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探偵令嬢は殺人事件の夢を見るか  作者: 十二箇月遊
盗まれた王笏の謎
22/24

不敬はみだらに

次が事件編ということなります

「はたして、今回の窃盗事件に不敬罪は適用されるのか、ですか。識者の間でも意見が別れるところでしたが。ちなみ叔父さんの意見は?」

「わしは適用されると考えている。刑法典第142条には、”以下の項目に違反したものは死刑に処する”第42項”皇族の装飾品をみだりに貶めてはならない”とある。十分に今回の犯罪は構成要件を満たしているよ」


よどみなく刑法典の1節を口にして、妙に得意げな顔をしているヘンリーを見て、エヴァはこれは罠だと敏感に察したが、たまには叔父の掌で踊らされるのも良いかと思って、問いを発した。


「ちなみに聞きますが、第106項は?」

「”王印が押された勅書を宛名人以外が開封してはならない”第106項の2”勅書を受け取った者は周囲から人を払い、一人でそれを読まなくてはならない”だな。どうだ、エヴァ、わしも中々に大したものだろう?」

「ええ、感服させてもらいましたよ」


珍しい姪からの褒め言葉にわずかながら頬を赤く染めている叔父を眺めながら、自分がおよそ刑法典に限るなら、王国どころか隣国のものまで諳んじるられる事実をどのようにして告げようかと、エヴァは少し思案したが、結局は考えるだけで止めておいた。


刑法に関する博識を下手に勘ぐられる可能性もゼロとは言えないし、何処か不安げな顔をしてこちらを見てくる叔父もそそるが、年甲斐もなく喜んでいる叔父の表情も別に嫌いではなかったからだ。


「まあ、条文なんぞ覚えたところで、法の運用に関する知識がなければ法律家として何の意味もないがね。しかし、不敬罪は百年前に作られたときに、判例が三つあるだけだからな。自ずと条文の知識が重要になる。警察の方たちは違う意見のようだがね」

「あちらは不敬罪ではなく大逆罪が適用されると考えているという話でしたね。わたしも実際的には、その方が簡便だろうなとは思いますけど」


どちらにしても求刑は死刑以外にありえないわけですしね。空いたグラスに葡萄酒を注ぎながら、サハルはこの頃の新聞をずっと賑わせていた極めてどうでもいい「神学論争」のことを思った。


予想外に早い事件の解決に、振り上げた手の置き所が見つからなくなった新聞各社が、こぞって始めたのがこの度の王錫の盗難が「不敬罪」なのか「大逆罪」なのかという問題だった。


そもそも、この国の不敬罪と大逆罪というのは、王国の統治を揺るがすいくつかの歴史的事件の後、ある種の反動として王統の絶対性が異常なまでに重視された時期に、今まで暗黙裡に処理されていた王に対する謀反の罪を明文化したものであった。


簡単に言ってしまえば、大逆罪は王族を直接的に害そうとした者に適用される罪、不敬罪はそれ以外の間接的な侮辱行為に適用される罪であり、ここだけ切り取れば、何とも明瞭な規定である。


ただ、その条文を書き上げた人物に問題があった。二つの罪に関する条文を作成したのは、王国の混乱期にあって王の傍を決して離れず、その功は測りがたいとまで言われた大人物だったのだが、このときばかりは、その忠誠心が完全に裏目に出たのである。


大逆罪は問題なかった。何故なら、王族には身体が一つずつしか存在しないからだ。


不敬罪には問題しかなかった。何故なら、王族に関わる物品はそれこそ無数に存在したからだ。


一説によれば、草案の時点では、不敬罪における禁止行為が書かれた項の数は1200を超えていたとされる。その草案は歴史の闇に消えてしまったため、真相は定かではないが、現行で642項まである不敬罪の条文を読めば、それがあながち冗談ではないことは察せられるというものであった。


「まあ、わしもあの600項あまりを探してわざわざ該当する行為を調べるより、ここ100年の通例通り”大逆罪には王族の精神的被害も含まれる”という解釈で押し通した方が賢明なのは認めるがね」

「とはいえ、”今回の窃盗が王族への加害行為を構成すると考えるのは、適切ではない”ですか。法学者というのは難儀な生き物ですね」

「しかしな、エヴァ。彼らの地道な積み重ねが、この国の法の安定を担っている面もあるんだよ」


エヴァの揶揄に、ヘンリーは杓子定規そのものといった感じの反論を口にした。論争に参加していた人間の中には彼の友人どころか齢90を超える彼の恩師すらいるのだ。であれば自分や世間の大半の人間の意見はどうあれ、擁護に回るのが彼の流儀であった。


「もちろん、わたしだって彼らの仕事を無意味だとは思いませんよ。もちろんね」


含むようなその言い方に自分の本音を見透かされたような気がして、ヘンリーは逃げるように視線を宙に移した。


「しかし、あれだな。だいぶ話がわき道にそれてしまったようだ」

「確かにそうですね。王錫が盗まれた日、叔父さんが美術館に居合わせたという話でしたか」


おや、いつもはもっとヘンリー様でお遊びになるのに珍しいですね。やけにあっさり引き下がったエヴァの態度を、サハルは意外に思った。とはいえ、何をするというわけでもない。ただ、そのような違和感をしっかりと意識しておくことが、人に関わる仕事では重要だと彼女は骨身に刻んでいた。


「その前にも一度、ドジソン卿に請われて、例の法律については心配することはない説明をしたんだがね。やはり600項に及ぶ条文というのは法の素人からすれば、心配するなという方が無理なんだろうな。2,3確かめたいことがあるからと呼ばれたのが、ちょうど事件があった日だったわけだ。当時は、いくら”王錫”の展示を任されたとはいえ、そこまで神経質になるのもどうかとは思っていたんだがね」

「新聞によれば、美術館には王錫の盗難を予告する書状が届いていたようですからね。もしものことを考えるのは無理なからぬことだと思いますが」

「しかしな、彼にも言ったが、仮に王錫を盗まれたところで、罪人になるのは、盗んだ人間だって、盗まれた人間ではない。もしかしたら、わしがもう少し親身に不敬罪について説明していれば、彼が自分の頭を撃ち抜くようなことはしなかったかもしれんな」


力無くため息を吐くヘンリーの様子に、軽く肩をすくめると、エヴァは叔父を慰めるでもなく話を続けた。


「さて、わたしはドジソン卿のことをよく知りませんから、何とも。叔父さんから見て、彼はその説明を理解していないように見えたんですか?」

「いや、卿はそれについては理解していたよ。彼が心配してたのは、むしろ前館長である王弟陛下のことだったんだろう。第一項”王族の尊厳を穢してはならない。死んだ王族についても同様に扱う”だよ。そもそも、今回の王錫の展示が、あの方の死後10年を悼むための企画だからな。そこが気になるのも当然ではある」

「王弟陛下、ね。正直、悼む価値がある人物とは──おっと、第一項に違反してしまうところでしたね。まあ、その存在自体が既に王族の尊厳を穢していたようにも思いますが。それで、気にしていたのはそれだけですか?」


今更「悪魔の花嫁」に王族への忠誠を説いても仕方が無い。ヘンリーは自分にそういい聞かせた。彼自身も同じ意見だというのも少しならずあったが。


「後は、どの範囲で適用されるかだな。わしはちゃんと、当該行為を黙認したものも同罪だが、適切な処理──今回であれば警察への通報さえ行っておけば、黙認したとはみなされないと説明したし、彼もそれを理解したと思ったんだが。盗まれてしまった以上は、適切な処理ではなかった。もしかしたら、彼はそういう風に考えたのかもしれない」

「なるほど、ありえない話ではないでしょうね」


エヴァの言葉に、ヘンリーはもう一度ため息をついた。


すまいな、ヘンリー。盗難の少し前、彼と交した最後の言葉が、未だに彼の頭の中にこびりついて離れないのだ。


「やっぱり、エヴァもそう思うか」

「ですから、わたしには何も言えませんよ。ヘンリー叔父さんとわたしでは、ドジソン卿に対する理解の質がまるで違いますからね。叔父さんが卿がそういった理由で死ぬような人だと考えるなら、そうなんだろうなと思うというだけの話です」


ヘンリーはその言葉に、小さくだが力をこめて首を横に振った。


「わしが知っている彼は、自分の不始末を進んで命で購おうとするような男ではないよ。そもそも、そのような考えの持ち主であったなら、生命保険などいった事業を始めたりはしないだろう」


確かに、それは言えてるかもしれませんね。サハルはヘンリーの意見に大いに説得された。どうせ最後には死ねばいいやという人生観の持ち主が、生命保険という制度の創始者であるという考えはそれはそれで愉快だが、普通に考えれば、ありそうにない話ではある。彼女の頭の中に、老いておな自分の手で道を切り開いてやまない力強い瞳をした男の顔が浮かんで消えた。


「では、自殺ではなかったと?」

「いや、それはない。卿は20頁にも渡る直筆の遺書に、自分の死後のことを細々と書き付けていてな。わしも読んだが偽造の線はまずないだろう」

「そうすると、叔父さんの言葉は矛盾していることになりませんか?」


若いな、人間なんぞ幾らでも矛盾しているものだ。ヘンリーはそう思ったが、その感想を口に出した場合、確実に姪に論破されそうだったので、何も言い返さずにただ薄く笑った。


「ところで、そろそろわしに本題を話させてくれないかね?」

「おやっ、とっくに本題だと思っていたのはわたしだけでしたか」

「相変わらず、お前は口が減らんな。アーチボルドくんの苦労が偲ばれるよ」


今度は姪の方が何も言い返さずに薄く笑ってみせた。


久々に姪をやり込められたと思い、ヘンリーは気をよくしたが、ここで色恋の話題を深追いすると次はいつ話が本筋に戻ってこられるか分からない。彼はちょっとした勝利の味をかみ締めながら、気分良く今日一番したかった話を披露し始めることにしたのだった。


「あれは、王立美術館の館長室で──」

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