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艦尾窓からさす夕陽が血のようだ。
ぼんやりと椅子に座っていたアレクシスは、強張ってしまった体を動かした。
気がつくと隣に魔女がいた。
再びアレクシスのぶかぶかの服を着て、足は素足のままだ。火傷の痕は消えている。が、赤い陽光がむき出しの足に当たって、かじかんで赤くなっているように見える。
南洋育ちの魔女にブラン近辺の寒さはこたえるのだろう。
新しい靴をどう調達しようかと考えはじめたアレクシスに、魔女が言う。
「落ち込むぐらいならやらなければいい」
正論だ。アレクシスは苦く笑った。
「艦の上では誰が神か分からせなければならない。国王陛下の艦として規律を保つためだ」
「もう国王陛下の艦ではないだろう。お前が迷うからいけないんだ。不安は簡単に伝染する」
また正論だ。アレクシスは深い息を吐いた。誰に聞かせるでもなく、ぽつぽつと語る。
「……艦長というものは孤独なものだ。広い海原でただ一人、全ての責を負わなくてはならない。自分の小ささに圧倒される。崩れないでいられる支えが必要だ。俺の場合、それが陛下だった。陛下のためという心があったから、俺は神でいられた」
「違うな。お前では神にはなれない。国王陛下とやらの名にすがっているようではな。神とはもっと孤独なものだ。なにしろ責任を押し付ける相手がいない」
「神を語るのか? 魔女の分際で」
魔女が胸を張る。
「魔女とはお前達が勝手に呼んでいる名だ。私は南大洋環状諸島では海の娘、サルサーラと呼ばれている。海を、この世界を守っているのだ。まあ、お前達の言葉でいうと女神だな。小さなお前から見れば私は想像もできない大きな存在なのだぞ」
「勝手に言っていろ」
アレクシスは魔女から眼を背け、窓の外に広がる大海原を眺めた。魔女も顔を紅に染め、夕焼けの海を眺める。
ゆっくりと上下する艦の動き。それに合わせて夕日も海も上下に動く。
やがて、魔女が口を開いた。
「なあ、大きすぎる存在がどうやって心を保つか知っているか?」
ぽつりと言葉を落とす。
「海は広い。大きい。その内にいると大義に飲まれ、自分を見失いそうになる。だから私は見つけることにしたのだ。ちっぽけな愛せる者を。その者を守るために私はここにいるのだと自分に言い聞かせるために。七十年ごとの祭事はそのためだ。私は地上に出て、ちっぽけな人に触れ、自分を保つのだ」
アレクシスは魔女の顔を見た。魔女は夕日に染まった海をまっすぐに見つめていた。
「お前の忠誠をけなすわけではない。人とはみな小さなものだ。個であるのに個でいられないから不安になる。揺れる。求める。それは恥じることではない。だから誰かを希望の灯にするのはいい。だがな、すがっては駄目なのだ。それでは己の足で立っているとは言えない。人に寄りかかってばかりでは不安はなくならない」
魔女が振り向く。
「自分の内を見ろ」
魔女の青い瞳が夕日に染まって、炎のように輝いている。その眼でアレクシスを見据える。
「己自身という小さな国。まず、そこの王になってみせろ。そうすれば一人で立てる。そのうえで必要なら小さな希望を探せ。それができれば周囲に寄って来た者達をも支えることができるだろう」
「……簡単に言ってくれる」
小さくアレクシスは言った。魔女がにやりといつもの笑みを浮かべる。
「子どものお前には難しすぎたか?」
魔女が手をのばして、小さな子どもにするようにアレクシスの頭をなでる。
アレクシスはあきれた。艦上で艦長たる自分にこんな真似をするのは、この魔女くらいだ。
一瞬怒ろうかとも思ったが、その気力もわかない。そのまま好きにさせておくことにする。
ゆっくりと動く白い小さな手。
強張っていた頭の中がゆっくりとこなれていく。
これが魔女の人を堕落させる手口なのかもしれない。しかしアレクシスは振り払うことができなかった。眼を閉じて、寄せては返す波と同じ動きに身をまかせる。
「なあ、お前は今、やるべきことがないのだろう? そして考える時間が必要だ。ならばとりあえず私を支えにしろ。私の望みを聞け」
アレクシスは眼をあけて、魔女を見る。
魔女は真剣な顔をアレクシスに向けていた。
「私は一刻でも早く南海へ戻らなくてはならない。さもないと、海が死ぬのだ」
南大洋には円を描く大きな海底の流れがある。
深い海の底で起きる流れ。その流れが海を旅し、表面に浮きあがり、潮の流れとなって生命をはぐくむ。流れが滞れば海は淀み、死んでいく。
その流れを作るのがサルサーラと呼ばれる海の娘。太古より、海の底の神殿で朽ちることなく風をおこし、海流を作る巫女だ。
「それだけではない。海流が滞れば陸にも影響が出る。お前、気づかなかったか? ブランの気候は寒くなっているだろう。南で暖められた海流が沖を流れなくなっているからだ。このままでは遠からず世界が狂う」
「それを信じろと?」
警戒心を言葉にのせると、魔女が一瞬傷ついたような顔をした。その顔にアレクシスの胸がずきりと痛む。良心、はこの場所にあるのだろうか。
魔女が開き直ったように言う。
「ああ、そうだな。私は魔女だ。私は嵐をおこす。船を沈め、人を殺す。何のために? 世界を守る。綺麗な言葉だ。違うよ。私の自己満足だ。正直に言うさ、自分を悲劇の巫女にするのはもう飽いた」
「そんなつもりで言ったのではない」
あわててアレクシスは言った。
魔女が残光の滲む海に視線をすえて言う。
「私は魔女。卑劣な存在。目的を遂げるためならなんでもするさ。いくらでも汚れる。泥をかぶる。時間がないのだ。体裁など構っていられない。お堅い艦長殿をたぶらかすなど序の口だ」
「そうですね。確かにあなたは目的のためなら何でもする女だ」
冷やかな副長の声が扉の開く音とともに部屋に入ってきた。
薄暗い船室に副長が手に持ったカンテラの灯りが眩しい。いつの間にこんなに暗くなっていたのか。
眼を覆いつつ、アレクシスは問いかけた。
「副長? 何かあったのか?」
副長がため息をつきつつ頭を振る。
「私がいない隙に何をたぶらかされかかっておられるのやら。下層まで行って詳しく聞きとりをしました。そこの魔女殿は、我々がいない隙に水夫達に呼びかけていたようです」
副長の冷やかな瞳が魔女の顔を射る。
「このままでは吊るされるぞ。呪いだ。私を早く南海に捧げろ。さもないと陸にいる恋しい家族が死ぬぞ、と。よほど南海に帰りたいらしい。扇動はよその艦でやってもらいたいものですね。迷惑です」
「な…に……?」
「おかしいと思ったのですよ。政治情勢など考えたこともない水夫達がなぜあんな結論を出したのか。で、少し調べてみればこれです。恩を仇で返すとはこのことですね。犬よりタチが悪い」
アレクシスの頭に血が昇る。傾きかけていた心の天秤が跳ね戻り、裏切られたという想いが渦を巻く。
「魔女が!」
アレクシスは椅子を倒して立ち上がった。
「やはりお前は魔女だ! 心の隙間に入り込み、人を利用する!」
睨みつけるアレクシスに、平然とした顔で魔女が答える。
「悪いか? 私には為さねばならないことがある。大義のためだ。そういえばなんでも許されるのだろう? お前も王女のためと私を利用しようとした。同じだ」
「俺の忠誠とお前の薄汚い欲を一緒にするな!」
「同じさ。お前も分かっているはずだ。で、どうする。私を海に捨てるのか? 苦労して手に入れた私を? 唯一の交換品である私を?」
アレクシスは手を握りしめた。
その時。フォア・トップに取りついていた見張りが大声で怒鳴るのが聞こえた。
「船影です! 左舷後方。旗、見えました。あれはカイティーリヤ艦だ、テンぺレスト号です! 追ってきやがったんだ!」
アレクシスは甲板の方を見た。魔女が鼻で笑う。
「私にかまっている暇はなさそうだな、艦長」
アレクシスは唇を噛んだ。
「……船倉に閉じ込めておけ」
副長にそれだけ言うと、アレクシスは三角帽に手を伸ばして船室を後にした。