迷推理は蒙昧に
解決編を書いていたら、前回の分に一つ致命的に書き忘れが発覚しました。そこだけ書き足しのですが、いちいち読み直すのも面倒でしょうから書いておくと「スタンレー氏は四時半に行きの列車に乗るために、部屋を出たと思われていた」ということです。あと、キング氏の年齢は28です。
「ああ、やつは時間を盗んだんだな」
自信満々に言い切ったジャックの顔を見た瞬間、エヴァは瞬時に腹筋にあらん限りの力を込めた。言うまでも無く、噴出すのをとっさに防ぐときの処置である。
彼女は背後にいるサハルをちらりと確認してみたが、サハルの方はまだジャックが何を言いたいのかを理解できていないらしく、エヴァにだけ分かる程度に怪訝な表情を浮かべているだけだった。
それも無理はないかとエヴァは内心で思った。こういったものを理解するのに、サハルは少しばかり現実に足が付き過ぎているのだ。
「もしかしたら、わたしのお株が奪われてしまったかな」
「気にするな。容易にたどりつけると言ったのはそっちだろ」
「じゃあ、答え合わせも兼ねて、是非、名刑事の推理を聞かせて欲しいな」
エヴァの言葉に気を良くしたジャックは、意気揚々と自分の考えを述べ始めた。
「俺はアーサーの証言を最初に聞いたときから気になることがあったんだ。人間というのは自分の形を大切する生き物だ。自分で自分の形を決めたら、そうそう別の形に移れるものじゃない。だが、この事件ではいつも違う行動を取っていた人間が複数存在した」
「一人は言うまでもなく、オルガ夫人だろうね。客人を招いておいて、夕方五時まで寝ているのはちょっと常識では考えられないことだ。だから、犯人だと思われたというところもあるだろうし」
「そうだな。彼女は明らかに睡眠薬を盛られたんだろう。だが、重要なのは夫人ではなく、キング夫妻の方さ。いつも時間ぴったりに来る彼らがいつもより一時間早く訪ねてくる。これは事件には関係無いと思われていたようだが、少しばかり異常だ」
「確かにね。けど、どんな人間だって物理的な要因で時間通りに来れないことって言うのはあるもんじゃないかな」
「分かってるだろ。遅刻ならそういうこともありえるかもしれないが、彼らは早く来たんだぞ。そこに何か特別な理由があると考えた方が無難だ」
「もちろん、彼らにその理由を聞いてみたんだろ?」
「ああ、彼らは自分たちは約束の時間通りに来たと言っていたよ」
エヴァは背後から短く鋭い息が放たれる音を聞いた。どうやら、サハルも彼の言いたいことを理解したらしい。思い込みとは恐ろしいものだな。彼女は自戒も込めてそう思った。
「なるほど。そうするとアーサーとキング夫妻のどちらかの主張が嘘だということになるね」
「嘘というのは正確な表現じゃないな。アーサーは本当に彼らが約束より一時間早く来たと信じてたんだからな。だが、勘違いしてたのはアーサーの方だった」
「睡眠薬を盛られたのは、彼が荷物を運んで酒場で一杯ケインから奢られたときかな?」
「それしかないだろうな。ケインは睡眠薬でアーサーを眠らせた後、おそらく一度彼を自分の家に運び、ホテルにトンボ帰りして自分の父を殺害したわけだ。そして、また戻ってきてアーサーをきつけ薬で起こし、何事も無かったかのようにアーサーと共にホテルに戻った。先ほどの話には出てこなかったが、アーサーは母親から送られた懐中時計をお守りみたいにしていてな、いつもそれで時間を見ているんだよ。これさえズラしてしまえば、あの男の時間感覚は滅茶苦茶さ。つまり、ケインはアーサーの時間を一時間奪っていたんだ」
そんなに違和感無く人を眠らせたり起こしたりできる睡眠薬があったら是非欲しいものですね。サハルはそんなことをぼんやりと思った。同じく、睡眠薬を盛られたと仮定しているオルガ夫人が、起きた際に軽い頭痛を訴えていたことを彼は忘れたのだろうか。
色々と文句は思いついたが、サハルは使用人として正しく沈黙を通した。わざわざ自分が口にしなくても、エヴァがこれからジャックの推理を粉々にしてくれるだろうと確信していたからだ。
「一つ聞きたいんだけど、何でケインは死体を櫃の中に入れたんだい?」
「それはもちろん、死体の発見を遅らせるためだろう」
「何で遅らせる必要が?施錠された部屋で戻ってきた二人が、死体を発見すれば、必然、犯人は部屋の中にいた夫人しかいないということになるわけだろ。たまたま、キング氏が発見したからいいようなものの、もし発見されずにお開きになっていたら、不確定要素が増えて、確実に夫人に罪押し付けられないかもしれないじゃないか」
「それはキング氏が発見しなかった場合は自分で発見するつもりだったんだろう」
「けど、アーサーの証言によれば、ケインは起きてきた夫人に今日は取りやめないかと提言しているだろ。むろん、断られることを前提とした演技という可能性もあるけど、そもそも死体を隠さなければ、そんなことをする必要はなかったはずだ」
「突発的な犯行故にとっさに死体を隠したくなったのかもしれない」
「前提が崩壊してるじゃないか。彼はアーサーと夫人に一服盛っているって話だっただろ。必然、犯行だって計画的なものだったはずだ。それに彼らの体格差を考えるとかなりの重労働だろ。魔が差したでは説明しきれない気はするよね」
その指摘にジャックは言い返そうとしたが、咄嗟には言葉が何も出てこなかった。しかし、エヴァの方はそれ以上ジャックを追い詰めるでもなく、静かにこちらを見つめているだけだったので、何秒かして彼にも有効な反論が用意することが出来た。
「その理屈だと、ケインは櫃に死体を隠さなかったということにならないか」
だが現に死体は櫃の中で発見されたのだ。エヴァの理屈は理屈ではあるかもしれないが、現実とは適合していない。まだ自分の方が真実に近い。ジャックは一度は論破されかけた自説に自信を深めかけたが、次の瞬間、それはまた脆くも崩れ去った。
「やっと分かったんだ。そうだよ、ケインは死体を櫃に隠したんじゃない。ただ、櫃から死体を移動させられなかっただけなのさ」
「何を言ってるんだ?」
「あれ?まだ分かってなかったんだ。うーん、そうだな。アーサーが言ってた急用を知らせる手紙って、死体の何処かから発見されたの?」
「いや、衣服の中にあった手紙は、連邦の貴族からの季節の挨拶程度の内容のものが一枚だけだった。最上階の部屋は一通り探したが見つかっていないので、おそらくスタンレー氏が燃やすなりして処理したんだろうと考えられている」
「元から存在しなかったとは考えられない?」
「何故、氏がそんな嘘をつく必要がある?」
エヴァはどうしたものかなという風に後ろのサハルを見た。
「アーチボルド様、失礼ですが、この世で一番人を愚かにさせるものは何だかご存知でしょうか?」
今まで気配すら希薄にしていたサハルの突然の問いかけにジャックは面食らったが、この主従はこういうものなのだとすっぱりと諦めて、彼の思った答えを返した。
「金か?」
「いえ、愛でございます」
随分と夢見がちなことを言うものだ。考えてみれば、彼女もまだ若いのだから驚くべきことではないか。ジャックはそんなことを取りとめとなく考えていたが、次の瞬間、喉の奥から変な声を出していた。やっと、彼にも真相が分かったからだ。
「スタンレー氏が自分から櫃の中に入ったって言うのか?」
「そっ、全ての要素を組み合わせれば、それがこの事件を最も容易に説明できる解だよ。そもそも、服の袖に薬の粉がついていた時点で気づくべきでしょ。普通は薬を盛られた人間の袖に薬がついたりはしないものだ。彼は薬を盛った側の人間だと考えるのが妥当だよ。その点だけ見ても、この事件においてスタンレー氏がただ殺されるだけの被害者じゃなかったことは推察できる」
「だが、死体の状況から見て、氏が睡眠薬を盛られたことは確実なんだぞ」
「別に薬を盛られた人間が、他の人間に薬を盛っちゃいけないって規則はないよね。さっきの推理のときは、入れる余地はあっただろうから深くは追求しなかったけどさ。あの日、午前中に夫人が口にしたとおぼしきものはアーサーからスタンレー氏に渡されたと証言されている炭酸入りの果汁水だけだ。夫人に一番薬を盛りやすかったのが殺されたスタンレー氏だったことは疑いようがない」
「だが、氏が夫人に薬を盛って何の得があるんだ」
ジャックにはもうその答えが分かっていたが、それを振り払うように強い口調でいった。何せ、スタンレー氏は地位も名誉もある55歳の分別ある大人なのだ。常識的に考えれば、そのような振る舞いに及ぶはずがないのである。
「だから、サハルが言ってたじゃないか。愛だよ、愛。あれだろ?深夜の一時まで客人を引き止めて、遊戯に興じていたって言うんだ。当然、泊まる場所は用意してたわけでしょ」
「ああ、キング夫妻が来るときは、いつも一つ下の階にオルガ夫人持ちで一部屋取っていたらしい」
「その部屋が一つじゃなくて、オルガ夫人とキング氏の密会のためにもう一部屋用意されていたとしたらどうする?」
「そんなことはありえない。札遊びをするときは、使用人たちの帰宅も遅くなるからな。そういうときは、アーサーもその日はいなかったマーレも応接間で寝ることを許されていた。寝ている彼らの間を抜けて、キング氏との逢瀬を重ねれば露見するのは目に見えている」
「だろうね。私もオルガ夫人とキング氏の間には何の関係も無かっただろうと思うよ。むしろ、その方が犯人には都合が良かったんだろうし」
「どういうことだ?」
「だって、荒唐無稽なら荒唐無稽なほど、犯行が露見する可能性は低くなるからね。だけど、どんなに真実味が薄くてもスタンレー氏は吹き込まれた疑惑を完全に払拭できなかった。おそらく、30という歳の差がそこに影響していたんだろうね」
「妻を信じきれなかったわけか」
「まっ、氏の方が立場は上なんだ。本当に疑っていたなら、こんな手段には出なかっただろうと思うけどね。おそらく、犯人は彼にこう言ったのさ。そこまで疑うなら、証明してみせる。あなたが不在のときに2人がどんな甘い言葉を囁き合っているか、自分の耳で聞いてみればいいとね」
日に日に衰えていく自分と、これから花盛りを迎えようとしている妻。深く愛すれば愛するほど、不安もまた増していったことだろう。愛ゆえの行為だと自分自身を誤魔化しながら、計画へと嵌っていく男を想像して、ジャックはそれを滑稽だと笑うことは出来なかった。
「あの日、マーレに暇をやってケインが札遊びの代役に収まったのも、スタンレー氏からすれば、上手く居間に妻とキング氏が二人っきりになる状況を作り出すための布石だったわけだな」
「ケインから見れば、もし夫人が札遊びを中止しなかったときに上手く立ち回って、夫人以外には犯行が不可能な状況を作り出すためのものだったわけだけどね」
「つまりあの日、スタンレー氏は嘘の急用をアーサーに告げた上で、彼らがいなくなったのを見計らって自分で櫃の中の隠れたんだな。自分の妻が不倫しているかを確認するために」
「で、櫃の中でそれが永遠のものになるとも知らずに眠り込んでしまった。大して寝心地がいいとは思えないから、昼食時にケインから睡眠薬を盛られたと考えるのが妥当だろうね」
「そして、部屋に帰ってきたケインは、オルガ夫人の様子を見に行く振りをして、隠し持っていた刃物で、櫃の中で眠っている自分の父親を殺したわけだ」
「ケインが犯人だとするなら、真相はざっとこんなもんだろうと思うよ」
「俺の推理は全く的外れだったわけだ」
「そうかな?急所は突いてたと思うけど」
「今更、褒められても虚しいだけなんだがな」
「残念だな、本気で言ったんだけど。じゃ、約束のものは頼んだよ」
エヴァが椅子から立ち上がるのを見て、ジャックは一瞬呼び止めるような仕草を見せたが、結局は彼女がサハルに開けさせた扉の向こうに去っていくのをただ見つめていた。
「証明はこっちでやれってことか」
ジャックは自分にだけ聞こえる声で呟いたつもりだったが、彼の予想以上に相手の耳は性能が良かった。
「だってそれが警察の仕事だろ?」
エヴァの馬鹿にしたような口調を残して、扉はゆっくりと閉まっていったのだった。
屋敷への帰り道、四輪の馬車に揺られながら、サハルは先ほどから気になっていたことを主人の訊ねてみた。
「よろしかったのですか?」
「何が」
「確認すれば、おそらく、キング夫妻の約束の時間が何者かによって変更されていたことが判明したはずです」
「犯人からすれば、部屋に帰ってからの犯行が不能なことを証言するのが使用人1人ではあまりに弱い。キング夫妻と鉢合わせることは絶対に必要な出来事だったはずだ。ただ、列車の時間がある以上、スタンレー氏が櫃に隠れる時間は動かせないし、アーサーをあまりに長時間酒場に拘束するのも不自然だ。必然、キング夫妻の約束の時間をずらすのが一番手っ取り早い。彼の作為が最も露出しているが故に、最も危うい場所だね」
結論部を取られても、サハルは特に驚きはしなかった。エヴァがジャックの部屋を去る前に彼に投げた言葉は明らかにそういう意味だったからだ。
サハルが気になっていたのは、何故に彼女の主人がこの分かりきった結論をジャックに告げなかったかであった。
「多少は、むこうにも頭を使ってもらわないとさ。こっちが馬鹿みたいじゃないか。それに最後の刑事の顔見ただろ?」
「──左様ですか」
「何か文句でもあるのかな?」
「滅相もありません」
ただそれは普通、花を持たせるという行為に該当します。サハルは内心でそう思ったが、主人が機嫌良くしているのだから、わざわざ悪くさせる必要もない。彼女は座ったまま深く頭を下げるのであった。
とりあえず、5篇目までは書こうかと思っていて、4,5篇目のトリックは決まっているのですが、3篇目がまだ決まらないので、それが決まり次第、続きを書こうかと思っています。
目途をつけていたトリックが駄目そうなのと、ちょっと学園異能が書くたくなったので一時休止。