卓上は無残に
宣言した通り、全体的に差し替えしました。
夜の八時。約束通りの時間、警視庁での書類仕事を片付けたジャックはグッドフェロー家のかなり前で辻馬車を降りると、月明かりの下、徒歩で屋敷の裏門へと向かっていった。
その夜はとくに蒸し暑く、少しの距離を歩いただけでジャックの額にはうっすらと汗が浮かんでいた。裏門とは言っても、馬車が2台横に並んでも楽に通れるだけの幅はあったのだが、彼には事実上他の選択肢は存在しなかった。
何せ、彼が生まれる前からアーチボルドの家で馬車を御しているカーターが、グッドフェロー家の屋敷に足を踏み入れるくらいなら辞めるとまで言い募ったのである。よほどの金子でも積めば別だろうが、そこらの辻馬車にグッドフェロー家まで行ってくれと頼めば、一も二もなく馬車から追い出されるのは目に見ていたからだ。
しかし、一度目にこの屋敷を訪れたとき、自分が荷馬車に引かせていたもののことを考えれば、彼らの方が賢明なのかもしれない。ジャックは裏門の横に設けられた通用口の戸を叩きながら、そんなことを思った。
「ジャック・アーチボルド様でございますか?」
「そうです」
「お待ちしておりました。どうぞ、お入りください」
ジャックにとっては意外なことだったが、彼を迎えたのは使用人頭のウィリアムズであった。
迎えに出たのがサハルでないことを知って驚きながらも、どこか安心している自分を感じて、ジャックは顔が夏の暑さ以外の理由でほてるのを感じた。
灯りを手にもったウィリアムズに導かれるまま、ジャックは小川に掛かる石橋を渡り、裏庭を通り抜け、屋敷の壁を沿うように10分ほど歩き続けた。
しかし、ほんとに伯爵家の屋敷とは思えない広さだな。ジャックは額の汗を手でぬぐいながらそんなことを思った。前回は裏門でサハルにつなぎをつけると、屋敷に入ることもなく足早に去ってしまったので、その広さを実感するには至らなかったのだ。
「あの話は本当なんですか?先々代のグッドフェロー伯爵が燃え盛る城の中から十数名の連れと共に隣国の姫を助け出し、見事その姫を嫁に迎えたというのは」
ジャックが口にしたのはこの国では有名な話だった。
グッドフェロー家はその武勇がこの国の王にも認められ、王の別宅の一つを褒美として与えられた。それが現在のグッドフェロー屋敷なのだ。
「少しばかり話が大きくなっているところもありますが、概ね真実でございます」
「やっぱり、そんなものですか。60年以上昔のことですからね」
「はい。大旦那様はわたくしも含めて7人の従者しかお連れではありませんでしたので」
このとき、ジャックの内側を駆け抜けた感情は複雑怪奇なものであったが、言語化する前に彼の横を一人の男がふらふらとした足取りで通り抜けって行ったため、何も言えずじまいで終わってしまった。それぐらい、横を通り抜けた男は彼にとって意外な人物だった。
「あの角を曲がりますと、御嬢様がいらっしゃいます」
ウィリアムズは立ち止まって、その場で深々と頭を下げた。
うやらここからは一人で行けということらしい。ジャックは小さく頷くと、言われた通りに屋敷の角を右に曲がった。
ジャックは目指すべき場所をすぐに把握した。屋敷から少しばかり離れたところに、薄い紙で灯火の周りをおおった蝋燭台が円を描くように等距離に10台ほど置かれ、優しげではあるが見落としようがない明るさがその周囲に満ちていたからだ。
その光の輪の中心にあったのは、白大理石で作られた小さな東屋だった。
東屋の屋根の下に置かれた二脚ある藤椅子の一つには既に青いサテン地の夜会服に身を包んだエヴァが座っており、むずかしい顔で彼女の目の前に置かれたチェス卓を眺めている。その横ではサハルが主人のために杯に葡萄酒を注いでいた。
「エヴァンジェリン様、アーチボルド様がお着きになりました」
エヴァはジャックの方を一瞥すると、さらにもう一度チェス卓の方をちらりと見たが、鼻で息を吐くとゆっくりと立ち上がった。
「ようこそ、アーチボルド刑事。大したもてなしも出来ないけど、座ってください」
勧められるままエヴァに向かい合うように椅子に腰掛けると、サハルから酒の種類について訊ねられたので、ジャックはいつも口にしている銘柄を答えた。
「悪くない趣味だね。あそこの酒蔵は毎年いい仕事をする」
「俺もそう思う。グッドフェロー家の葡萄酒も悪くはないがね」
「今度うちの畑のものに会ったときにそう伝えておきますよ。そういえば、化粧をしてないサハルに会うのは初めてかな?」
エヴァの口調は何気無かったが、ジャックは内心で気を引き締めた。
「いや、前に死体を運び込むときに会った」
「そういえば、そんな話も聞いたな。不快なら他のものに酌をさせるけど」
質問の答えは色々とありえた。
これからエヴァに頼ろうとしているのだから、彼女が気に入ってる使用人に嫌悪感を示すのは得策ではないのかもしれない。だが結局、ジャックは自分に正直にあることにした。
「そこまでしなくてもいいが、出来れば手酌で勘弁願いたいな」
「そうかい。じゃあ、一杯目くらいはわたしが注がせてもらうことにしよう」
エヴァは立ち上がると、ジャックとサハルを残して屋敷の中に消えていった。
「合格ということでいいのかな?」
「さあ、わたしにはエヴァンジェリン様の心の中は測りきれませんので」
「さっきの言葉の後で何なんだが、サハル、君には白よりその肌の色の方がよく似合っていると思う」
「もったいないお言葉です」
微笑み合っている2人を見て、酒瓶を片手に戻ってきたエヴァはわざとらしく口を尖らせた。
「サハルはあげないよ」
「仮に貰っても、俺では扱いに困るだけだろうさ」
エヴァはその答えに小さく笑うと、ジャックの杯に酒を注いだ。
注がれた酒を舌の上で十分に味わった後で、ジャックは先ほどから気になっていたことを屋敷の主人に訊ねてみることにした。
「来る道で、サリバン氏とすれ違ったと思うんだが」
「見ての通りだよ。さっきまでここで相手になってもらっていたのさ。けど、彼のことよく知ってたね」
「知ってるも何も──もしかして、勝ったのか?」
自分の側の王の駒が倒されているのを見て、ジャックはそんなはずがないと言った口調で聞いた。
何せ、ジョン・サリバンと言えば、ここ1年公式戦ではほとんど負けを知らず、つい先日クラリッサ連邦の代表との七番勝負を四戦連勝で終わらせた、現在この国一番のチェスの名手なのだ。
「勝ったというか、彼が勝手に負けたんだよ」
エヴァはチェス卓をじっと凝視しながら、そう答えると、やがて小さく頷いた。
「やっぱり、これじゃ詰まないな。続けてたら、かなりの確率でわたしの負けだっただろう」
「続けてたらって、彼は終盤のねべりのしつこさから”まむし”と呼ばれている男だぞ。そうそう勝負を手放すとは思えないが」
「所詮、遊びだってことさ。女相手にむこうだって本気を出したりしないからね」
あそこまで人の心を折っておいて良く言うものである。サハルは主人の韜晦に何ともあきれ果てた思いだった。
十回行われた勝負の三戦目の序盤が終わった時点で、相手の顔は完全に蒼白だった。サハルは東屋の近くの茂みに潜みながら、サリヴァンがいつ逆上してもいいように備えていたが、彼にはことを行う気力すら残されてはいなかったようだった。
それも無理は無い話ではあった。
ジョン・サリバンはジャックの話にもあるように、三人の師から受け継いだ莫大の棋譜を暗記することによって、その卓越した粘り強さをものにした指し手だった。彼自身、自分以上にチェスを知り尽くした者はいないと自負していたほどだ。
そんな彼に対して、エヴァは定石には無いような手ばかりを打ち続けたのだ。普通に考えれば、定石を外れるということは悪手に通じる。事実、彼女が打った手にはいくつか失着としか言えないようなものもあった。
だが、悪手であった手がいつの間にか実を結び、有利であったはずの形勢がいつの間にか逆転しているという事態に何度も直面する内、サリヴァンの自負は脆くも崩れ去っていったのだった。
「彼は勝ち方は知っているかもしれないけど、美しく勝つ方法を知らなかったよ」
興ざめという言葉の生きた見本のような顔をしながら、エヴァは駒を始まりの位置に戻し始めた。
「勝負なんだから勝てばいいんじゃないのか?」
「もちろん、勝つことは大事さ。けど、本当に強くなるためにはより美しい手を判断する秤が必要なんだ。彼にはそれがなかった」
「もうちょっと具体的に言ってもらえないか」
「駒の価値および駒の位置から形成を判断するために必要な統合的な理論の欠如、かな」
「具体的に言われても、よく分からんな」
「だろうね。駒何個落ちがいい?」
「とりあえず全落ちでいいか」
「謙虚なのは美徳だと思うよ」
エヴァは歩兵の一つを指の中で遊ばせると、優雅に前へと進めたのだった。
「──グッドフェローさん、一ついいかな?」
三試合目を終えて、ジャックは疲れた声をエヴァに向けた。女王と僧正と騎士の駒を落としての試合は、そこそこ伯仲していたのだが、最終的にはエヴァの勝利で幕を落としていた。
「今のは悪く無かったね。あそこで騎士に無理に歩兵を取らせなきゃ勝負は分からなかったかな」
「少しは相手に花を持たせたらどうだ?」
「獅子は兎を狩るのにも全力を尽くすというよ」
「これはそういう問題じゃないと思うぞ」
そう言って、ジャックが指差したのは時間を計るために置かれた砂時計だった。二つある砂時計のうち、エヴァの近くに置かれたものは砂をほとんど下に落としていなかった。三試合の全てにおいてエヴァは手順が回ってきてから3秒以内に駒を動かしたからである。
「別に、アーチボルド刑事が特別ってわけじゃない。わたしはずっとこういう風に指してるんだ」
ジャックは確認を求めるようにサハルを見た。
「はい。エヴァンジェリン様は、サリヴァン様に対しても10秒以内には指されていました」
「──その内、指す相手がいなくなるぞ」
「正直に申しまして、もう限りなく零でございます」
「そりゃ、そうだろうな」
意気投合している2人の様子を見て、エヴァは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「頼み事をしにきておいて、家の使用人と依頼する相手の悪口を言っているだから、さすが警視庁最年少の刑事さんは肝が太い」
「悪い、別にそういうつもりは無かったんだが。そういえば、近頃の事件の容疑者もこういった遊びが好きな女性だったよ。あっちは札遊びだったが」
「札遊びって?」
ジャックがあげた遊戯の名前を聞いて、エヴァは愉快げに頷いた。
「女性が好むにしては少し珍しい遊びではあるね。どうせ、金を賭けてたんだろう?」
「賭けてたみたいだな。それほどの額ではなかったようだが」
「どうだか。その遊びに傾倒したあげく妻を質にかけた男の笑い話があるぐらいだからね」
「借金の筋はないんだが、しかし、似ているかもしれないな。殺されたのはまさに夫なんだ。それも札遊びに熱中している妻のすぐ近くで命を落としたらしい」
しばらく、チェスの相手もいなさそうだし、暇つぶしには悪くないか。四戦目の準備をしながら、エヴァはそんなことを思うのだった。
オリジナル語が読み返したら、耐えなかったので修正して、チェスに。(13/05/20)