王笏は贋物に
事件編です
「あれは、王立美術館の館長室でわしが二杯目の紅茶を飲み干した頃だったかな。部屋の中にあった時計の鐘が四時を告げてな。卿もわしの話に納得してくれたように見えたし、むこうは展示会の初日が迫った忙しい身だ。長々と世話話でもあるまいと思って、いとまごいをしたんだ。そうしたら呼び止められてな」
「展示品を見ていかないかと言われたわけですね」
端的に事実を告げる姪の口ぶりに、ヘンリーは己の下心を揶揄する響きを聞いたような気がして、口早にならないように意識しながら言葉を付け足した。
「まあ、わしを美術館に呼んだのは彼の方だったわけだしな。卿はそういうところに気が回る人だったから」
そんな叔父の内心を十分に察しながら、エヴァは極力冷たい声で話の続きを促した。彼女個人としては、事実上のグッドフェロー家の名代の身分にある彼が、その程度のもてなしを受けるのは当然だと考えていたがそれを一々口にする義理など彼女にはないのである。
「それで、二人して美術館の廊下を歩いたんだ。新聞では王笏のことばかりが取り上げられていたがね。他の展示品も流石は卿が見立てただけあって、中々に見事な品ばかりだったな。ただ、王笏を主役にするための措置なんだとは思うが、少しばかり小品が多すぎるような気もしたがね。まあ、王笏の展示を、みなの美術教育のために実行した平民派の陛下という筋だから、あれくらいの方がよかったのもかもしれんが」
「まだ死んで十年ですよ。人々の記憶が風化するには早い気もしますけどね。もしかして、あの指輪もないんですか?”王弟陛下のおっきな指輪、とってもとっても大きくて、脳みそよりもおっきなくらい”っていう、あの翡翠の指輪」
王弟の浪費癖を皮肉ったかつての流行歌を、今の流行歌の主題になっている人間が歌うというのも皮肉なものだなと思いながら、ヘンリーは肩をすくめた。実のところ、彼はエヴァが歌を歌う場面に立ち会ったのは初めてだったが、特に感動などは覚えなかった。エヴァンジェリン・グッドフェローという人間は大抵のことは人なんかより何倍も見事にこなす。そんな彼の認識が補強されただけだったからだ。
「あれは遺言で、愛人に渡ったらしくってな。国外に出た後、行方不明になったらしい。似たような理由で、展示に持ち込むまで難儀した品もあったようだな。たまに卿が手に持っていた皮の手帳を開いてな。色々と裏話を教えてくれたよ」
叔父の言葉に、エヴァはかすかに眉をひそめた。
「裏話をするのに手帳頼りというのは、少しばかり館長としての資質に不安を覚えなくもないんですけど」
「確かにそうとも言えるが、エヴァ、誰もがお前ほど記憶力に恵まれているわけではないんだよ。王弟陛下にゆかりの品を幅広く紹介する趣旨の展示会だ。品数も多いし、契約もある。全てを暗記というわけにはいかんだろうさ」
「別にわたしだって、そんなことを人に求めたりはしませんよ。ただ、こういったとき、普通は全てを頭に収めているかのように振舞うのではないかなと思っただけです。いちいち手帳を確認されると会話だってしにくいでしょう?」
「わしの言い方が悪かったな。彼が手帳を開いたのは、たぶん2回か3回、それもざっと目を通したぐらいものだ。これなら別に会話の妨げにはならないだろう?」
確かに叔父さんは”たまに”と言っただけだしな。妙なところにつっかかり過ぎたか。エヴァは心にもない反省の弁を頭の中でもてあそぶと、何事も無かったかのように話を次に進めた。
「それで、二人で展示品を眺めながら、廊下を歩いて、王錫の展示室へと向かったと」
「ああ、王笏を展示している部屋の入口には、二人の職員が左右に立っていてな、今考えれば、彼らも警官だったんだろうな」
「その口ぶりだと、身体検査の類はされなかったわけですか」
「隣に館長がいたんだ、素通り出来たよ。そもそも、そこまでのことはしていなかったんだろう。わしが部屋に入ってから少しして、中にいるご婦人のためにイスを運んできた職員の青年がいたんだが、彼も特に何かされている様子はなかったように思うし」
それでは部屋の入口に人を立たせている意味がないのと同じだな。エヴァはこの時点までの話だけで警察の警備体制に落第点をつけた。とはいえ、彼女にも彼らが警備を徹底しなかった理由はよく分かった。普通に考えて、玄人はわざわざ捕まれば死刑が確定するような品に手を出したりはしない。悪戯か嫌がらせの類だと判断して、お義理で警備を派遣していただけだったのだろう。
「部屋の中はどういう様子でしたか?」
「大体、新聞に書いてあった通りだがね。部屋そのものは、人が50人も入れば一杯になるくらい大きさで、出入口以外の扉がある面をのぞく三面には、王弟陛下が描かれた肖像画や歴史画が二枚ずつ飾ってあった。そして、部屋の中央には特注の箱の中に置かれた王笏が、瓦斯の灯を受けて、美しく輝いていたよ」
ここまできて情報を出し惜しみされても。妙な間を置いているヘンリーが、どんな言葉を求めているかはもちろんエヴァにも分かったが、流石にそんなしょうもない手に乗る気がしなかったので、薄い笑みを浮かべると叔父の水色の瞳をじっと見つめた。やはりというか、先に根負けしたのは、わざわざ屋敷までやってきて今回の話をしようとした方であった。
「これは何処の新聞にも書いてなかったことだが、王笏には制服を着た警官が二人付いていたよ。台の左右にそれぞれ真逆の方向を向いて立っていてな、展示会中もずっとそういう風にして王笏を守る役目を果たす段取りになっていたらしい。まあ、それも無駄になったわけだが。あと部屋の中にいたのは、わしと館長をのぞけば、内覧に来ていたどこぞの奥方と、彼女が座るイスをもってきた職員の男だけだったな」
「その女性は、王笏を見ていたんですか?」
「いや、彼女が見ていたのは、陛下が若かりし時の軍服姿を描いた肖像画だよ。イスを持ってこさせてまで、じっと眺めていたな。よっぽど思い入れがあったんだろうな。卿はあまり彼女については教えてくれなかったので、まあ、そういうことなんだろう」
王弟の昔の愛人と言ったところですか。サハルはそこを掘り下げても何が出そうにないと感じたが、やはり彼女の主人も似た印象を抱いたらしく、それ以上詳細な情報は求めず、ヘンリーに先を促した。
「わしらは、ちょうど王笏が置いてある台と入口の間に立って、色々と話をしていたんだ。あんまり台に近づきすぎると、警官に話が聞こえてしまうから、そこそこの距離は取っていたが、それでも王笏の美しさは、瞳を捉えて離さなかった──」
「色々というのは、王笏以外の話ということですか?」
せっかく一番の盛り上がりを迎えようとしているところで水を差されて、ヘンリーは唇をぎゅっと引きしめたが、エヴァの質問へは素直に答えを口にした。過去の経験から、自分の姪に感情だけで反発するのは賢明ではないと、それこそ骨身に染みている彼なのである。
「王笏というか、それを囲んでいる硝子の箱の話でな。普通の硝子の箱は、鉄製の枠に硝子をはめ込むという方式だろう?だがあそこにあったのは、特殊な接着剤で硝子と硝子がとめてあってな。四方の何処から見ても、中の王笏が無粋な枠にさえぎられないで見えるようになっていたんだ。なんだかんだで客は、王笏を見にくるわけだからな。なるべく失望させないで帰そうと、ドジソン卿は硝子そのものもより透明度が高いものを職人に注文したらしい。よっぽど近くで見なければ、硝子があると分からないなどと自慢しておったよ」
「そんなに透明だったんですか?」
ヘンリーは可笑しみと少しの悲しみが混じりあった表情を浮かべて、小さく首を横に振った。
実際のところ、彼とドジソン卿はそこまで親しい間柄であったわけではない。もちろん、友人の一人ではあったが、何処か弁護士という彼の仕事を介しての関係性であったことはむこうも否定しないだろう。ただ、美術館に施された工夫の数々を我がことのように自慢する楽しげな男の姿は、もう既にこの世にいないからこそ、おそらく彼の脳裏に最後まで残るだろう画の一つになっていたのだ。
「普通のものよりはな。それでも硝子は硝子だ。透明にはならんさ」
なるほどという風にエヴァが頷くと、ヘンリーはこれ以上は待たんぞと言わんばかりに体を前のめりにして、おそらく社交の場で何度も話して洗練を重ねたのだろう滑らかな語り口で、事件のあった瞬間の様子を描写し始めた。
「それで、ちょうど卿がわしを労ってくれていた最中に、瓦斯の灯が急に全て消えて、部屋が真っ暗になったんだ。卿もとっさのことに驚いたんだろ。手帳が床に落ちる音がしてな。とはいえ、彼はすぐに冷静さを取り戻して、わしにその場で動かないようにと要請したよ。だが、すぐに硝子の箱が割れる音がして、それで部屋の中は一気に混乱に陥ってしまった。女性の甲高い叫び声と警官二人の野太い声、それに慌しい足音が混ざりあってな。卿もわしの隣で落ち着いて欲しい旨、何度も声を張り上げていたんだが、暗闇というのは人の生来の恐怖心を喚起するんだろうな。結局、部屋の入口で見張り役をしていた男の一人が、外から蝋燭の光を持ってきてくれるまで、何がどうなったのか、よく分からんという有様だったな」
美術館全体に瓦斯を供給する管の元栓に細工がされていたんでしたか。多くの新聞はこの点を持って、犯行は内部の人間によるのではないかと暗に匂わせていたが、サハルとしてはそれだけでは根拠としては弱いと考えていた。
もちろん、内部の人間の方が細工を楽に行えるのは間違いないが、ヘンリーの話からも分かるように警察の警備は形だけの上に王笏の周囲に限られている。サハルは買い物で何度か、王立美術館の前を通ったことがあったが、ざっと見た限り何も無いのであれば、並の泥棒なら中に忍び込むのに苦労したりはしないだろうという印象であった。
サハルが頭の中で大まかな侵入の計画を組み立てている横で、エヴァとヘンリーの話題は、事件があったときの彼の具体的な動きへと転じた。
「わしは卿が近くにずっといてくれたこともあって、ほとんど最初の場所から動かなかった。互いにそれを証明できたお陰で、後で警察から煩わしい質問をされたりもしなかった。もちろん、部屋の中に複数の灯りが持ち込まれてからは多少は動いたよ。やはり王笏の無事をこの目で確かめたかったしな。まあ、警官が間に入ってそれほど近くで見ることはかなわなかったが、割れた箱の中にしっかりと王笏が鎮座しているのを見たときは、他人事ながらにほっとため息が出たよ」
だけど、その王笏はまったくの贋物だったというわけだ。エヴァは新聞に踊った題字の数々を頭の中で思い浮かべた。”愚か警視庁、すり替えに気づかず””待望の展覧会、目玉は偽王笏””館長以下、全員節穴”などなど、当時、各新聞社は売り上げのためにどれだけ扇情的な記事を書けるかを競うかのような様相を呈していた。彼女はそのとき他のことに気を取られていたが、世間はもっぱらその話題に持ちきりであった。
「一つ質問なんですが、箱が割られていたんです。中の王笏がすり替えられいる可能性を、誰も考えつかなかったんですか?」
「少なくともわしの頭には無かったな。恥ずかしい話、蝋燭の光の下で輝いていたソレは、わしにはまったく同じものに思えたよ。それに王笏は普通の杖くらいの長さはある。今考えて、あの場にいた人間で隠し持てたとすれば、服の下側に余裕がある奥方くらいのものかと思うが、反面、素早く動くのには不向きな服だ。仮に口に出しても一笑に付されただろう」
「にも関わらず、次の日に念のためにした検査で、王笏は贋物だと判明。その知らせを受けた後、ドジソン卿は自分の頭を打ち抜き。その二日後、匿名の通報によって、安宿の一室から本物の王笏が発見されたと」
エヴァのあまりと言えばあまりにも手短な要約に、ヘンリーは文句一つ言わずに頷くと、握り締めていた自分の両手を勢いよく開いてみせた。
「みんな、口にこそ出さんが、犯人はドジソン卿なんだと思っている。窃盗の発覚を知った彼が、後のことを恐れて自分の頭を打ち抜き、誰かがその尻拭いをしたんだとね。だが、あのとき一番近くにいたわしには断言できる。彼は王笏を盗んだりはしていない」
珍しいこともあるものだ、叔父さんが自力で答えにたどり着いたらしい。エヴァはそんな失礼なことを考えながら、彼の話の続きに耳を傾けるのだった。
そもそも設定に無理があった感は否定できないですね。具体的に書くまで、電気が通ってないと、急に暗闇になるとか簡単に出来ないことに気づかなかったのが敗因な気はします。
解決編は出来れば、二月、少なくとも一週間以内には上げます。
20面相を読んでたら、酒場でガスの元栓をしめて、全てを真っ暗して一発逆転するというエピソードが出てきたので、美術館にもガスを導入することにしました。(3/21)




