月噴水(ムーンファンテン)
この物語は「時空穿孔船 《リゲタネル》」より六十年前の話になります。佐竹幸人と小太刀珠はこの後、結婚します。そして生まれた子供が佐竹美陽の父となるのです。
この時、幸人と珠に助けられたハンス・ラインヘルガー博士は、後に《リゲタネル》を建造するのです。
月の洞窟には何かがいる。
そんな噂は以前からあった。おそらく、無人探査機かぐやが、溶岩洞窟の入り口を発見した時からそういう噂があるのだろう。では「何か」っていったいなんだ? それは人によりけり。ある人は月人の都市、ある人は宇宙人の基地、あるいは古代文明の遺跡……
巨大生物だという人もいる。
もちろん、ただのヨタ話だ。
ヨタ話だが、それを本気で信じている奴は始末におけない。いくらそれを否定されようとガンとして信じ続け、二言目には「NASAは何かを隠している」と決めつける。
そりゃNASAぐらいの大きな組織ともなれば機密の一つや二つはあるだろう。あるだろうけど、なぜその隠し事がおまえさんの妄想している事と同じだと言えるんだ。
高校時代、僕のクラスにいた小太刀昇という男もそんな一人だった。小太刀は普段物静かで本ばかり読んでる男だったが、なぜか僕とは気があった。気があったが、奴の妄想にはいつもヘキヘキさせられていたものだ。
小太刀がいつも読んでる本は所謂オカルトの類。その中であいつが特に熱心に読んでいたのは、月の溶岩洞窟の奥にある月人の都市とか、宇宙人の基地に関する記事だった。もちろん根拠のないデタラメ記事だが、小太刀はかなり本気でそれを信じていたようだ。
しかし、そんなものあるはずはない。
その時点でも月の溶岩洞窟に最初の探検隊が入ってから十年以上も経過しており、二〇五五年には常設の国際基地が建設されている。もし、そんなものがあればとっくに発見されているはずだ。なにより、月の溶岩洞窟は生物の住める条件を整えていない……
と、何度も小太刀に言った。だが、その都度奴はこう言う。
『NASAが本当の事を言ってると思っているのか。奴らは絶対に何かを隠しているんだ』
NASAは米国限定の組織。国際月基地に人員を送っているのはアメリカだけでない。ロシアや日本、中国、インド、ユーロも隊員を送っている。それを指摘しても、小太刀は全てNASAとグルになって隠していると決めつける。その裏にはアメリカ影の政府だの、ユダヤの陰謀だのがあると。
陰謀論に取り付かれた人間を説得する難しさを僕は十代にして思い知らされたものだった。高校卒業後、小太刀との仲は年賀状のやり取りをする程度で直接会う事はなかった。
そんな奴と再会したのは一年前の二〇六八年。同窓会での事だ。
この時、僕はあいつに再会しても絶対に黙っていようと思っていた事があった。大学卒業後も研究室に残り、教授の研究を手伝うために国際月基地に何度も行ったという事を。
一昔前とは違い、最近では月基地に赴任したぐらいではニュースにもならないし、黙ってれば分からないと思っていたのだ。
だが、クラスメートの何人かはそれを知っており、三時間ほどの宴会の間にその事が小太刀の耳に入る事を防ぐことは無理だった。
知られると面倒な事になると思い黙っていたのだが、黙っていた事を知られたためにさらに面倒な事になってしまった。
案の定、小太刀は僕に食ってかかってきた。
酒が入っていたとはいえ、小太刀の剣幕は異常だった。『なぜ黙っていた? 何を隠している? おまえも奴らの仲間か』と執拗に詰問してくる。
正直、その時は背筋の凍る思いだった。それまで小太刀のオカルト狂いは趣味程度と思っていたのだが、この時の様子だとまるで怪しげなカルトに所属しているようにも思えた。その後、僕は隙を見て会場から抜け出し、そのまま家に逃げ帰ったのだった。家に帰ってからは、とにかく奴にはもう関わらないようにしようと決意したのだが、数日後、気になって小太刀に電話をしてみることにした。その時には奴もすっかり落ち着いていたので冷静に話ができた。そして、この時の電話で奴がなぜ月の洞窟にこだわるかが分かったのだ。
小太刀の父は二〇五四年に月へ行った第六次国際月面探検隊のメンバーだったのだ。
僕の記憶ではこの時一人の隊員が月で行方不明になっていたはず。南極基地から月面車で水を運ぶ途中で消息を断ったと聞いていた。『凄い霧だ』という通信を最後に。
その隊員の名前が小太刀徹だった事を覚えていた。
高校でこいつと出会ったとき、苗字が同じだとは気がついたが、家族だとまでは思わなかった。なぜ、今まで小太刀はその事を話さなかったかは分からないが、おそらくかなりつらい思いを抱えていたはずだ。小学生の時に突然父親を失ったあいつは、その事実を受け入れられなかったのだろう。そして、父が今でも月人の都で生きているという妄想をもつ事で心の平衡を保っていたのだ。
話し終わった後、小太刀は『本当は何か隠しているんだろう。教えてくれ』と懇願した。
もちろん僕にだって隠し事はある。月基地で行っている事の中には国家機密に属する事も当然あり、現在僕が関わっている研究も秘密事項になっている。だがそれは新物質の研究とかであって、小太刀が知りたいと思っている月人の都市でも、宇宙人の基地でも、ましてや古代遺跡でもない。
そんなものあるわけないし、仮にあったとすれば僕は躊躇なく教えていただろう。それで奴が満足してくれるなら、守秘義務などクソ食らえだ。
だが、残念な事に……いや、当然な事に溶岩洞窟の中にそんな怪しげなものは存在しなかった。
存在するはずなかった。
*
「なあ、これなんだと思う?」
同僚の山崎が指差す壁面ディスプレイには、先ほどインド基地から送られてきた映像が映っていた。それは未探査の溶岩洞窟に送り込んだ無人探査ロボットが撮影したもの。どこまでも続くごつごつした岩の壁。時折、火山性ガスが氷結した氷がロボットのヘッドライトを浴びて輝く。そんな映像が延々と続いていたとき、唐突にカメラの前を何か物体が横切った。ほんの数秒の事だ。
スローで再生しても、映像がぶれてしまってどんな物体か確認できない。たが、辛うじて腕のようなものがあるのが分かった。
残念な事に、そのロボットはそういう事態に対応するようなプログラムはされていなかった。だから、その未確認移動物体が撮影された映像はその数秒だけである。
「やっぱり……これって……月の先住民?」
山崎のその一言が、高校時代の変わった友人の事を思い出すきっかけとなったのだ。
「馬鹿言え! どこかの国の隊が先に洞窟に入ったんだろう」
僕はディスプレイを消して部屋の明かりをつけた。各種実験装置が所狭しと並んでいるだけの殺風景な第三化学研究室。月基地内で僕と山崎……というより成瀬研究室に割り当てられた部屋だ。
それは日本基地の端っこに置かれていた。
現在の国際月基地は、天然の溶岩洞窟に呼吸可能な空気を満たして使っている。その入り口はプリンセスホールという直径六十メートルの縦抗だ。西暦二〇〇九年に無人探査機かぐやが発見した穴なのでかぐや姫の穴……プリンセスホールと命名されたらしい。
現在プリンセスホールは金属の蓋で密閉され、人員用、車両用のエアロックが装備されていた。
そのプリンセスホール直下の洞窟は共有スペースとして国連が管理していた。さらに共有スペースを中心に、クモの巣状に掘られたトンネルが近隣の洞窟につながっている。それぞれの洞窟は各国の基地として割り当てられていた。
洞窟群の総延長は十五キロに及び、現在ここに十一カ国三百人の隊員が常駐している。
ちょっとした町だ。これだけ人が多いと、どの国の隊員がどこで何をしているかなんて完全に把握することは無理がある。
だから、インド基地の隊員もあの映像を見たとき、先にどこかの国の隊が入り込んだのではないかと思い、各国基地に問い合わせてきたのだ。
今のところ、どの国からも該当地域で活動があったという報告はなかった。
インド隊が捜索した洞窟は三日前に見つかったものだ。見つかったきっかけは、月基地全体で起きた急激な減圧。洞窟のどこかで空気漏れが起きたらしい。
こういう事は決して珍しい事ではない。
何十億年もの間、真空状態を保っていた洞窟にいきなり空気を注入したのだ。洞窟の壁に一気圧の負荷をかけ続ければ弱い部分に穴が開くこともあるだろう。また、岩の隙間には火山性ガスが氷ついていたりもしている。それに平均気温十八度Cの気体が触れれば少しずつ融解していき、ある日突然穴が開くという事もあるわけだ。
今回もそんな事故の一つということだ。
だが、いつもと一つ違うことがある。いつもなら、隔壁を閉じないと減圧は止まらない。
空気は月面に逃げているからだ。だが、今回は隔壁を閉じる前に減圧が止まった。どうやら穴はすぐ隣の洞窟に開いたようだ。空気の流出が止まったのは、洞窟内を空気が満たしたからだろう。
その後の会議の結果、その洞窟を調査して可能なら基地の一部にしてしまうことなった。インド隊がロボットを送り込んだのはそういう経緯があったからだ。
「とりあえず、俺達には関係ないな」
山崎は席を立ち、仕事に戻っていく。
さて、僕も仕事に戻るか。おや?
左腕に装着した端末が光っている。
メールのようだ。端末のディスプレイにメール表示させた。
「ゲ!」
差出人の名前を見て僕は声を思わず上げる。
「どうした?」
山崎が怪訝な視線を僕に向ける。
「いや、メールだよ。地球からの」
「女か?」
「野郎だ」
「なあんだ」
一瞬だけ僕はマーフィの法則を信じそうになった。差出人の名前は小太刀だったのだ。
『佐竹幸人様
お久しぶりです。同窓会の時には酒に酔った事とは言え大変失礼をいたしました』
意外と、まともな文面だな。もしや、月人などいないという事を納得したのか?
『思えば、公務員である君には守秘義務というものがあるのを失念していました。君が月人と会っている事はわかっていたが、それを認めてしまうと命が危ないというのに、無理難題を言ってしまい申し訳ない』
納得はしてなかったようだ。
『それはともかく、今回メールをしたのは他でもない。実は妹の珠が月基地へ赴任する事になった。迷惑をかけるかもしれないが、僕にとってはかけがえのない妹だ。どうか面倒をみてやってほしい』
あいつ妹いたのか? それにしても、拍子抜けだな。てっきり、また月人の事を聞いてくるか思ったが……
月に来るということは、誰かとの交代要員という事か? 確か山崎は三日後に地球に帰ることになっていたな。まさか小太刀の妹が交代要員? 成瀬研究室にそんな娘いたかな?
僕は山崎の方に目を向ける。
山崎は分離装置を操作していた。
今、この実験装置の中では高温のプラズマが回転している。と言っても、外からでは何も見えないが。
装置の中でプラズマ化している物質は、月の低重力地帯で回収してきた岩石から取り出したアルミニウム。これをプラズマ化した状態で高い遠心力をかけ、ある物資を抽出しているのだ。マイナスの質量を持っているエキゾチック物質を。
月の重力異常の原因は地下に存在する物質の密度が異なるためと言われてきた。だが実際に月で大規模な調査が行われてみると重力異常が起きるほどの密度の違いは確認できなかったのだ。重力異常は何か他に原因があるのではと言われだしたとき、鳴瀬のオヤジ……いや、Т大学の成瀬教授がある仮説を唱えた。
マイナスの質量をもったエキゾチック物質が原因ではないかと。
エキゾチック物質は重力相互作用が引力ではなく斥力になっている物質だ。理論上は存在していたし、粒子加速器を使った実験で発生したという報告もある。しかし、自然界にエキゾチック物質の塊が存在するなどありえない。あったとしても、天体の重力に反発して宇宙へ飛び出してしまう。
というのが今までの常識だ。
しかし、重力は四つの基本相互作用の中でもっとも弱い。もし負の質量をもった水素原子と正の質量を持った水素原子が一つずつあったとしよう。いくら負の質量だと言っても、重力相互作用より電磁相互作用の方が強い。二つの原子は電磁力で結びつき容易に水素分子を構成できる。
これを原子核のレベルまで考えてみよう。負の質量を持った中性子や陽子などの重核子が、正の質量を持った重核子と核力で結びつき原子核を構成することは可能なわけだ。
例えば炭素原子なら原子核は陽子六個と中性子六個で構成されている。その中の中性子二個が斥力を持っていたとしても、他の四個の中性子と、六個の陽子の持つ引力の方が大きいのでその炭素原子は天体上に留まれるわけだ。
そういう物質が低重力地帯に多量にあるのではないかと言うのが成瀬教授の説だった。
僕達はその説を証明するため、低重力地帯から収集した試料から異常に軽い原子を分離する装置を開発した。通常のアルミニウムなら原子量は27。同位体としてアルミニウム26と28がある。
この装置の中では、プラズマ化したアルミニウムに遠心力と、それと反対方向に働く磁力をかけている。最初に試料を入れた時は、アルミニウム27の原子核の重さで丁度遠心力と磁力が釣り合うように装置を調整してあった。もし27より軽い原子があれば、中心の磁石に集められる。
最初集まったものはアルミニウム26と不純物。その試料をまた装置に入れ、さらに高い遠心力をかける。
その作業を三年間続けた結果、通常よりも軽いアルミニウム原子が抽出された。三年がかりで集めた原子はたったの十モル。
通常のアルミニウムなら二百七十グラムの質量があるはずだが、それは僅か八十グラムしかなかった。これはもう負の質量をもった粒子が含まれている証拠だ。
そして今、その試料をさらに分離装置にかけ、より軽い原子を集めている。明日にはその成果が分かるはずだ。
その成果を確認した後、山崎はこの研究資料を持って地球に帰ることになっていた。
「なあ、山崎。成瀬のオヤジはおまえと交代で今度は誰を送ってくるんだ?」
「まだ、聞いてなかったのか?」
「ああ。つい忙しくてな」
「喜べ。今回は女だ」
「それは、こんな娘か?」
僕は腕の端末のディスプレイにメールに添付されていた写真を表示した。長い髪をリボンで束ね、ポニーテイルにしている細身の女の子。袴姿という事は卒業式の写真だろう。
「そんな娘だったが、どうしてお前が写真をもってる?」
「友達の妹だ。面倒見てくれとメールで頼まれた」
「そうなのか。じゃあ、顔見知りか?」
「いや、会った事はない」
「そうか。どうでもいいが、この部屋で二人っ切りになったからといって悪さするなよ」
「おまえと一緒にするな」
第一、小太刀の妹じゃ迂闊に手なんか出せん。あまり関わりたくないというのもあるが、小太刀なら地球にいながらでも月にいる僕に黒魔術でも仕掛けてきそうだ。
*
メールが来た翌日、交代要員を乗せたシャトルが月面に到着した。翌日と言ってももちろん基地内時間(グリニッジ標準時間)のことだ。月本来の一日(二十七日と七時間)ではない。僕は月面車を操縦して迎えにいった。月基地ではこういう事は持ち回りでやる事になっていて、今回は僕が当番だったという事だ。シャトルの発着場は基地から南に一キロの場所にある。
僕が到着したとき、シャトルはちょうど降りてきたところだった。発着場を覆うレゴリスタイルがシャトルのエンジンから吹き付けられるプラズマを浴びて赤熱している。
エンジンが完全に停止するのを待って、僕は月面車をシャトルに近づけてドッキングさせた。これでシャトルから月面車への移動は宇宙服なしでできる。連絡口が開き、四人の交代要員が車内に乗り込んできた。
「ウェルカム ツウ ザ ムーン」
お決まりの挨拶で僕は彼ら彼女らを出迎え一人ずつ握手していく。
四人の国籍は二人が中国人、一人が韓国人、そして日本人が一人。東アジアの人間しかいないのに英語で挨拶というも妙なものだが。
最後に入ってきた日本人女性はやはり小太刀の妹だった。そういえば、兄貴とどこか似ているような気がする。
「あの」
握手しながら小太刀の妹はおずおずと言う。
「佐竹さんですよね?」
「ああそうだけど……君かい? 小太刀君の妹さんは?」
「はい、小太刀 珠です。あのう……兄から、何か失礼なメールでも来ませんでしたか?」
「え? いや、メールは確かに来たが、特に失礼な内容というものでもなかったよ」
多少変わってはいたが。
「兄が何を言ってきたか知りませんが、どうか忘れてください」
忘れろって?
「あたしが月へ来たのは、成瀬教授の指示で、父の事とは何も関係ないんです」
ああ、そういう事か。
小太刀兄妹の父は月で殉職した。言ってみれば英雄だ。その事で周囲から特別視されてきたのだろう。
だが、それは同時に周囲からの妬みも買う。
この若さで月基地勤務が決まった事でやっかむ奴もいたのだろう。実力もないくせに、殉職した父親の遺志を受け継ぐ娘という美談で選ばれたとか。
「大丈夫だよ。メールはごく普通の挨拶だ。むしろ友人の職場に自分の妹がくるのに黙っている方がおかしいだろう」
「はあ、そうなんですか?」
「だが、僕は決して君を特別扱いしないから覚悟してくれ。ドジを踏んでも『てへ』と笑ったって誤魔化されないよ」
「あたし、そんな事しません」
「分かっているって」
もっとも、僕がどうしようと彼女へのやっかみは消えないだろう。こればかりは慣れるしかない。実際、僕も月基地への勤務が決まった時は色々と言われたものだ。直接口で言う奴もいれば、ネットにあらぬ事を書き込む奴もいる。「大学を出たばかりの若造が、月基地要員に選ばれるなんておかしい。きっと何かコネを使ったに違いない」とか。
まあ、僕の場合は自分から月行きを志願したわけじゃない。成瀬教授の研究室でエキゾチック物質の研究をしていたために強引に送り込まれたようなものだ。成瀬教授はエキゾチック物質の研究はなるべく身内で固めたかったらしい。機密保持のために。しかし、一人の人間が月基地に滞在できる期間は、一回につき二ヶ月以内と決められていた。それ以上、月の重力下にいると地球への復帰が難しくなるからだ。しかしエキゾチック物質の抽出には長い時間がかかる。だから、成瀬教授は自分の研究室で信頼できる人間を交代で送り込んでいたのだ。光栄な事に僕は信頼されていたらしい。まあ、それはともかく。
「小太刀君。一つ聞きたいんだが」
「なんでしょう?」
「君も信じているのか? その……月人を……」
小太刀珠は一瞬あっけに取られたような顔をした後、疲れたようにため息をつく。
「兄がご迷惑をかけたようで……申し訳ありません」
「いや、迷惑だなんて」
実際、迷惑ではあったが、そこまで恐縮しなくても……
「あの人は少し異常なんです。あたしはもちろん兄とは違い、月人なんて信じてません」
「そうか」
とにかく、月人の事で悩まなくて済みそうだな。おっといかん。もう出発の時間だ。
「それじゃあ車を出すので席に着いてくれ。詳しい話は後にしよう」
「はい、あの」
彼女は周囲をキョロキョロと見回した。
「窓は開かないんですか?」
「外が見たいのかい?」
「ええ。せっかくだし」
僕は眼鏡型ディスプレイのFMDを彼女に渡した。
「今は昼間なので、窓のシャッターは開けない。それを使ってくれ」
もちろん、短時間シャッターを開いたところですぐにどうこうなるわけではない。それでも長時間月に滞在する以上、被爆線量は少しでも減らしておかなければならない。
まあ、シャッターを下ろしたところで完全に被爆を防げるわけではないが……
小太刀珠は手慣れた手つきでFMDを装着した。しばらく、周囲を見回す。
今、このFMDには車外カメラの映像が映っているはずだが、FMDをつけていない僕には何も見えていない。
不意に彼女はFMDを外して僕の方を見る。
「あの、この時間にムーンファンテンは見れますか?」
月噴水? 何を言ってるんだ? こんな時間に見れるわけないだろうに。
月面では昼間の側の砂は+に帯電している。そして夜の側の砂は-に。そのため、昼と夜の境界線では帯電した砂が舞い上がる現象が起きている。それはあたかも砂の噴水のように見えたため月噴水と呼ばれていた。つまりその現象は日の出と日没にしか見れないわけだ。
「いや、今の時間は見れないよ」
「ですよね。じゃあ、あれはなんでしょう?」
彼女は車の後方を指差す。
僕もFMDを装着してその方向に目を向けた。
なんだ、あれは?
確かに、月平線のあたりに噴水のようなものが見える。もちろん、月面に液体の水が存在するはずがない。月の砂が噴水のように噴出している。これは……
僕は通信機のスイッチを入れた。
「こちら月面車三号。プリンセスホール応答願います」
ほどなくして基地から返信が帰ってきた。
『こちら、プリンセスホール。三号どうぞ』
「そっちで減圧警報は出ていないか?」
『五分前から出ていますが、どこから漏れているのか今調査中です』
「やはりそうか。今、月面に凄い勢いで空気が噴出している。そっちへ映像を送る」
それにしてもあの場所って、新しく見付かった洞窟の辺りじゃないのか?
*
僕らと入れ違いに基地を出発した作業班が穴を塞いだのは、それから二十分後のことだった。その間にかなりの空気が漏れてしまったようだ。
穴が開いたのはやはり新しい洞窟だったらしい。それを知ったのは、研究室に戻ったときの事。中で待っていた山崎に事情を聞いた。
「それで、空気漏れは止まったのか?」
僕の質問に山崎は荷物をまとめながら答える。明日、地球に帰るための準備だ。
「ああ。応急措置だそうだが。それにしても隔壁をさっさと閉じればいいのに、なにをグズグズしていたんだろうな」
「故障じゃないのか?」
「かもな。この基地もそろそろ老朽化してきたし。空気漏れはおまえが見つけたらしいな」
「違う。この娘だ」
その時になってようやく山崎はこっちを振り返り、小太刀珠の存在に気がついたようだ。
「紹介しよう。小太刀珠さんだ」
小太刀珠は山崎にぺこりとお辞儀する。
「始めまして」
「ああ。君か。俺の交代に送られてきたのは。狭い研究室で驚いたろう」
「いえ、そんな事は」
「寝泊りする場所は他にあるから安心してくれ。しかし、仕事はこの狭い部屋でこいつと二人っ切りだ」
山崎は僕を指差す。
「襲われそうになったら、大声で助けを呼ぶんだぞ」
しねえよ!!
「は……はあ」
小太刀珠は困ったような顔で僕を見る。
「でも、兄の話では佐竹さんは禁欲的な人だと聞いてますが」
「いやいや、こいつはそう見えて、実はムッツリ……」
「いい加減にしろ!!」
僕は山崎の頭をはたいた。
「それよりあれはどうなった?」
「おお! そうだった」
山崎はガラス瓶を取り出す。
「見てろよ」
僕らの見ている前で山崎はビンをひっくり返した。ビンの蓋の裏に張り付いていた小さなアルミニウムの円盤が浮き上がりビンの底に張り付く。
「凄いわ! 完全に重力に反発している」
小太刀珠は興味深げにビンを覗き込む。
山崎は何度もビンを反転させながら説明を続ける。
「この試料にアルミニウム原子は〇・五モル含まれている。アルミニウム二七なら一・三五グラムだ。しかし」
山崎は作業台の上で逆さまにセットした質量計の下でビンの蓋を開いた。円盤がビンから飛び出し計量皿に張り付く。ちなみにこの質量計は月の重力六分の一Gを補正した値を出すようになっている。デジタル表示は〇・一二グラムを示した。ただし、この数値はマイナス〇・一二グラムという事になるわけだ。
質量がマイナスになったという事は、エキゾチック物質の含有量が五十%を越えた事を意味している。ちなみに、地球上でもここと同じ装置で同様の実験を続けていたが、エキゾチック物質はほとんど検出されていない。つまり、エキゾック物質は月には存在するが地球には存在していないという事だ。
考えられる原因は、地球の重力が強すぎたため地球の生成段階において、エキゾチック物質含有物はほとんど弾き飛ばされてしまい、月は重力が弱かったので含有物が月に留まれたという事だ。だとすると、小惑星を調べればもっとエキゾチック物質が見付かるかもしれない。
まあ、科学的好奇心を満たすのはそれでいいとして、これからはこいつが経済面、政治面にもたらす効果も考える必要が出てくる。
エキゾチック物質が大量に手に入れば輸送システムに革命を起こす事になる。将来、この物質は高値で取引される事になるだろう。と、同時にこの物質は月にしかない、量もそれほど多くない。となれば、月の利権を巡って紛争が起きる可能性が出てくる。
今のところ月の地下資源で地球に運んで採算が取れるのは白金やパラジウムなど一部のレアメタルぐらいだ。利益が出るといっても微々たるもの。戦争をしてまで手に入れるメリットはない。
しかし、エキゾチック物質ともなると戦争をやってもお釣りがくるぐらいの経済効果が考えられる。もしかすると僕達はパンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。
唐突に映話のコール音が鳴り響き、僕は思考を中断した。日本基地の本部からだ。
ディスプレイに現れた四十代半ばくらいの男は日本基地の司令、桑島洋三。
『佐竹君か。さっきはご苦労だった』
「はあ」
『空気漏れを起こした新洞窟だが、実は空気漏れが起きる少し前に、人が調査に入りこんでいたんだ』
「人が? それで隔壁が閉じなかったんですか?」
『そうだ。今日の救急当番は山崎君だったな。救助に行くように言ってもらえないか』
「待ってください。山崎は明日地球に帰るために資料の整理で手が離せないんです」
『しかし』
「僕が代りに行きます」
『いいのかね?』
「かまいません。それで洞窟に入り込んだのは誰です?」
『ユーロ基地の隊員だ。入ったのは三人。そのうち一人は自力で出てきた』
「わかりました。今から出発します。僕一人でいいですね?」
『ああかまわんよ。すでに他の基地からも隊員が向かっている。君が到着するまで終わっているかもしれん』
ようするに、日本基地から一人ぐらい出さないと格好がつかないってことか。
「それじゃあ、そういう事なんで出かけてくるよ」
僕は二人に手をふって出口に向かった。
「すまないな」
山崎が僕に向かって手を合わせる。
僕は研究室を出て、管理棟へ向かった。洞窟探検用の装備を受け取るために。
狭い洞窟の中にいくつもの建物が並んでいる中を僕は歩いていく。洞窟の壁や天井は落盤を防ぐためポリマーでコーティングされていた。段差のあるところはすべて階段やスロープが設けられている。天然の洞窟とは言っても、基地の中は人が安全に活動しやすいように整備されているのだ。だが、これから行くところはそんなところじゃない。
「佐竹さん」
背後から、小太刀珠の声がかかる。振り返ると、彼女は小走りにこっちへやってくるところだった。僕は立ち止まり彼女が来るのを待った。
「どうしたんだい?」
「あたしも連れていってください」
どういうつもりだ? まあ、ここの環境に早く馴染むために、率先して引き受けよういったところだろ。その心意気はいいが、初心者について来られても邪魔なだけだ。
「だめだ。帰ってろ」
「あたし、地球でレンジャーの訓練受けてます。きっとお役に立てると思います」
「本当か?」
「はい。決して邪魔にはなりません」
*
邪魔どころではなかった。
レンジャーの訓練を受けたというのは嘘ではなかったようだ。
険しい洞窟の中をひょいひょいと進む彼女に、取り残されないよう僕の方が必死だった。
「ちょっと待ってくれ」
小太刀珠は立ち止まって僕の方を振り向く。
「あまりの不用意に進むな。この洞窟には何かがいるんだ」
「何かってなんです?」
僕はインド隊のロボットが撮影した映像の事を話した。
「誰かが先に入っていたんじゃないんですか?」
「そうかもしれないが、万が一という事もある」
「万が一ってなんです? まさかこの洞窟に月人がいるとでも?」
「いや、そうは言ってないが」
「大丈夫です。月人なんていません。いるわけありません。絶対にいません」
いや、そこまで断固たる口調で否定しなくても……
「君はひょっとしてお兄さんを嫌っているのか?」
「そ……そんな事ありません」
一瞬、答えを躊躇した。という事は嫌っているんだな。
小太刀は変わり者だが、決して悪い奴ではない。あいつが妹から邪険にされていると思うと少々気の毒な気がする。
「佐竹さん。前に何かいます」
「なに?」
前方を凝視する。確かに洞窟の向こうで光が動いている。
例の奴だろうか?
不意に光の方から声が聞こえた。
「そこに誰かいるのか?」
英語だった。どうやら先に入ったチームらしい。
「日本隊だ。そちらは?」
「カナダ隊の者だ。生存者を一人見つけた。しかし出血が酷い。人工血液はあるか?」
輸血用人工血液は装備の中に入っていた。
「あるぞ。今からそっちへ行く」
光の方へ向かって歩いていくと、男が一人岩の上に横たわっていた。その左右で二人の男が手当てをしている。
「血液だ」
僕は人工血液のボトルを差し出す。
男が一人振り向いてボトルを受けとった。
「ありがとう、助かったよ。我々の持ってきた血液は使い切ってしまったとこなんだ」
「彼は大丈夫なのか?」
「意識はあるし、まもなく出血も止まる。ただ、血が足りなくなるところだった」
「彼だけか?」
「いや、洞窟の奥にまだ一人いるらしい」
「そうか。じゃあ僕達はそっちへ」
奥へ行こうとした僕達を、もう一人の男が制止した。
「ちょっと待て。これを聞いてくれ」
男は通信機を差し出す。
「彼が持っていたものだ。通信記録が残っていたので聞いてみたんだが」
男は通信機の記録を再生した。
『こちらハンス。聞こえるか?』
『ああ聞こえる。なにかあったか?』
『逃げろ! 直ぐに、この洞窟から逃げるんだ!!』
『なに!?』
その直後、通信機からゴーという突風のような音が鳴り響いた。
「これが録音されたのは、ちょうど空気漏れが始まった時刻なんだ」
男は通信機のタイマーを指差した。
「という事は、ハンスという男は穴の近くにいたんじゃないのか?」
「私もそう思うんだが、問題はその後だ」
ゴーと風の音が続いた後、突然人の声がスピーカーから流れた。
『バケモノ!!』
ハンスの声だった。そして録音はそこで終わっていた。
バケモノ? ハンスはいったい何を見たんだ?
「例の奴か?」
僕の質問にカナダ隊の男は首をすくめる。
「分からん。だが、ハンスは何かに襲われたんだ。これ以上先へ進むのは危険だ」
「見捨てるのか?」
「しかたあるまい。我々は武器になるようなものを持って……おい君! よせ」
男の視線は僕の背後を向いていた。
振り向くと、小太刀珠が洞窟の奥へと向かうところだった。僕は慌てて追いかけたがなかなか追いつけない。
「小太刀君。よせ、戻るんだ」
彼女は振り向いて言う。
「なんで戻るんです!? この奥に遭難者がいるんですよ。あたし達は救助に来たんじゃないんですか?」
「そうだけど。今の話を聞いただろ。ハンスは何かに襲われたんだ」
「そうでしょうか? あたしは違うと思います。きっと何かを見間違えたんです」
「なぜそう思う?」
「女の勘です」
「話にならん」
彼女はかまわず先に進む。
「わかった。僕も一緒にいくから、少しペースを落としてくれ」
「はい」
ようやく僕は彼女に追いついた。
暫くの間、僕らは無言で洞窟を進み続ける。
沈黙を先に破ったのは彼女だった。
「佐竹さん。月噴水を見たことありますか?」
「二回ほどあるが」
「どんな感じでした?」
「どんなって、細かい砂が舞い上がって、まるで光る霧のようだった」
「そうですか」
彼女は暫く考え込む。
「あたしの父は月面車の運転中に『凄い霧だ』という言葉を最後に消息を絶ったんです」
「ああ、それは知ってる」
「兄は宇宙省の人からそれを聞いて、言葉通りに受け止めてしまったんです」
「言葉通り?」
「ええ。霧が発生する。という事は月には本当は空気があって、NASAも宇宙省もそれを隠していると」
「それで月人を信じるようになったのか」
「ええ。あたしも当時は子供だったし、兄の言ってる通りなのかなと思ってました。でも中学生ぐらいになってから、何かおかしいと思うようになったんです」
「それでどうしたんだ?」
「調べたんです。父が消息を絶った時刻と場所を。そうしたらちょうどその時刻その場所は、月の日没にぶつかっていたんです」
「なるほど」
「つまり父が言っていた霧というのは月噴水の事だったんです。父は恐らく、月噴水に視界を遮られてクレパスか何かに落ちたんだと思うんです」
「その事はお兄さんに言ったのか?」
「言ったら、引っぱたかれました」
それは酷い。妹に嫌われても仕方あるまい。
「佐竹さん。誰か倒れてます」
投光機の照らし出す光の中に男が仰向けに倒れていた。
ハンスだろうか?
胸のネームプレートを確認する。
ハンス・ラインヘルガーと書いてある。どうやら彼のようだ。
小太刀珠は彼の手袋を外して脈を測った。
「脈は正常です。気を失っているだけのようですね」
「そうか」
僕は気付け薬を出して彼の袖を捲りあげ注射した。
「ううん」
程なくしてハンスは意識を取り戻した。
「ここは……どこだ?」
まだ意識が朦朧しているようだ。
「しっかりしろ。君は助かったんだ」
「助かった? あ!」
どうやら思い出したようだ。
「何があったんだ?」
「池を見つけたんだ」
「池?」
「そうだ。洞窟の中で僕だけ仲間と別行動を取ったのだ。そして洞窟の中を歩いていると目の前に池が現れたんだ」
「おい。気は確かか? ここは月だぞ」
「大丈夫だ。原因は直ぐに分かった。池には上から激しく水滴が落ちていたんだ」
「水滴?」
「ああ。上を見上げると天井が氷に覆われていたんだ。水滴はそこから落ちていた」
「という事は洞窟に空気を入れたために」
「ああ。今まで穴を塞いでいた氷が溶け出したんだ。僕が見たときには氷に亀裂が入り、そこから空気が抜けていくのが見えた。氷の向こうは月面だったんだよ」
「それで、仲間に逃げろと」
「ああ。だが少し遅かった。逃げる途中で氷が割れて、凄い突風に襲われた」
「それで『バケモノ』というのは?」
「バケモノ? なんの事だ?」
ハンスは不思議そうに僕を見る。
覚えていないのか?
「君が最後に言った言葉だ」
ハンスは考え込んだ。
「佐竹さん。ちょっとこれ見てください」
声の方を振り向くと、小太刀珠がしゃがみ込んで地面を指差していた。
なんだ、これは?
岩に爪が食い込んだような痕がある。
どう見ても自然にできた痕には見えない。
同じ大きさの爪痕が一センチ幅で五つ並んでいる。さらにそこから一メートル離れたところに同じような痕跡が。
何者か分からないが、岩に食い込むような爪を持った奴がこの洞窟にいるというのか?
「思い出した!!」
突然ハンスが叫んだ。
「空気が薄くなって意識が朦朧としていたときに、突然後から身体をつかまれたんだよ」
「掴まれたって……誰に?」
「あいつだ」
「あいつ?」
「インド隊のロボットが撮影したあいつだよ」
やはり、何かがいたんだ。この洞窟に。
月人? いや、そんなものいるはずない。
だが、なんにせよ、ここは危険だ。
「小太刀君、手伝ってくれ。ハンスを運ぶ」
振り返ると、小太刀珠は暗闇を凝視していた。その視線の先に何かがいる。
奴か?
「フー アー ユー」
突然、彼女は暗闇に向かって話しかけた。そんな、相手に英語が通じるわけ……
「アイム ムーンワーク ロボット」
暗闇から返事が返ってきた。
月面作業ロボットだと?
光を暗闇に向けると、そこに一台のロボットが立っている。
旧式だが、確かに月面作業ロボットだった。
それじゃあインド隊のロボットが遭遇したのはこいつだったのか?
ボディが傷だらけなところを見ると、かなり長い間、洞窟を彷徨っていたようだ。
彼女はハンスの方を指差す。
「この人をここに運んだのは、あなたなの?」
「はいそうです。この方は大変危険な状態にあると判断しまして、緊急避難処置でここに運びました。減圧がおさまるまで私がここで抑えていました」
それじゃあ、あの爪痕は突風に吹き飛ばされないようにしがみ付いていた痕だったのか。
彼女は僕の方を振り返る。
「佐竹さん。この子、ハンスさんを襲ったんじゃなくて救助したんですよ」
「そのようだね」
僕も立ち上がりロボットに近寄る。かなり傷がついてるが、胸の辺りに日の丸のマークがあった。という事は日本の宇宙省所属か?
ロボットに聞いてみるほうが早いな。
「君の所属はどこだ? いつからこの洞窟にいる?」
「私は日本国宇宙省月面観測隊所属、三菱三式月面作業ロボット月兎六型です。この洞窟に入ったのは二〇五四年八月一日です」
二〇五四年!! まさか!?
「君はなぜここに入った? ここでいったい何をしていたんだ?」
「私が起動した時には、すでに洞窟内でした。なぜここにいたのかは不明です。起動後、私はマスターの命令で出口を捜していました。しかし、マスターの酸素が尽きる前に、出口を見つけることはできませんでした。それ以来、この洞窟内で待機していました。あなた達は日本人ですか?」
「そうだが」
「日本の方が来たら、これを渡すように命令されてました」
ロボットの胸の蓋が開き、中から何か取り出した。ボイスレコーダー?
「君のマスターとは誰なんだ?」
「月面調査隊隊員、小太刀徹です」
僕の横で小太刀珠が息を飲むのがわかった。
「お父さん……」
「小太刀隊員はどこにいる?」
「マスターはいません」
「それは分かっている。彼の亡骸はどこかと聞いている」
「分かりません。マスターは私にレコーダーを託した後、洞窟の奥へ入っていきました。私は付いてきてはいけないと命じられましたので、マスターがその後何処へ行ったか把握しておりません」
いずれにしても、この洞窟のどこかに遺体があるのだろう。だが今はハンスを基地へ運ぶのが先だ。
僕達は基地へ引き返すことにした。
*
西暦二〇五四年八月一日。
私は日本の宇宙飛行士小太刀徹。
もしかするとこれは私の遺書になるかも知れない。
事の起こりは八日前、月面に降りた時から始まる。私が月に降りるのは二度目だ。今回の我々の任務は、三年後に予定されている溶岩洞窟恒久基地化のための予備調査だった。
三年後、プリンセスホールの入口を完全に塞ぎ、洞窟内に空気が満たされる計画だが、これはそんな容易なことではない。
どこかで空気漏れが起きるのは当然として、今まで真空だった洞窟の壁に一気圧の圧力がかかった場合崩落の危険はないか。酸素や水蒸気を含んだ空気に触れて洞窟壁が腐食しないか。
火山性ガスも問題だった。この溶岩洞窟ができた当時は内部は火山性のガスで満ちていた。そのほとんどは宇宙へ抜けて行ったが、一部では凝固して氷の状態で洞窟内部に残留している。この氷に昇華点を上回る空気が触れれば、たちまち昇華してしまい空気中に有毒ガスが発生してしまう。
それらの危険な個所をチェックしていくのが今回の任務だった。
調査は順調に進んでいた。十二台の探査ロボット達が洞窟内のデータを集め、次第に正確な地図が作られていった。それでもこの調査はまだまだ時間がかかる。そのための水を補給するため、私は月面車で南極基地へ向かった。プリンセスホール内部にも氷の水があるが、硫化水素などの有害成分を含んでいてそのままでは飲用に適さない。まだ十分な精水設備ないので今はその水は使えないのだ。
アクシデントがあったのは、南極からの帰り道でのことだった。
水を満載したタンク車をけん引していた私の月面車は突然霧に包まれた。月では、夜明けと日没に静電気の影響で砂が舞い上がる月噴水と呼ばれる現象があることは知っていたが、これほどとは思っていなかった。
気がついた時にはすっかり視界を遮られてしまい、月面車は深い竪穴に落ちてしまった。
狭い竪穴の途中でタンク車が引っ掛かったおかげで、穴の底に叩きつけられなくてすんだが、月面車は宙づりになってしまった。
私は月面服の中に潜り込み月面車を脱出。
その直後にタンク車が破裂した。
ぶら下がっていた月面車は底に叩きつけられ壊れてしまった。そしてタンクから勢いよく噴出した水は、瞬時にして気化すると同時に、気化潜熱を奪われた水が瞬時にして凝固して氷になった。その氷によって縦穴は完全に塞がれてしまった。縦穴の壁を何とか氷のところまでよじ登ってみたが、氷の層は厚く私の力では破れそうにない。
私は完全に閉じ込められてしまった。
通信機を使ってみたが、電波は岩に遮られどこにも通じなかった。もしかすると穴に日の光が差し込んで氷が溶けるかも知れないという期待も抱いたが、太陽はさっき沈んだばかりだ。
次の日の出まで二週間。生き延びられるだろうか?
月面車の残骸から使えそうな物を探してみた。食料と水は十日分、電力も二週間は持ちそうだ。しかし、酸素は三日分しかない。
日の出まで到底もたないだろう。
私に残された希望は、仲間がこの縦穴に気がついて助けに来ることだけのようだ。
私は下手に動きまわる事はしないで、この場所で救助を待つことにした。
その一方で、月面車に積んであった二台のロボットを起動させ、出口を探させることにした。
今日はもう休もう。せめて夢の中で妻や子供達と会えればよいが。
昇はちゃんと勉強しているだろうか?
珠は泣いたりしてないだろうか?
心配だ。二人を抱きしめたい。
西暦二〇五四年八月二日
私は戻ってきたロボットに起こされた。
出口が見つかったかと期待したがそうではない。定時連絡に戻ってきただけだ。
ロボットとの間に無線が通じないため、私は八時間後に戻ってくるように命じておいたのだ。出口は見つからなかったが、ロボットは洞窟内のマップを作製してくれた。
かなり大規模な洞窟なようで、二台がかりでも探査しきれていないようだ。私はロボット達に未探査区域を調べるように命令しようとしたとき、マップに妙な構造を見つけた。
月の洞窟は溶岩の流れた跡なので、当然細長い構造をしている。しかし、一ヶ所だけドーム状の空洞があったのだ。
直径が百メートル。高さは五十メール。
ほぼ真円に近い構造だ。自然の造形とはとても思えない。ここから歩いて一時間ほどのところにある。今からでもそこへ行ってみたい。何があるか見てみたい。
しかし、いつ助けがくるか分からないのにここを動くわけにはいかない。
私はロボットの一台を未調査区域に向かわせ、一台をドームに向かわせることにした。
ロボット達が行った後、私は酸素の残量を見て愕然とした。じっとしていれば消費量を抑えられるかもしれないと思ったのだが、ほとんど変わりはなかったようだ。
私の命は後、三十六時間しかなかった。
三時間が過ぎて、ドームへ行ったロボットが戻ってきた。ロボットの持ってきた映像は驚くべきものだった。ドームはやはり自然のものではなかった。何者かに作られたものだ。
ドームの壁は金属ともセラミックともつかぬ材質でできていていた。そしてドームの中心で何かが輝いていた。直径一メートル程の光る円盤というべきだろうか。いや、光る穴といった方がいいかもしれない。
私はその映像を見て興奮を抑えることができなかった。一時だけ迫りくる死の恐怖を忘れることができた。間違えない。
これは人類以外の文明だ。
西暦二〇五四年八月三日
どうやら、最後の時間が近づいてきたようだ。酸素残量は二時間を切った。
ロボット達はよくやってくれたが、とうとう出口は見つからなかった。
美代子、昇、珠。すまない。私はもうお前達のところへ帰れない。もう抱きしめることもかなわない。最後に誰かがこのボイスレコーダーを見つけてくれる事を期待して言い残しておく。
美代子、昇、珠。私はお前達を愛している。死の瞬間まで私はお前達を愛し続ける。うまい言葉が思いつかないが、それが私の偽りない気持ちだ。
最後の酸素を使って私はあのドームに行ってみようと思う。勘違いしないで欲しいが、私は決して自暴自棄になったわけではない。
もしかすると、あのドームにいけば私が生き延びる術が残っているかもしれない。
可能性は少ないが私の最後の賭けだ。
このボイスレコーダーを見つけた人よ。
ロボットのコンピューターにマップを残してあるので、見つけたらドームを探してほしい。私が賭けに敗れたなら、そこに私の亡骸があるはずだ。何もなければ、私は賭けに勝ちどこかで生き延びているかもしれない。
では後をたのむ。
*
録音はそこで終わっていた。その後は基地中が大騒ぎとなった。各国の基地が競って新洞窟に隊員を送りこみ、ドームを探し回ったのだ。山崎まで、帰還を延期して洞窟探検に加わった。しかし、ロボットの持ってきたマップはほぼ正確だったが、いくら探してもドームはどこにもなかった。ドームに続いているはずの洞窟は落盤で塞がっていて入ることができないのだ。地中レーダーで探しても、そこにドームらしい構造物は、まったく見付からなかった。
「父は、幻覚を見たのでしょうか?」
小太刀珠が呟くように言ったのは、シャトル発着場での事。一週間前、彼女はここでシャトルから降りて僕の操縦する月面車に乗り込んだ。
今度は彼女が操縦してきたのだ。一週間で操縦を覚え、今日が初当番という事だ。後の客室にいるのは一週間遅れで帰還する山崎。で、僕は見送りについてきたというわけだ。
今回は他に客もいないし。
それはいいのだが、どうもシャトルが遅れているようだ。そんなわけで、さっきから僕達は発着場に止まった月面車の中で待ちぼうけを食らっている。
小太刀珠はポケットからあのボイスレコーダーを取り出した。結局、ドームどころか小太刀徹隊員の遺体さえ見つからなくて、彼の形見はこれしかなかったのだ。
「佐竹さん。これ、兄には聞かせても大丈夫でしょうか?」
「うーむ」
正直、こんなのを小太刀昇に聞かせたら、また妄想が酷くなるかもしれない。しかし、このまま渡さないのも……
「ドームの話は、死の寸前に見た幻だと言っても、あいつは納得しないだろうな」
「ですよね」
「幻じゃないかもしれんぞ」
山崎が客室から顔を出す。
「幻だよ。だいたい、小太刀隊員が見たドーム内の映像はどこある? ロボットのコンピューターにマップは入っていたが、肝心の映像はなかったぞ」
「ロボットは二台あっただろ。もう一台の方に映像が入っていたんだ」
「その一台はどこへ行ったというんだ?」
「小太刀隊員と一緒に、向こうへ行ったんだよ」
「向こうって? ドームか?」
「いや、もっと遠くだ」
「どこだよ?」
「それはだな……」
山崎はしばし口ごもる。
その時、窓の外でシャトルが降りてくるのが見えた。そろそろお別れだな。
小太刀珠は月面車を発進させた。ゆっくりとシャトルに近づいていく。
「これを言うと、俺も妄想狂と言われそうだから、言わなかったんだが……」
「何だよ?」
「ワームホールだ」
「は?」
だめだ。山崎もおかしくなったんだろうか? そう言えば月の洞窟にはワームホールがあるなんていうヨタ話もあったな。
「ボイスレコーダーの中で、小太刀隊員は『光る穴』って言ってただろう」
「それがワームホールだとでも?」
「だから、俺も妄想だと思ってるよ。思ってるけどな」
山崎はポケットからビンを取り出した。
「これを見てくれ。月を離れる前に、おまえにこれを渡そうか迷ったんだが……」
山崎はビンをひっくり返す。ビンの蓋に張り付いていた小石が浮き上がりビンの底にぶつかる。また、ひっくり返すと小石は浮き上がりビンの蓋に張り付いた。
エキゾチック物質? また作ったのか。
しかし、いつの間に?
「エキゾチック物質か? 地球に持ち帰らなくていいのか?」
「地球に持ち帰る分はトランクに入れてある。これはおまえの手で調べてもらいたいんだ」
「調べるって、なにを?」
「今から俺が話すことが、妄想かどうかを。そいつを調べれば、何か分かるかもしれないと思ってな」
奥歯に物の挟まったような言い方だな。
「まあ、俺の妄想だと思って聞いてくれ。光る穴がワームホールだとするなら、いったいそれは何処へ消えてしまったのかと考えたんだ」
山崎はビンを僕に差し出す。
「で?」
僕はビンを何気に受け取る。
「本来、ワームホールというのはブラックホールとホワイトホールをつなぐ時空の穴をいうのだがそれだけじゃない。もっと身近なところにもある」
「身近なところ?」
「十のマイナス三十五乗メートル以下の量子力学的領域では、ワームホールが一瞬開いては消えるという現象が常に起きている」
月面車の動きが止まった。シャトルとのドッキング作業が始まる。
「小太刀隊員が見たのは、その量子ワームホールを人の通れる大きさに無理やり押し広げて、閉じないようにつっかえ棒を入れてあったものじゃないかと思ったんだ」
「で、それがどうしてなくなったんだ?」
「つっかえ棒が折れて、ワームホールが閉じたんだ」
「面白くない妄想だな」
「まったくだ。それでな、月震計の記録を調べたんだ。すると十年前にドームのあった辺りを震源とする月震が起きてる」
シャトルの連絡口が開いた。
「つっかえ棒が折れたとしたら、おそらくその時だろう」
山崎はトランクを持って立ち上がる。
「なるほど。しかし、ワームホールが閉じる力はそうとうなもんだぞ。その力に対抗できるつっかえ棒って何でできているんだ?」
「それだよ」
山崎は僕が持っているビンを指差す。
「エキゾチック物質さ」
山崎は連絡口に入っていく。
と、いきなり山崎は振り向いた。
「そのエキゾック物資な。俺達が集めた試料じゃないんだよ」
「なんだって?」
「昨日、ドームがあった辺りの洞窟で見つけたんだ。洞窟の天井にへばりついていたのを剥がしてきたんだ」
連絡口が完全に閉じた。
シャトルはそのまま発進し、天空へ消えて行く。
「あの佐竹さん。山崎さんはさっき何を言ってたんですか?」
「ただの妄想だよ。気にしなくていい」
そうだ妄想に決まっている。
僕は手にしたビンを見つめた。
こんな物でワームホールを支えられるものか。仮にできたとしても、その中を人が安全に通れるはずがない。
「それじゃあ、基地へ帰還しますね」
彼女が月面車を発進させようとしたとき。
「ちょっと待った」
僕は彼女を制止した。
「どうしたんです?」
「あれが通り過ぎるのを待つんだ」
僕は車外カメラの映像が映っているディスプレイを指差す。輝く霧のようなものが、壁のように立ちはだかっていた。
シャトルを待ってる間に、日没がきてしまったようだ。
「これが月噴水なんですか?」
小太刀珠はディスプレイを不思議そうに見つめる。
「ああ」
月噴水は急速に近づいてきた。その光景は、もはや噴水というよりは巨大な光の帯だ。
やがて月面車は輝く霧に包まれる。
「きれい!!」
幻想的な光景に、しばし彼女は見とれていた。
「でも、父はこれのために命を落としたんですね」
「そうだね」
僕は山崎の残していったビンを見つめた。
帰ったら、調べてみるか。
まあ、どうせこんな物でワームホールが支えられるわけないが。
だがもし、山崎の言っていた事が正しければ、小太刀兄妹の父はワームホールを抜けて今も宇宙のどこかに……
了
『月噴水』と書いて『ムーンファンテン』とルビをふりたかったのですが、タイトルにはルビはつけられませんでした。残念。
この現象は、月面の昼と夜の境界面で、静電気によって砂が舞い上がる現象で、2009年ごろにNHKの番組で紹介されました。
なんと言う名称か番組では紹介されていなかったので、
ネットで調べたところ"Moon fountains"という英語の名称があるのですが、また日本語に翻訳されていなかったようなのです。なので、この小説に使う時は「月噴水」と直訳して使う事にしました。