第八十五話 右近
※二千二十一年十七月二日、修正。
耶蘇教の幟を掲げ、胸元のロザリオを右手に持ち、眼を閉じて祈りを奉げていた。
「右近殿」
「如安殿」
内藤如安の呼びかけに、右近は眼を開いた。
「神の声は聞こえましたか」
如安の問いかけに、右近は顔を左右に振った。
「まだ、私の祈りは神に届かないようです」
如安もロザリオを右手に持ち、眼を閉じた。
「我々の声に、神は答えてくれません。この国の民を正しき道に導くことが出来れば、神も応えてくれるでしょうか」
「邪教に復し、神の声を聴こうとしない民を導くには、この戦に勝たねばなりません」
「分かっています。しかし、勝機は見えてきません」
右近、如安ともに、永禄元亀そして天正の乱世を生き抜いた戦人であり、大名でもあった。その為、豊臣との地力の差は埋めがたく、どのような謀や戦働きをしたとしても勝利はないと見極めていた。
「狙撃は成功しますか」
「成功したところで、ひとり、ふたり、戦局が変わるとは思いません。大将の首を取ったとて、壊乱する事はないでしょう」
「……」
右近の言葉に、如安は反論はなかった。己の考えと一緒だった。
「この国では、我々は邪魔ものであり、異分子」
「然り。法王からの命があれば、我々はこの国のすべての民を神の元に送ることに躊躇いはありません」
「この世にはびこる邪教を滅し、正しき神の教えをあまねく地に布教させることが、私の望み」
「すべての人は、神の愛によって生かされている。それを知らぬもの達の哀れなこと。しかし……」
「しかし、何ですか」
右近の言葉が止まり、如安は不思議に思い問いかけた。
「我々のしている事は、あそこに陣取っている狂人どもと同じはないかと」
直政の兵たちをはさみ、陣取っている教如の方に、右近は眼を向けた。
「彼らは、邪教を信じ、世俗にまみれ、堕落した者達と、同じと言いたいのですか」
如安は眉をひそめて、右近に避難の言葉をかけた。
「一向宗だけではなく、仏門の者たちは堕落し、金に、酒に、女におぼれ、民を虐げて来た。そこには、御仏への信仰はなく欲におぼれた。その姿を見て、私は信仰とは何かを御仏に問いかけた」
「声は」
「聞こえませんでした。彼らは死ねば極楽、背けば地獄と言い民を死へ追いやりました。まあ、私とて民を戦に巻き込みましたから批判は出来ませんが、彼らは御仏の名を使い、聞こえぬ声を捏造し民を扇動しました。経典にはそのような事は書いていませんでした」
「私たちは神の声を捏造しません。私たちの信仰は無償のもの。神に奉げるものであって、神の代行ではないのです」
「そうです、私たちは殉教し、神の元に向かうのは、ひとりひとりの意思です。彼らとは違います、違いますが……」
如安は眼を一度閉じ、再び開いた。
「既に、事は動いています。此処での迷いは、殉教が穢れます」
「……確かに、我々は神の元に逝くことを決めたのです。汚れた魂を持つもの達をただし、共に神の元に逝くために」
右近と如安は眼を合わせ、頷き合った。
「ハレルヤ、ハレルヤ」
右近が発すると、如安も続いて声を発した。
そして、それに合わせるように、耶蘇教徒たちが声を合わせて、復唱し始めた。
それと同時に、皆が足を進め始め、豊臣軍に向かい進みだした。
「秀範」
「なんでしょう」
「あいつらは何だ、聖歌だったか、歌いながらハレルヤとか言いながら進んできやがる」
「父から聞いた一向宗との戦いを思い出します」
「秀久様か」
「はい。一向宗との戦いでも、あの者達は、念仏を唱え、味方の死体を乗り越え、死を恐れることなく戦ったようです」
「坊主どもに煽られて、踊らされ、死ぬことも利用されるとは……」
「一向門徒を指揮し、坊主たちも前線で戦っていたようですが、仏の教えでは、生き物を殺すことを禁じているはず。しかし、一向宗は率先して、仏敵として人を殺し続けていました。まあ、一向宗だけではなく、他の宗派も同じ穴の狢ですが」
「門徒との戦いにはわしも参加したことがあるが、其処までか」
「地侍たちが主な戦力であれば、其処までではないようですが、貧しきもの達が多くなると、死を恐れぬ者が多くなるようです」
「……この苦界から死して逃れ、極楽浄土やより良き来世に行くためか」
「そうかもしれません。それを坊主どもは利用したのでしょう。己たちの欲望を、信仰という名で隠し、信じることで罪の意識を消したかもしれません」
「この国に居場所がなく、それでもこの国に耶蘇教の教えを広める為、死をも恐れないか」
「坊主の欲深さから逃れ、耶蘇教にすがったのでしょうが……」
「死兵と戦うのは骨が折れるな。しかし、それならば、家康殿も同じ境遇かな」
「そうだと思います。こちらは居場所のないもの達が集まりましたが、一向衆は過激なもの達が集まったようなので、どっちも似たようなものかと」
「ふぅ、戦乱も収まり、国内では作物なども安定し始め、生活が良くなってきているはずなのだが」
「信仰とは人を酔わせる力が強いですから」
「酔うなら酒の方が良いがな」
そう言いながら正則は豪快に笑い、秀範も微笑んだ。
「殿下からは、銃撃と大筒を使い掃討しろと言われ、不服だったが秀範の話を聞いたらまともに戦うのが馬鹿馬鹿しいな」
「ええ、彼らは、嚙みついてでもこちらを殺そうとするでしょう」
「右近や如安など、指揮するものを討ち取っても無駄か」
「効果はあるでしょうが、逃げる者は少ないかもしれませんね」
「あとは、狙撃に注意か」
「殿下の方針で鎧兜も兵たちと大差はなくなってきていますが、やはり、将たちは目立ちますからね。格好の的になるでしょう。周辺に忍びのものや物見を定期的に放って確認していますが、どれぐらいの距離か撃たれるか」
正則は頭を左右に傾け、右腕を回した。
「いくら注意しても駄目な時は駄目だ。運が悪ければ死ぬのは生きていれば同じことだ」
「確かに」
「敵を潰すことに集中するしかない。集中しなければ被害が増え、結局死んでしまう」
大きく正則は息を吸いこみ声を発した。
その声は、不思議と全ての兵たちに聞こえるほどだった。
「敵を潰す!大筒は所定の位置に敵が近づけば放て!鉄砲は交代しながら隙間なく撃ち続けろ!弓隊は大筒、鉄砲から逃れた者達を討ちとれ!」
兵たちは、鯨波をあげて答えた。
「秀範、側面に回り込め。こちらは、遠距離での攻撃が難しくなったら打って出る。組み合いが始まったら側面を攻めろ」
「分かりました」
耶蘇教教徒の兵たちと正則たちの戦いが始まった。
「右近たちの兵が正則殿たちと戦い始めました。それに合わせ、直政、教如たちも動き出したようです」
秀永は報告を受けながら思案していた。
「氏直さん、こちらも対応をお願います」
「はっ。前線は信繁殿に任せておけば良いかと。政実殿、東北の者たちは、前線でぶつかり始めた後に、騎馬兵を率い左翼を攻撃し敵陣を突破してもらいます」
「突破できますか」
「彼らなら出来るでしょう。大陸の元の後裔が使う短弓と馬上筒を使い蹂躙してくれるはずです」
「分かりました」
氏直の話に頷き、秀永は前野長康を呼ぶ。
「この老体をこき使うとは、なんと、無慈悲な方か」
そう言い笑いながら秀永の前に出て来た。
「秀次叔父上に頼んで来てもらったのは、正則さんの処に行ってもらいたいのです」
「はて、あの者であれば、わしは必要ないと思いますが」
「そうかもしれませんが、信仰に狂った者達との戦いを経験していない人たちが多いと思います。もしかしたら、怖気ることがあるかもしれませんので、気合を入れてほしいかと思いまして」
「なるほど」
長康も一向門徒との戦いを経験しているが、信仰に狂った者達も少なかった。
ただ、正則より凄惨な戦の経験は多い為、怖気るほど精神は弱くなかった。
「正則殿であれば、問題ないとは思うが、心配し過ぎでは」
「無駄になれば、それはそれでよいです」
「そうなると、わざわざ来て、手持ち無沙汰とはおいしくないですな」
「老体と言いながら、やる気十分じゃないですか」
秀永がそう言うと、長康は笑った。
「良いでしょう。年を考えても最後の大戦になるでしょうし、楽しんできましょう」
一向門徒や宗教による戦いは、秀永も経験はしていない。
本などでは読んだ記憶はあるが、その中には凄惨なものも多かった。信長の長島での仕打ち、第一次十字軍のエルサレムのイスラム教徒に対する仕打ちは怖気た者であった。
死を恐れない兵のイメージは、ゾンビゲームだった。
それが現実に体験したら、すくんで思考が停止すると秀永は自らを分析していた。
その為、他の者も経験が少ない場合は、同じ危機に陥るのではと思い、経験豊富な長康を秀次から借り受けた。
借り受ける条件として、秀次が南国で美女に囲まれたいと言われて、秀永は引きつり笑いをしたのはいい思い出だった。
今頃、トロピカルトロピカルと言いながら、南国のジュースを飲んで、美女と戯れているのかと、場違いな想像を秀永はした。
「秀次様は、今頃、女子と戯れて楽しんでおられましょうなぁ」
長康も秀永から何かを感じて、遠い目をした。
女好きでも、秀次は内政はしっかりできており、兵は少し苦手だが、平均的な能力はあるので、豊臣政権の長老格ではある。
本当に、秀次は秀吉の実子ではないかと疑われてはいたが。
「正則さんのことよろしくお願います」
「承りましたが、家康殿はよろしいので」
「家康さんは、心配するだけ無駄です。我々よりも、数多くの修羅場を経験しています。それこそ、父上と同じぐらいの」
秀永の言葉に何度も長康は頷いた。
「では、行ってまいります」
そう言って、長康は秀永に一礼をして、出陣の準備をしに行った。
「こちらもすぐ始まります。それと、周囲を警戒を密に」
周囲の遮蔽物や、隠れれそうな場所に兵と忍びを配置し、狙撃による襲撃を経過しするよう指示を出した。
耶蘇教徒の軍勢は、正則の陣から放たれる大筒によって、被害が出ていたが進軍を止めることはなかった。
密集することなく、散開しながら進軍していた為、被害は大きくなかった。
先頭の集団は、木の板や竹で作った盾に十字を彫ったものを前に出しながら、ハレルヤと唱えながら進んで居た。
豊臣の兵たちは、その異様な雰囲気にのまれる者もいたが、組頭などが一向衆との戦いを経験した者が多く、叱咤しながら逃亡を防いでいた。
鉄砲の射程に入った為、耶蘇教徒の軍勢を撃ち始めたが、盾に阻まれ被害が少なった。
それを見た、前線を任された尾関正勝は、長弓隊に指示を出した。
「長弓を今までよりも上に向けて放て!」
正面は盾で防がれるが、それを越えて上からの攻撃すれば防がれないと正勝は考え命じた。
それにより、斃れる者たちが増えたが、その死骸を乗り越え、盾を拾い進軍速度を変えることなく、耶蘇教徒は豊臣軍に向かってきた。
その異様さに、腰が引ける兵も増え始め、鉄砲や弓の制度が落ちて来た。
「大筒を!」
前線にも数門大筒があり、正勝は角度を下げ、後方でなく盾を持っている者達に当たるように狙いを定めた。
それと同時に、鉄の玉が転がれば被害も大きくなるだろうと思い、発射を命じた。
正勝の考えた通り、被害が大きくはなったが、やはり進軍速度は落ちることなく、進んできた。
それも、走るでもなく、止まるでもなく、黙々と進んでくる姿に、正勝でさえ、怖気る気持ちを抑えるのに必死でった。
ただ、大筒が当たれば死に、鉄砲や長弓でも死ぬのが見て取れたので、恐怖に陥ることはなかったが、このような戦は二度としたくないと正勝は思った。
「殿に伝令だ!敵は進軍衰えず、時をおかずして組み合う事になると伝えよ!」
的になり、死にゆくもの達の姿を見ながら、正則に伝令を走らせた。
切り合いをすることになっても、辿り着くもの達はかなり減っているだろうが、死兵との戦いの被害は大きいものになると正勝は予想した。
組み合いを始めても、側面を攻撃する秀範の軍のいない処への大筒の攻撃はやめるべきではないと考えた。
また、秀永から送られた長弓は日本の弓とは違い、イングランドという南蛮の国のものだと言われた。
確かに、長く特に飛ばせる弓だが持ち運びが面倒なもので、鉄砲と同じく動かさずに運用すべきと伝えられていた。
長弓であれば、組み合って斬り合う場所よりも後ろに飛ばせるはず。長弓の組頭に、斬り合いが始まっても長弓を放ち続けるよう、場所と共に伝えていた。
「斬りあう用意を始めよ。槍を突く場合は、直ぐに引き戻せ、相手が離さなければ、直ぐに槍を捨ててよ。相手は死兵ぞ、油断するな」
正勝の言葉に周囲者たちは頷き、組頭たちに伝令を走らせた。




