第八十九話 家康
正信の元に忍びがひとり近づき何かを伝えていた。
「殿」
「どうした」
「親吉殿、忠佐殿が撃たれたようです」
平岩親吉、大久保忠佐は家康の影武者として、指揮をとっていた。
あらかじめ、兵の進退については家康から指示を受けており、親吉、忠佐は独自の動きをするわけではなかった。
徳川の中央に親吉を置き、秀永に近い左翼に忠佐を置き、家康自らは右翼に居た。
ただし、右翼は渡辺守綱が兵を配しており、遠くからでは家康が居る事が分かりにくかった。
「殿下からの伝令もあり、わしの位置が読まれると思ったが、なかなか気が付かぬものか」
「注意深く追わねば、難しいかと」
「それで、七之助や治右衛門は」
「親吉殿は腕を撃たれたようですが、体を動かしたときに狙撃されたようで、傷も深くないようです。忠佐殿は後ろから頭を撃たれたようですが、兜によって防がれ大事はないようです。しかし、撃たれた衝撃で馬からずれ落ちたようで、強か身体をうったようです」
「そうか……」
影武者として戦場に立っている以上、命を失う事も覚悟していたが、股肱の臣を失わなくて家康は安堵した。
「では、どうするか」
「退いてはどうでしょう」
「ふむ……」
正信の言葉に、家康は考えた。
退くのは当初から考えていた。相手が勝てると思い喜び勇んで進んでくれば、足並みも乱れるはず。また、教如なども踏み込んでくる可能性が高い。そうなれば、逃がさず捕らえることも討ち取ることも可能になりえる。
秀永からは了承を得ていた。
「殿下のわき腹が開くな」
「それも予定のうちかと」
「しかし、その前提は、狙撃しているものを排除せねばならんぞ。下手に退いてまとまったところを撃たれてはかなわん」
「既に、伊賀、甲賀のもの達が討ち取ったと聞いております」
「討ち取ったもの達で終わりか」
「それは分かりません。ただ、親吉殿、忠佐殿を撃ったもの達は討ち取ったようです。位置的にはやはり後方からのようですので、伊賀、甲賀のものを向かわせております」
「ふむ、忠右衛門を呼べ」
家康の言葉に、側にいた者が走り出した。
しばらくして、守綱が家康の前にやってきた。
「どうかされましたか」
親吉、忠佐の事を話しどう動くか、守綱に聞いた。
「正信殿は」
「勝負に出るべきだと言っている」
「……私もそう思います。このままでは、自爆による攻撃で、兵たちの心も疲弊しています」
「そうか……、当初の予定通りの動くと殿下に伝令を」
「はっ」
「七之助、治右衛門に予定の場所まで下がるように伝えよ、その際は、慌てて下がっているように見せよと」
「はっ」
「投石を石から、油壷に変えて撃ち込めと伝えよ」
「はっ」
「平八郎たちへ、油壷によって、敵が乱れたら一斉に鉄砲により攻撃、長槍にて攻撃を与えて、怯ませたのちに、予定の場所まで退けと伝えよ」
「はっ」
「弥八郎、後方だけではなく、兵内に敵方がいないか確認せよと伊賀、甲賀の者に伝えよ」
「わかりました」
「弥八郎、忠右衛門、これで三河の一向一揆の恩讐をはらすぞ」
家康の言葉に、二人は頭を下げた。
三河にて、一向一揆があった時、二人は一向宗に付き、家康に背いた。
信仰によるものであり、当時の二人には悔いはなく、その後しばらくは後悔することはなかった。
正信は浪々によって、一向宗の世俗にまみれた欲深さを感じ、家康に刃向ったことを悔やんだ。
守綱は許されたのち、危険な前線にて命を顧みず戦い続け、家康への贖罪とした。
本願寺が信長に下った時に、一区切りつけたと思っていたが、この度の戦で、苦い過去が蘇った。
もう、先が短い年齢とはなったが、自らの手で、過去の清算が出来ると思いも新たに気持ちを引き締めた。
「教如様、敵が退きます」
「そうだな」
徳川方から油の入った壺が空から投げ込まれ、その周囲が火が広まり、前線が混乱したところに、長槍で一撃を入れられた。
その報を聞いた時、教如は徳川が攻勢に出たか、敗れるやもしれん。早くこの場から逃げねばと浮足立った。
頼龍が落ち着かせ、前線からは距離があるから問題ないと、続報を待つようにと教如を宥めた。
しばらくすると、こちらが混乱し退いたと同時に、敵が一斉に後方に退いたと、前線から伝令が来た。
その報に二人は、首を傾げながら、何が起きたか分からなかった。
「教如様」
二人が前線を見ながら、話していると後ろから声がした。
敵かと思い、教如が腰を引きつつ後ろを向くと、雑賀のものが居た。
自らの醜態を隠すように、尊大に教如は声をかけた。
「如何した」
「家康と思えしものを狙撃いたしました」
「始末できたのか」
雑賀のものは、教如の言葉に顔を左右に振った。
「慎重居士の家康らしく、影武者が複数おり確実に仕留めたとは言えません」
「ちっ」
その答えに、教如は舌打ちをした。
その態度に表情を変えず、続けて雑賀の者は言葉を続けた。
「それで、どうなった」
「鎧兜、体型、周囲の者、指示を出している者から二人ほどに絞り、狙撃をいたしました」
「しかし、家康当人か分からないのでは意味がないぞ」
教如は苛立たしげに、言葉を吐いた。
「教如様、家康は伊賀、甲賀のものを使います。うかつに近づくことは出来ません」
「分かっておるわ!」
「影武者であったとしても、撃たれれば周囲は動揺しましょう。まして、手傷を負えば影武者の役目は負えません」
「ふん」
「撃たれたものはどうなったのです」
「ひとりは腕を、ひとりは頭を撃ちました」
「なに、頭なれば討ち取ったのではないか」
「馬から落ちたところまでは確認しましたが、伊賀、甲賀のものが襲撃してきた為、その場を急ぎ離れましたが、狙撃した者や補助に回った者が多く討ち取られた為、確認が出来ておりません」
「くっ、それでは……」
「教如様」
雑賀の者に、罵声を浴びせようとする教如を、頼龍は遮った。
睨みつけてきた教如に、頼龍は小さく顔を左右に振り、自制を求めた。
教如は不貞腐れた表情をして、言葉を飲み込んだ。
「よくやってくれました。これで家康も勢いが衰えるでしょう。あなたたちは、残存の者たちをまとめ、しばらく後方で休んでいてください。また、狙撃を頼むかもしれません」
頼龍の言葉に、雑賀の者は頭を下げて後方に下がっていった。
「教如様、彼らは命を賭して我々の命を実行してくれたのです。いたわりの言葉はあっても、罵声は駄目です」
「分かっておる」
深い溜息を心の中で頼龍は吐いた。
教如も決して、無情の人ではない事は分かっている。
戦場の雰囲気にのまれ、命の危険への精神的な負担で言葉が荒くなっている事も理解している。
しかし、命を賭した者に対して発するものではないと頼龍は思った。
昔であれば、もう少し耐えていたはずなのだがと。
「雑賀の者の話が本当なら、二人の内どちらかが家康本人だったかもしれんな」
「確かに、家康の兵が退いています。しかし、それも策の可能性があります」
「分かってはいるが、今進まずして、どうする。このままではじり貧だぞ」
教如の言葉に頷かざる得なかった。
自爆攻撃も、屍を乗り越えた攻撃も、兵を入れ替えながら家康に対処されている。
それが続けば、損耗も激しく、信徒たちも何れ目が覚める可能性がある。
油壷による攻撃の混乱は、その兆しともいえる。
「ただ、このまま進めば、敵の懐に入る事になります」
「かまわん、そのまま突っ切ればいい。それで秀永の陣の後ろに回れれば良いし、側面を突いてもいい。無理であればそのまま突貫して離脱すればよい。一向宗の意地は見せたはず。刃向えば、虐げれば痛い目を見ると見せつけられたはずだ」
教如は、この場から去る理由をこじつけるかのように話し始めた。
頼龍は、一理あるとはいえ、うまく行くものか悩んだ。
「致し方ありません」
「分かったか、ならば進め!仏敵家康、徳川を討ち果たせ!」
教如の激を危機ながら、教如の子を頼広に頼んだ事を思い出した。
万が一、教如と共に討ち死にしても、教如の血は残るはずだと。
家康からの伝令がさったあと、秀永は少し考えた。
「氏直さんに伝令を、右翼に手当てをしますと」
「どなたを」
「速水守久さんを向かわせましょう」
「分かりました」
岩覚が秀永の言葉を聞き、伝令に伝える。
「これで一向門徒は抑えれそうですね」
「そうだといいですが、窮鼠猫を噛むではないですが、油断できません。青木一重さん、郡宗保さんも控えてもらいましょう」
「本陣の守りが薄くなりますが」
「正則さんの処に動きがあれば、我々も前に出ましょう」
「それは……」
「家康さんが狙撃されました。そのうち、こちらや正則さんの処にも行われるでしょう。前線に出れば危険にさらされますが、狙撃の場所も限られてきます、前か後ろだけです」
「分かりました、小太郎殿」
岩覚が声をかけると、小太郎が現れた。
「周囲の警戒を密に、影武者を何名か立たせる。狙撃を行われそうな場所に配下の者を送っていると思いますが、相手も動いているでしょう。捜索を密に」
「はっ」
「狙撃手は、石の如く、不動にて心静かに狙いを定め、獲物を待つはずです。動かずに、その場に同化し機会を伺っているやもしれません」
「確かに、それと、周囲に人を近づけぬよう、手配いたしましょう」
「お願いします」
「普通なら、ひとつが崩れれば、他の場所にも影響があるのでしょうが、一向門徒が敗れても、耶蘇教徒も直政さんも崩れないでしょうね」
「そう思います」
「包囲することで有利になるとは思いますが、そうなると、攻勢がさらに強くなりそうですね」
「はい、ただ、膠着状態は崩れると思います」
秀永は大きく息を吐いて、心を落ち着かせた。
少しずつ、戦況が変わっている事を考えながら。