見た。
その古い傷はまだ一介の海尉だった自分をかばってつけたものだ。一度、濡れ衣を着せられて鞭うたれようとしていたこの男を救ったことがある。ただそれだけのことで、それからずっと、この男は犬のように自分の後をついてきた。
『故郷に家族はいねえです。死んでも哀しむ者はいねえですから、大丈夫すよ、海尉』にたりと笑ってつぶやいた声を思い出す。
この男も気の毒な身だ。いや、馬鹿なのかもしれない。なぜこんな情けない男に大切な命を捧げるというのか。
アレクシスの顔が歪む。
顔をあげ、隣に立つ副長を見る。
静かに後ろで手を組み、水夫たちを眺めている。こちらを責めず、黙って自分の命令を待っている。『私には妻子がいるんです。身軽な独り者と違って命令だからと即座に従って命を落とすわけにはいかないんですよ』そう言っていたくせに。
水夫たち、一人一人の顔を見る。
ワイズは強制徴募に引っかかった。国には新婚の妻が待っている。スロウは元商工会議所の書記だ。貯めた金で気候のいいウィザー地方に家を買うのだと言っていた。
シュール、スミス、ゴードン……。自分の部下たち。その顔の一つ一つに故郷があり、夢がある。
国王陛下のため。
本当にそれだけを胸に自分は戦ってきたのだろうか。
自分の自己満足な忠誠に巻き込んだ彼ら、つき従ってくれる彼ら。自分は彼らを死なせたくなくて戦ってきたのではないのか。一人でも多く、故郷に返すために踏ん張ってきたのではないのか?
国、とは人。忠誠とは愛。
ちっぽけな自分に大きな国を背負うのは無理だ。だが、この艦によりそっている愛すべき部下たち、彼らを救えずに何が艦長か。
決断しろ。
アレクシスは深く息を吸い込んだ。ゆっくりと眼を閉じる。再び開いた瞳には迷いはなかった。
鋭い意志の光を浮かべて、アレクシスは言った。
「皆、聞いて欲しい」
声の届く範囲にいる者たちが振り向く。
「フォルマスたちの言っていたことは本当だ。王党派であるラドウィック提督は捕えられた。国では順繰りに王党派が捕縛されている」
どよめきが起こった。
アレクシスはそれがおさまるのを待たずに、言葉を継いだ。
「が、お前たちは決して吊るさせない。私が責任を負う。そのために艦長がいるのだ。だからこの戦いを生き抜いてくれ。私のためでなく、国王陛下のためでなくていい。国のためなどという大義でなくていい。故郷で待つ家族のため、自分自身の命のため。個人の小さな願いのためでいい。どうか私の命令に従ってくれ」
昇降口に陣取った士官たちの口を介してアレクシスの言葉が伝わっていく。
「勝つぞ」
アレクシスは静かに言った。今では艦上はしんと静まり返っていた。
「勝って、未来を手に入れる。迷うのも悩むのも。そして選び取るのも。命がないとできない。俺は勝つために全力をつくす。だから、信じてくれ」
アレクシスは唇を閉じた。
今度はじっと待つ。無限とも思えるぴりぴりした時が流れていく。
「……艦長の言うとおりだ。俺は死にたくない」
マストの上から声がした。血が滲んだシャツ。鞭うち刑を受けたフォルマスだ。傷を負っているので力仕事ではない見張りに駆り出されたのだろう。
「俺もだ。俺は故郷に赤ん坊がいるんだ。まだ顔も見てない」
もう一人、ぎこちなく身をかがめた男が言う。
後は勢いのついた激流のようだった。水夫たちが口々に叫ぶ。船板を打ちならし、鬨の声をあげる。
「絶対、帰ってやる。こんなとこで死んでたまるか!」
「カイティーリヤのくそ野郎がっ」
動きが止まっていた艦上に一気に生が芽生える。きびきびと動きだした男たちの間をぬって、姿を消していたテニスンがぬっと大きな体を現す。
「艦長、剣帯でさ」
低い声でつぶやきながら、テニスンがアレクシスの腰に固い革を巻きつける。わざわざ艦長室まで取りに行ってくれていたらしい。
砂を入れたバケツを手に子鼠のように走る少年兵、各砲手長が手早く点火装置の引き綱を点検する。小山のように間近に迫ったカイティーリヤ艦の、黒々と口を開けた砲門が見える。
「右舷砲列、斉射用意っ!」
アレクシスは叫んだ。各担当士官が復唱し、艦の隅々にまで命令を伝える。
「撃てっ」
足元で艦に振動が走る。空気が揺らぎ、硝煙の白い煙で満ちる。テンぺレスト号からも返礼の砲弾が容赦なく飛んでくる。
「砲を引き戻せっ、スポンジはどこだっ」
飛び散る木の破片、血を流しうめく水夫。切れた索具が鞭のようにうなり、運の悪い少年兵を海へと弾き飛ばす。
これは俺のせいだ。俺が命じたから。
アレクシスは指示を飛ばす。艦長として判断し、命じる。
誰にも肩代わりさせられない孤独、だが、生きている。
「撃てっ」
激しい応酬、震動。
そして。
終わりのないような時間の果てに、テンぺレスト号のメインマストがめりめりと音をたてて、ゆっくりと倒れていく。
「よし! このまま逃げ切るぞ! 舵、南東! 二段縮帆ほどけっ」
アレクシスは舵輪わきに立つ航海長に叫んだ。うなずく航海長の顔を確認した瞬間、アレクシスの胸を衝撃が襲った。
どん、と突き飛ばされて、舷側の手すりに叩きつけられる。
狙撃されたのだと気づいたのは、自分の白いシャツに深紅が広がっていくのを見た時だった。眼を見開いたテニスンの顔が見える。昇降口から顔を出す憎らしい魔女の顔も。
ああ、砲撃で船倉の壁が破れたのだな、無事でよかった。
その考えを最後に。
アレクシスの体はよろめき、泡立つ海へと落下していった。




