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月の下、銀色に光る砂を踏んでボートへ戻る。
「艦長、魔女はなんと言ってあなたを困らせているので?」
ボートの側で待っていたテニスンが、ぼそりと言う。
「上陸した若い奴らの中にゃ、さっそく相手を見つけて国には戻らねえと言っている者もおりやす。艦長もここで暮らしなすったらいい」
アレクシスは立ち止まった。テニスンの顔を見る。
「副長から聞きやした。ブランへ帰りゃ、艦長は罪は免れないと。なら、俺はどこへでもお供しやす」
テニスンの黒い瞳に星影がうつり、またたいている。口下手なテニスンの胸の内を、その綺麗な光がおぎなっているかのようだ。
「……得難い男だな、お前は。俺になんかもったいない」
アレクシスは顔を下にむけた。
「テニスン。考え事をしたい。一人にしてくれないか」
テニスンがうなずくと、カンテラをそっと砂浜におく。
「合図してくだせえ。すぐ、迎えにあがりやすから」
頼もしい背が波打ち際で待つボートの方へと去っていく。そして、低い掛け声。船底が砂をこする音がしてオールで水を打つ音が遠ざかっていく。
入り江の中ほどに浮かんでいるウィンダム号が月と星の光で青い色に染まっていた。
こうして外から艦を見るのも久しぶりだ。
アレクシスは浜辺に座った。白い砂がきしりと音をたてた。
海が死ぬ。
魔女、いや、海の娘サルサーラと一度心をつなげた今、それが真実であるとわかる。サルサーラはこの海の、いや、もっと大きい、この世界の力の要なのだ。考えるまでもない。サルサーラを海に戻すべきだ。
が、サルサーラを海に戻せば嵐をおこす。
ここはまた中継地点として使えなくなる。ブラン王国は一歩、列強に後れをとることになる。
それは祖国に対する裏切りだ。二度とブランの土は踏めない。ジョージ八世の復権を願い反抗の狼煙をあげたのとはわけが違う。
まだ幼いジェレミーの顔が浮かぶ。国に妻子がいる水夫たちの顔も。
自分一人なら腹は決まっている。だがこれ以上、彼らを巻き込むわけにはいかない。
アレクシスは自分の上着を見下ろした。
青地に黒の折り返し。金のモールとボタンで飾られた軍服。十年来、着慣れた服だ。その袖と肩には艦長の身分を表す誇らしげな金のモールが縫い付けられている。
アレクシスは手を伸ばした。金のモールを引きちぎる。
ちぎり取ったモールを砂浜に落とし、森へと帰ろうとしたアレクシスの背に声がかけられた。
「どこへ行くんですか?」
ふり返ると、ゆっくりとこちらに歩いてくる副長の姿があった。
「副長、戻ったのか」
「はい。テニスンにこちらだと聞いて。まだ復活のお祝いを言っていませんでしたからね」
砂を踏みしめて、副長が立ち止まる。アレクシスとは一歩距離をとり、向かい合う。彼はそのまま腰にさげていた剣を引き抜いた。
「副長?」
刃先をアレクシスに向けて、副長が口を開く。
「前にも言いましたね。私には家族がいるんですよ。居留地で集めた情報によれば、エドワード陛下の地位は盤石。どう転んでも王党派に勝ち目はなさそうです。これ以上あなたについていても益はないでしょうね」
剣を構えたまま、副長がにっこりと笑う。
「これは脅迫です、艦長。ウィンダム号のボートを数艘、こちらに渡してもらいましょうか」
口を開きかけたアレクシスを制して、副長が言葉をつなげる。
「私はこの近辺を航行しているブラン艦に助けを求めます。艦長が狂った、止めようとしたら追い出された、とね。あなたには艦が必要だ。違いますか? あなたについていけない者は私が連れていきます。あなたに枷はない。心おきなく進んでください」
アレクシスの顔がくしゃくしゃに歪んだ。副長がにっこり笑う。
「貸し一つです。私が南方勤務艦の艦長になったら、たまには手柄をよこしてくださいよ」
「……お前は抜け目がないな」
アレクシスはようやくそれだけを言った。
前に出て、副長を抱きしめる。その背をぽんぽんと副長が叩いた。
***
甲板に全員を集め、アレクシスは今の状況を説明した。
包み隠さず、全てを。
ブラン王国の政治事情。サルサーラの役割。そして。ここに残ればならず者となり、二度とブランの土を踏めなくなることも。
「俺からの話は以上だ」
アレクシスは言った。
「後は皆、自分で決めてくれ。ここに残るか。副長とブランへ帰るか。どちらを選んでも俺は責めない。」
水夫の一人が恐る恐るといったふうに口を開く。
「残って。それで艦長はどうなさるんで」
「そうだな。ウィンダム号があることだし。海賊にでもなるか」
アレクシスは冗談めかして口にする。今まではブラン王国海軍の肩書きがあった。が、これからはそれに頼れない。海賊は捕まりしだい縛り首だ。
「俺は残りやす」
テニスンが低い声で言う。
「命令してくだせえ、艦長。俺はただの水夫だ。国のことなんか何も分からねえ。どっち向きゃお天道様に顔向けできるのか、それすら分からねえ。でも、あなたが正しいってことは分かりやす。だから俺はあなたに従いやす」
そうだそうだと水夫たちが叫ぶ。
一方で。
副長とともに帰ることを決めた水夫達がなごりを惜しみながら互いに肩をたたき合っていた。
***
ボートが去り、水夫の間に隙間が目立つようになった甲板でアレクシスは魔女に言った。
「俺はもう迷わん」
魔女が瞳を小悪魔のように煌めかせてからかう。
「やっと自分の足で立てたのか、ぼうや」
「言ってろ」
背後には部下たちがいる。彼らを率い自分の責任で立たなくてはならない。もう迷わない。迷っていては申し訳が立たない。
魔女、と呼びかけ、ふと口ごもる。
「そういえばお前の名は? お前も人であったのなら、名前を持っていたのではないか?」
「本当の名? さあ、忘れたな。私はサルサーラ。女神だぞ?」
表情を改めて、魔女が言う。
「私はお前を利用する」
「ああ、俺はそれに応じる。俺の意思で」
魔女が踵を返し、サハ達の乗る小船に移動する。彼らはこのままマングローブの林に隠れ、時を待つのだ。副長のボートはすでに居留地に着き、ウィンダム号の位置を知らせているだろう。
今夜、神殿が浮上する。
勝負の日だ。
アレクシスは命じた。
「旗をあげろ!」
ジョージ八世旗を降ろし、掌帆長が徹夜で仕上げた真っ白い旗をあげる。
まだそこに描く印は決まっていない。
だが、それは紛れもなく己の旗だった。




