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「生きなさい」
ゆらゆらと水面から降る群青の光を浴びながら、少女が唇を動かした。
「あなたはまだ水底に沈むには早すぎる」
少女の長い髪が水の中に優しく広がっていた。
音を伝えないはずの水の中で、温もりを伝えないはずの海の中で。
確かに俺はその温かい声を聞いた。
1・囚われの魔女
痛みすらともなう、冷たい風が吹きつけていた。
北海を望む崖の上に立つ古城。
周囲に広がるのは夜の荒野だ。まばらに生えたヒースや白茶けた草が厳しすぎる風に身を震わせ地に伏している。時が止まったような石造りの胸壁には、いつもはもの寂しい風と波の音しかこだましない。
その古城が今、剣戟の音と苦悶の声、それに男たちの激しい息づかいで満ちていた。
秩序の無い怒号の中、凛とした声が響きわたる。
「一班はここで路を確保。残りは俺と来い!」
アレクシスは指示を飛ばした。
青に黒い折り返しのブラン王国海軍士官の軍服がたいまつの炎にゆらめく。
大海原を吹きわたる潮風にさらされた髪、照りつける陽に焼けた鉄色の肌。そこのみ柔らかな陸の色、萌えいずる木々の緑を宿した瞳が若々しい光をたたえて前方を見すえていた。
士官候補生として幼い頃より海軍に身を置き十年。戦闘に慣れた体が動き、使命に燃えた胸の内を現すように、手にした剣が鮮やかな輝きを放って、守備兵たちを切り倒す。
「な、ぜ、ブラン海軍が、友軍が攻めてくる……?!」
うめくようにつぶやいて、守備兵たちが崩れ落ちる。
アレクシスは抜身の剣を手に、図面で示された塔へと迷わず進んだ。
かけられた錠を短銃で吹き飛ばして、地下へつうじる螺旋階段を駆けくだる。後には、カトラスを手にした部下の水夫たちが遅れまいと従っていた。
塔の最下層。
錆びのういた鉄格子の向こうに、目的の少女はいた。
十四、五歳にしか見えない少女が、細い足首に錆の浮いた重い鉄枷をかけられて、冷たい石床に横たわっている。
一瞬、その姿に哀れみを感じかけて、顔をふる。
これは人ではない、魔女だ。七十年前、南海で捕えられこのブラン王国に連れてこられた人外の存在。嵐を起こし、船を沈める海の魔女。陸に囚われて魔力を失っていると聞くが、用心を怠るべきではない。
アレクシスは鉄格子を蹴って、声をかけた。
「おい、起きろ」
少女が藁すら敷かれていない石床からゆっくりと身をおこすと、眩しげにカンテラの光を見た。そして口を開く。
「誰だ?」
澄んだ声だった。無垢な少女そのものの、希望にふるえる声。
彼女はか細い喉をふるわせると、アレクシスに問いかけてきた。
「まさか、お前か? あの時の少年、私を覚えていたのか? そして連れ出しにきてくれたのか……?」
白い小さな顔が喜びに輝いて、こちらをむく。さらりと揺れる銀糸の髪、ひたむきな海の青の瞳がこちらを見つめる。淀んだ闇の中、白い腕があげられて、ぼろ布のような服の袖から、一度も日に曝されたことのない、深海に眠る真珠のような肌が見えた。
どこかで見たことがあるような柔らかな彼女の肢体に、アレクシスの背をぞくりと痺れが走った。
ふらりと体が前に動きかけて、理性が警鐘を鳴らす。
おかしい。辺りには腐臭がたちこめている。
水はけの悪い、地下の石牢だ。空気も淀んでいる。床は水垢でぬめっているし、壁もよくわからない染みだらけだ。お上品な紳士淑女など、一歩足を踏み入れるだけであまりの悪臭に後ずさるだろう。
そんな劣悪な環境の中、彼女の美しい銀の髪や透ける白い肌が光り輝いているように見える。
それがおかしい。何年もの間地下牢に繋がれ、沐浴など許されているはずもない少女が、なぜこんな清らかな姿を保っていられるのだ。
魔女、だから?
この姿は人を惑わすためのものだから?
騙されてはいけない。アレクシスは踏みだしかけていた足を元に戻すと、鉄格子越しに少女に剣を突きつけた。
「一緒にきてもらおう、南海の魔女。我が王女を救うための質になってもらう」
少女のさしあげられていた腕が止まる。
次の瞬間、少女の顔から夢見るような表情が消えて、狡猾な魔性の顔が現れる。
無垢なる少女の演技が通じないと思ったのか。本性をあらわにした魔女が、紅い唇の端をつりあげて笑った。
「それが人に頼む時の態度か?」
顎をくいと傲慢にあげて、魔女がせせら笑う。
「王女を救うためと言ったな。さしずめお前は姫に仕える騎士か? ならば私にも貴夫人に対する礼をして乞え。そうすれば話を聞いてやってもいいぞ」
汚水のたまった石床から、冷気と静けさがたち昇る。けおされた水夫たちがごくりと唾を飲む音が聞こえた。
身を起こした魔女がゆっくりと足を組むと、床に座った。そしてこちらを見下す。
傲慢な態度に怒りの声をあげかけたアレクシスは、眉根をよせた。魔女の髪がゆれて、隠れていた半面が露わになったのだ。
そこにあるのは殴られたと思しき赤黒い痕。
よく見れば身につけた服もあちらこちらが破れ、その下にできた痣が垣間見える。強く握れば折れてしまいそうなか細い骨格は、彼女が食べ物も満足に与えられず、運動もさせてもらえなかった証だ。そのうえに痣があるなど、彼女がここでどんな扱いを受けていたか一目でわかる。
アレクシスは廊下の隅で縮こまっている牢番に厳しい眼を向けた。牢番がもごもごと、これが仕事で、と呟きながら顔を伏せる。卑劣な牢番を殴りつけそうになった自分をアレクシスは止めた。
自分も命じられてこの魔女を攫いに来た。牢番を責める資格はない。
不潔な石床の上を大きな鼠が走っていく。じめじめと地下水を染みださせる荒削りの壁。そんな劣悪な環境の中にあって、ぼろぼろの服をまとった魔女は女王のごとく胸を張り、尊大に言った。
「どうした。私が必要なのではないのか?」
アレクシスは剣の柄を握る手に力をこめると、口を開いた。
「ああ、お前が必要だ。だが捕虜に礼を尽くさなくてはならないいわれはない」
牢番をこづくと、牢の扉を開けさせる。魔女の足かせも外させると、計画通りに、持参した麻布の中に縛り上げた魔女を入れる。
「おい、この扱は何だ、私は荷物ではないぞ?!」
「うるさい、じっとしていろ。さるぐつわもはめられたいのか?」
もがく魔女を恫喝する。
これは任務だ。
自分に言い聞かせたアレクシスは水夫達に撤収の指示をだした。
****
荒い波が打ち寄せる岩の間から、沖にカンテラを大きく二度ふる。
見つかる恐れがあるので海上にあるフリゲート艦、ウィンダム号からの返事はない。通じたことを祈って、カンテラに覆いをかけると迎えのボートを待つ。
「では、幸運を」
「ジョージ八世陛下の御為に」
短く声をかけて、陸での支援者たちが馬を集めて去っていく。
残された男たちは、狭い岩場に座って待機する。風に流れてくる飛沫から身を背けながら水夫たちがちらちらとうごめく麻袋に眼をやっていた。
「艦長、本当にこの娘を艦に乗せるので?」
のっそりと巌のような大きな体を寄せ、艇長のテニスンがアレクシスに囁いた。
テニスンの不安は水夫たち共通のもののようだった。口こそ開かないが岩陰に身を潜めた水夫たちは皆、アレクシスの答えを求めてこちらを見ている。
自分たちが先程襲った古城は自国の城、守っていたのは自国の兵士だ。不安になるのも無理はない。
出立前に説明はした。
クーデターを起こし、国王であるジョージ八世を幽閉した王弟が、現在このブラン王国の国王だ。だがそれは正しい形ではない。ジョージ八世を救いだして玉座に還り咲いていただくか、その息女であるベアトリス王女に王位を継いでいただく。それこそがブラン海軍に属する自分たちの使命だ。
そのためにはこの魔女が必要なのだと、彼らには説明した。
だが、何年も続く海を隔てた隣国カイティーリヤとの小競り合いの日々に生きる彼らだ。自分が生き残ることのみを案じて、国の行く末など考えたこともない水夫たちだ。同じブラン王国の兵同士が戦うことに混乱している。
「艦に乗せるのはわずかな間だけだ。それよりその魔女の顔をだしてやれ。窒息されて死なれても困る」
アレクシスの指示に麻袋から顔だけ出され、猿ぐつわをとられた魔女が息を吐く。
「ふう、海の風だ。十年ぶりか」
その時、分厚い雲が強風に千切られて月が顔をだした。そして麻袋から顔を出した魔女の面をてらす。
地上に新たな月が現れたようだった。
さらさらと流れる銀の髪、透けるように白い肌。美しい。
地上に落ちる光の断片を浴びて、魔女が心地よさげに顔を夜の海に向ける。その片頬から痣が消えかけていることにアレクシスは気づいた。無力なさまに魔女という話を疑いかけていたが、どうやら人外の存在であるのは真実らしい。
魔女がこちらのとまどいなどに気づかぬように口を開く。
「聞こえたぞ。牢の中にも噂は届いている。ジョージ八世、と言うからにはお前達は反逆兵か。クーデターで転覆させられた王についている」
「我々は王党派だ! 俺達こそが真のブラン王国の忠臣だ!」
若い水夫が頬を染めて叫ぶ。
それを鼻で笑いながら、魔女がアレクシスに問いかけた。
「王が変わった今、忠臣も何もないだろう。どちらかと言えばお前達の方こそ反逆者だ。現王にたてつこうというのだからな。で? 私をどう使うつもりだ。それぐらい教えろ。私と蟄居中の元王女を引きかえろと要求するのか?」
「お前にそこまでの価値があるものか。お前は海の向こうのカイティーリヤに引き渡す」
アレクシスは答えた。隠してもすぐに分かることだ。
「そうか。私は他国の王に売られるわけだ」
ほうとため息を一つもらすと魔女が岩に身をもたれさせる。
「見返りは武器か兵士か。それでお前たちは叛逆ののろしをあげると。お前たちはそれでいいが、取引の材料にされた私はどうなるのだろうな。あの国はがちがちの宗教国だ。魔女裁判も未だにおこなわれているそうだな。そんな国につれていかれて、〈魔女〉の私はどんな目にあわされるのだろうな……」
分厚い麻袋の上からでも魔女のほっそりとした体の線が分かる。
憂いをたたえた青い瞳を長い銀の睫毛が覆い、月の滴を受け止めている。水夫たちがごくりと唾を飲み込むのが聞こえた。さっきまで怖がっていたくせに、水夫たちは魔女のか弱い娘に演技にまどわされつつあるらしい。
アレクシスはため息をつくと、魔女の体を足でこづいた。
「へたな芝居はよせ」
赤い舌をちらりと出すと魔女が身をおこす。
「ばれたか。だが、お前も少しはぞくりときたのではないか? 男なのだしな」
「俺は任務中は余計な事は考えん」
「お堅い艦長殿だ」
くすくすと魔女が笑う。神経を逆なでする笑い方だ。体についた多数の痣の理由が分かった気がする。この魔女はいつもこんな調子で男たちをからかってばかりいるのだろう。
アレクシスは眉をしかめながら言った。
「お前はいつもそうなのか? 人を馬鹿にしたような態度をとる」
「私にとって人間は二種類しかいない。私を崇める馬鹿と崇めない馬鹿だ。馬鹿をからかうのはおもしろい。特に何十年もあんな地下牢に閉じ決められて他に娯楽がない時はな。違うか?」
「……本当にお前は魔女なのだな。性格がねじくれ曲がっている。では不死というのも真実なのか、何十年もあそこで過ごしていたというのも?」
「人と同じでないのは確かだが、魔女と名乗った覚えはないぞ。お前達が勝手にそう呼んでいるだけだ。不死かどうかは死んだことがないから分からん。だが傷を負えば痛む。病にかかれば苦しい。優しくしてくれよ」
しなをつくり、魔女が艶っぽく言う。アレクシスはそれを無視して海に眼を向けた。水を叩く音がしてボートが闇の中から姿を現すところだった。夜霧の中、現れる黒い渡し。不吉な情景を見て、魔女が笑いながら口を開いた。
「黄泉への渡しか。私にとってはまさにそのとおりだな。そういえば艦長、名はなんという。別に呪ったりしないから教えろ」
「魔女に名を聞かれるとはな。アレクシス・カインだ。お前の名は言わなくていい。どうせすぐにお別れだ。覚える必要もない」
一刻も早くこの魔女をカイティーリヤ側に渡して任務を終えたい。
そう思いつつ、アレクシスは魔女の頭を再び麻袋の中に押し込めた。そのままかついでボートに乗りこむ。
全員の乗船を確認した艇長の掛け声が低く響く。
夜の闇の中、ボートはオールの音を軋ませながら、海上に待つ艦へと向かっていった。
新連載です。
よろしくお願いいたします。