使者は突然に
続編を期待しているという感想も頂いたので、よし書くぞと思ったのですが、何とも難産しました。
前回のスタイルを踏襲して4章立てにしたいような気もするのですが、文字数が足りなさそうだったら、さっさと問題編に突入するかもしれません。
使用人に張らせたハンモックに身をゆだねながら、エヴァは自室で知人の一人から送られてきた書類に目を通していた。
厩を改造した彼女の部屋は、総石造りであるため日に日に暑さを増していく七月の気温をある程度は防いでいたが、雲一つない昼下がりの太陽の力を完全に遮断するには力不足ではあった。
彼女はその不足分を、東からきた着物と呼ばれる木綿織を茜で巧みに染めあげた布切れ一枚を身体にまとっただけというあられもない格好によって補っていたが、それでもその秀でた額には汗が浮かんでいた。
一度しきり直すか。そう思ってエヴァはハンモックから身を起こすと、石畳の上に雑多に置かれた本の一冊に無造作に右足の先を置いた。
活版印刷が発明されてから久しく、かつてに比べれば本の値段は嘘のように安価になってはいたが、それでも彼女が今、平然と踏みつけているような職人が手仕事で皮の装丁などを施した本は高級品だ。普通なら屋敷の主人の書斎に置かれて恭しい扱い受けるのが筋だろう。
しかし、この家の主人であるエヴァンジェリン・グッドフェローにとって、本の価値とは単純にそこに書かれた内容であり、その本の内容はしごく退屈であったから足踏みにすることに何の躊躇いも存在しなかった。
エヴァは左手でハンモックを掴みながら、足場にした本の上で身体をぐるりと回すと、寝たままでは拾い上げることが出来なかった部屋履きの一つに左足を滑り込ませた。
言い訳のしようがないほど不精な行為であったが、そこはエヴァも伯爵家の令嬢、近年では社交界とはほとんど絶縁状態にあるとはいえ、過去の舞踏の蓄積もあって、動きだけを見れば優雅と言えないこともなかった。
「これは、ヘンリー叔父さまにだけは見せられないな」
心にも思ってもいないことを言いながら、エヴァは軸足を切り替え、浮いた足をもう一方の部屋履きにするりと通した。彼女が履いたのは、身にまとわせている着物に合わせた白い鼻緒に朱塗りという下駄であった。
東趣味が流行中のミーザル王国でも、下駄を履くのは少しばかり酔狂を超えていたが、仮に誰かがエヴァのその格好を見ても、驚いたりはしなかっただろう。というより、かの大逆人の婚約者として”悪魔の花嫁”と仇名され、戯れ歌では一瞥で心臓を止める魔眼を持つとされる貴族の娘が常識的な格好をしていたら、その方が驚きだと言うかもしれない。
そんな世間の評判を知ってか知らずか、エヴァは自信に満ちた足取りで部屋の端までたどり着くと、隣の部屋へと続く扉についたノッカーを、かつて彼女が遊びで作った暗号表に従って、一度目は強く、二度目は弱く叩いた。
扉はすぐに開いた。別に何らかの機械仕掛けがあるわけではない。主人の呼びかけにいつでも応えられるように、扉の横に使用人が控えていたというだけの話である。
エヴァは何も言わずに声を開いた扉のむこうにある部屋の中に入ると、立ち止まることなく部屋の反対側にある外への扉に突き進んだ。
隣の部屋はエヴァの自室より暑かった。
原因は、過剰な暑さを防ぐためにかなり絞られているとはいえ、植物の育成などのために随所に施された光取りの仕掛けから、光だけでなく熱までもが部屋の中に入ってくることにある。
この部屋には、50センチほどの幅の溝が部屋を横断し、近くの小川から水が流れ込むという涼しげな仕掛けも存在していたのだが、全体的に効果のある暖房と、線的な効果しかない冷房では、どちらが勝るかというのは考えるまでもないことだった。
エヴァが部屋の効率的な冷却方法を検討しながら歩いていると、すぐ後ろに丸い影のようなものが接近してきた。
「お待たせしました」
「別にいいさ。一分一秒でどうにかなるほど、やわな身体ってわけでもないしね」
エヴァが振り返ることもなく軽口を返したのは、彼女がある意味で最も信用する使用人であるサハルだった。丸い影というのは、彼女が主人を入れるためにさしていた白い日傘である。
ですが、エヴァンジェリン様が肌を焼かれては、わたしのような者の居場所が無くなってしまいます。サハルは次にそう口にしようとして、寸前で止めた。
使用人としての立場と、女としての立場とをかけた言葉遊びだが、こういった機知は本人が思っているほど他者を楽しませないと相場が決まっているのもあったし、何よりエヴァの歩みがわずかながら早くなったからだ。
サハルの使える主人には自分の考えに集中したいとき、移動の速度が上がるという癖があった。別にその際に話しかけたからといって、何か罰則があったという話を聞いたことはない。むしろ、主人との会話を使用人の側で勝手に打ち切る方が不味いわけだが、両者を天秤にかけて後者を取るような使用人は、この屋敷には1人としていなかった。
二人がいる部屋から外へと出る扉は二つあった。一つは最大で四頭立ての馬車が容易く入れるほどまで開く巨大な引き戸であり、もう一つはその引き戸と直角になる壁にある人間が通るためだけの扉だ。
エヴァが今目指しているのは人間のための扉だったが、これには一つ問題があった。扉には見るからに重々しい木の閂がかかっているのである。
いつもならともかく、せっかく気持ちよく歩んでいらっしゃるのですから、こんなことで中断させたくはありませんね。サハルはそう考えると、エヴァの後ろを追いながら慎重に扉との距離をはかった。
あと三歩。
あと二歩。
あと一歩。
今。
そして、一つの曲芸が行われた。
サハルは持っていた日傘を高々と放り投げると、そのまま身を低くしながら、エヴァの左側を駆け抜ける。目指すはもちろん閂だが、彼女の腕力では一瞬のうちにこの閂をどうにかすることは出来ない。
だから、サハルは低くした身を跳躍させると、閂の端の部分を左足で絶妙に蹴りぬいた。
蹴られた閂は、横にずるっとスライドしたが、片方の止め金の上できれいにバランスを取ったので石畳に落ちて、不快な音を立てるようなことはしなかった。
サハルはそのことを身を宙に任せながら確認して、小さく満足げに頷いた。彼女は閂を蹴りぬくと、そのまま自由な右足の方で開錠された扉を蹴って外側に開け、その反動を利用して、2メートル弱もの跳躍を軽々としてみせたのだった。手には測ったように、落下を始めた白い日傘の柄がおさめられる。
この間、およそ二秒。石畳の上に音もなく着地すると、サハルは今まさに扉から外に出ようとする主人の後を追うのだった。
外に出ると気温は一気に上がり、日傘の中にいてもエヴァの全身からは汗が噴出し始めた。
それとは対照的に、体のほとんどをメイド服でおおい、日傘から半身を出しているサハルの褐色の肌には汗一つ浮かんではいなかった。かつて彼女が受けた訓練の賜物である。
人生というのは分からないものだ。そう思って、サハルは小さく笑った。
刺客として身に付けたはずの技能が、使用人としての勤めに役に立つなど想像したこともなかったからだ。まして、彼女が今仕えているのはかつて命を奪おうとした相手なのである。
そんなサハルの思いなど全く知らずに、エヴァはずんずんと屋敷の裏庭を進んでいく。そこら辺一帯はエヴァが丹精を込めた畑になっていたが、今の彼女の目的はそれではない。
目的の場所まで半分ほど行ったところで、エヴァはちらりとサハルの方を見た。もう話しかけてもいいという合図である。それを受けて、サハルは口を開いた。
「エヴァンジェリン様、少々よろしいでしょうか」
「その前に、サハル。”菌”についてどう思う?」
「”金”ですか?」
サハルの鸚鵡返しに、エヴァは少しだけ考えるともう一度質問をやり直した。もちろん、この間も2人の歩みは続いている。
「何ていうかな、虫よりも小さい生き物でね。今読んでた研究発表の概要によると、これが葡萄を葡萄酒に変える原因らしいんだ。他にも、死体が腐るのもこれが原因らしい」
「生き物ということは、それは触ることが出来るのですか?」
「触れる。あまりに小さすぎて、触ったことを実感はできないだろうけどね」
「もしかしたら違うのかもしれませんが、わたし達の国では、死の穢れという考え方があります。死に触れた者は、その身を清めずに生者に触れると害をなすというものなのですが、もしかしたら関係あるのでしょうか」
「ああ、あるね。そういうの。こっちでも、医者がこまめに手を洗うことで、産褥熱の発生を抑えられるっていう報告があったよ。あれも菌という要素を考慮に入れると、確かに上手く説明がつくな。だけど、サハル、酒も作れて病や腐敗の原因にもなるとは、菌ってやつは随分と働きものだと思わないかい?」
サハルは咄嗟に言い返そうとして、言葉を寸前で飲み込んだ。彼女に考えつけることが、彼女の主人に考えつけないはずがないからだ。その証拠に、サハルの目には、目的地の小川についたエヴァが悪戯っぽい笑みを浮かべているのが見えた。
「エヴァンジェリン様は、”菌”の説明をするとき”虫”を例に引かれました」
「虫にも沢山の種類があるように、菌にもまた数え切れないほどの種類があると考える方が妥当か。これはサハルの意見に分がありそうだね」
エヴァはそう言いながらサハルから日傘を受け取ると、靴を脱いで自分の足を小川に浸した。彼女は天気が悪い日を除いて、この頃毎日一度はこうしていた。
「いえ、エヴァンジェリンの示唆に導かれたまでですから」
小川で銀製の水差しごと冷やしておいた葡萄水を、これまた冷やしておいた銀杯にそそぎつつ、サハルは感情のこもらない声で言葉を返した。
その声を耳にして、エヴァはすぐに降参することを決めた。何せ、サハルは今まさに冷えた葡萄水の命運をその手に握っているのだ。今毒味している彼女が毒が入っていると主張すれば、エヴァの楽しみは文字通り水泡に帰すのである。
「悪かったよ。何せ、こっちは実験一つしてない紙切れを見ただけの推論だからね。自分の考えが飛躍してないか、少しばかり不安になったのさ」
サハルは自分の主人に銀杯を渡しながらも、謝罪自体は適当に聞き流していた。どうせ、エヴァはまたやるのである。自分の雇い主は誰かをおちょくっていないと死んでしまう生き物なのだとサハルはもはや割り切っていた。だからといって、何もせずに受け流すほど彼女も人間が出来てはいなかったが。
「今日の8時にうかがえないかというアーチボルド様からの言伝をもって警官の方が参ったのですが、いかがしましょう?」
「へぇ、意外だな。こっちからせっつかない限り、音沙汰なしかと思ってたんだけど」
「お受けするのであれば、夕方からの予定を調整しなければなりませんが」
「ああ、そっちは問題無い。わたしの方で勝手に調整しておくよ」
サハルはその言葉を聞いて、夕方からエヴァに象棋を「指導」しに来る客人に哀れみを覚えた。彼もまさか自分が「調整」されるなどとは夢にも思っていないだろう。
3,4回はもつかと思いましたが、はかない命でした。サハルはとりあえず目下の重要事に集中することにした。別に、先ほど主人にからかわれたことも、半年をかけた招待の算段がほぼ無に帰したことも彼女にとっては大した問題ではないのだ。本当に大した問題ではないのだ、本当に。
「それで服のことなのですが、どちらにしましょうか?」
その言葉を聞いて、二杯目の葡萄水を楽しんでいたエヴァの表情が能面のように固まった。
「サハル、わたしはさっき謝ったと思うんだけど」
「いえ、これは純粋な確認です。胸に詰め物を入れるか、入れないかで用意する服が変わりますから」
「服を二着用意すれば、しなくてもいい会話だと思わないかい?」
「これは申し訳ありません。まったく気が付きませんでした」
深々と頭を下げるサハルを冷めたい目で見つつ、エヴァをどうしたものかなと考えた。警視庁から帰った後、自分の身体に合い流行に適したものを何着か用意してはあるのだ。しかし、二度目に会ったら胸が無くなっていたというのは何とも間抜けな話ではある。
「どっちがいいと思う?」
エヴァは早々に自分で決めることを放棄した。別に彼女としては心底どっちでもいいのだ。ただ、自分でどちらかを決めたくないという心持ちは確かにあった。サハルは相変わらず絶妙なところを突いてくるなとエヴァは変に感心すらしてしまった。
「胸有りでよろしいのではないでしょうか。無駄に恥をかくこともありません。エヴァンジェリン様はここ数年、社交の場にも出ておりませんから、成長したといえば誰も反論はできませんし」
「意外だな。てっきり、意趣返しに一恥かかされるのかと思ったんだけど」
エヴァのその言葉にサハルはさも心外であるという風に眉をひそめた。
「自分の主人に恥をかかせて喜ぶようなやからは使用人とは呼べません」
「──サハル、君がわたしの使用人で、本当に嬉しいよ」
いつの日かサハルをこてんぱんに凹ませてやろう。杯をもてあそびながらエヴァは特に懲りもせずにそう思うのだった。
エヴァは基本的に何でも出来るという設定なんですが、実際には好きなことしかやらないので、サハルへの依存度は高いです。必然、表面上の力関係は拮抗するよねというエピソードでした。
次回は、ジャックさんのイケメン度をどうにか上げたい。