咆哮は確かに
いつもの通り、事件編です。
「申し訳ありませんでした」
ジャックに与えられた絹のハンカチで涙を拭いている女──リリアン・ヤングは取調室の椅子に座ったまま、机をはさんで向かい合うように座っているジャックに深々と頭を下げた。
「気にしないでください。親戚の方がこんなことになったんです。誰も貴方を責めたりはしませんよ、ヤングさん」
表現を変えてはいたが、ジャックがこういった意味の言葉を彼女にかけるのはこれで4回目だった。
先ほどまでの流れだと、リリアンは彼の言葉に熱心に頷きこそするものの、そのまま瞳に涙がたまり出し、またおいおいと泣き始めてしまうのだった。
いい加減勘弁してほしいものだな。これは部屋にいるジャックを含む三人の警官の総意だった。その思いが伝わったのかは分からないが、リリアンは持っていたハンカチをぎゅっと握り締めると、今度は比較的はっきりとした調子でジャックにむけて言葉を発した。
「もう一度、お話をすればいいんですよね?」
「そうですよ、ヤングさん。人間というのは、何度も話すうちに記憶が蘇えってくるものなんです。これは誰だって、そうなんです。ですから、またあの日あったことを最初から話してください」
ジャックの赤子にいい聞かせるような調子に励まされて、リリアンは改めて彼女の人生で一番恐ろしかった日のことを話始めた。
「あの日、わたしは朝の七時頃に、レイラおばさんの住んでいるアパートまで足を運びました」
「それはレイラ・ヤングさんに何か用事があったからということですか?」
「あの日はちょっと忘れ物を取りに寄ったんです。おばさんは、二ヶ月ほど前に腰を痛めてから、前にも増してアパートの部屋から出ない暮らしをしていました。それで親族を代表して、わたしが2、3日に一度、様子を見にいってたんですけど、前日に行ったときに部屋に耳飾りを落としてしまったみたいで」
あの留め具がゆるくなっていたやつだな。ジャックはアパートの化粧台の上にハンカチに包また状態で置かれていたソレを思い出し、頭の中で事実確認をもう一度丹念に確認した。
レイラ・ヤングはやり手の実業家であった夫が脳梗塞で死んだ後、その事業の大半を売り払うと、夫が最初に投資したアパートの一室に半ば隠居し、実の子供たちにもほとんど会わない生活を送っていたとされる。レイラは金持ちの未亡人にありがちなキツい性格をしていようだが、妹の娘であるリリアンはその例外だったらしい。
他の親族の中は、レイラはリリアンを召使いとしか思っておらず、リリアンの目当ても伯母の遺産だったと暗に示唆した者もあった。しかし、ジャックは、両者がそこまで冷め切った関係だったわけではないと判断していた。少なくとも彼なら、召使いの落としたものを自分の生活の領域にわざわざ目立つように置いたりはしないからだ。
「朝の七時というのは、かなり早い時間ですよね」
「そうかもしれませんけど、お年寄りは朝が早いものですから。いつも七時ぐらいに訪ねていました。ワンダの散歩のこともありましたし」
「ワンダというのは、おばさんが飼っていた犬の名前ですね?」
「飼っていたと言ったら、きっとレイラおばさんは怒ったでしょうね。一緒に暮らしていたんです。おばさんは、あの子のことが本当に大好きでしたから」
震えを帯始めたリリアンの声に、ジャックはぎょっとしたが、彼女は何とか感情を決壊させずに喋り続けた。
「ほんとに大切にしてたんですよ。おばさんはワンダを中心に生活してましたから。あの子が7時ごろに起きて、朝ごはんを食べたら、腹ごなしの散歩にいかせるというのが、わたしの一番重要な仕事だと言ってもいいくらいでしたし。それにワンダの夜鳴きが五月蝿いって住人の人が文句を言ったときなんて、あんなにいつもおじさんから受け継いだアパートがって言ってるのに、その人を追い出したんですから。それに──」
「なるほど、分かりました。つまり、ワンダの早朝散歩が、七時に貴方があのアパートを訪ねた理由だと」
ジャックの言葉に、リリアンは小さく頷いた。
本来であれば、刑事の側から答えを誘導するような質問は避けるべきだ。しかし、レイラとワンダの話題を口にするにつれ、リリアンの目には涙が浮かび始めていた。
本題に入る前の状況確認の段階でまた泣かれる位なら、この程度のものは足早に終わらせた方がいい。それがジャックの判断だったし、彼が見た限り、他の同僚も異論は特にないようだった。
「それで、貴方は朝にアパートを訪ねてどうしましたか?」
「わたしはいつものように102号室のノブに手をかけて、扉が少しも開かなかったので、おかしいなと思いました。おばさんは起きているときは、部屋の鍵をかけたりしない人だったので」
女の一人暮らしということを考えると、かなり無用心な態度ではあった。どんな理由があったにしろ褒められた習慣ではなかったが、亡くなった人の瑕疵を責めるのは警察の人間の仕事でもなければ、ジャックの趣味でもなかった。
「貴方は鍵を持っていなかったんですか?」
「そのときは持っていませんでした。家にはもちろん鍵はあるんですけど、おばさんはずっと部屋にいるわけですから、仮に鍵がかかっていても開けてもらえばいいだけの話ですし」
「なるほど、道理ですね。それから?」
「開けてもらうために、扉を何回か叩きながら声をかけました。信じてもらえないかもしれませんけど、あのとき、わたしは確かに扉の向こうで、ワンダが鳴くのを聞いたんです」
「ヤングさん、その話は後にしましょう。それでどうしたんですか?」
「わたしは何となくですけど、おばさんはワンダを散歩に連れいったんだと思っていたんです。腰の状態を考えるとかなり無茶な話ですけど、ワンダのためならそれぐらいはするかなって。ですから、内側からあの子の声が聞こえたときは自分でもビックリするくらい、ビックリして、前よりもかなり強く扉を叩いたんです。そしたら、今度は悲しげなワンダの声が聞こえてきたんです」
ジャックが視線を上に向けると、取調室の壁に寄りかかってリリアンを見下ろしている同僚が、犬の感情が分かるのかよとでも言いたげに苦笑しているのが見えた。それは同時に彼女の証言のある部分に拘るジャックへの侮蔑でもあったが、彼はひとまず取調べに集中することにした。
「二度目のワンダの声が聞こえてきてからのことを教えてください」
「わたしは血相を変えて馬鹿みたいに扉をたたき続けていると、音が聞こえたのか二階に住んでいらっしゃる男性の方が降りてこられたんです」
「サム・ダニエル氏ですね?」
「はい。当時は名前もろくも知りませんでしたけど。彼はわたしの話を聞くと、近くにいた警官の方を呼んできて下さいました。それで話合った結果、すぐに扉を壊して中に入ろうということになったんです。警官の方とサムさんが数回体当たりしたんですけど、やっぱりそれくらいでは駄目で、最終的にアパートの裏に放置されてた斧で、扉の鍵の周りを叩き壊したんです。それで扉がわたし達の方にむけて、ゆっくりとひ、らきました」
そう言いながら、リリアンの目尻からは涙がこぼれ落ち始めていた。無理もないかとジャックは思った。世の中にいる一般的な女性は死体を集めたり、それをさかなに悪趣味な冗談を言ったりはしないものなのだ。
「部屋の中で、レイラ・ヤングさんが死んでいたんですね?」
返事の代わりに、リリアンのすすり泣きは完全な嗚咽へと変わった。だが、それでも彼女は自分が見たものについて最後まで正確に告げた。
「でも、ワンダは部屋の中にはいませんでした──」
*
「何だ?」
部屋に帰ってくるなりエヴァからため息を浴びせられて、ジャックは少しばかり鼻白んだ。
「いや、気にしないでいいよ。警官も色々いるなと思っただけだから。それで、レイラ・ヤングの死因は何なの?」
「撲殺だよ。後頭部に部屋の中にあったガラス製の置物で叩かれたとおぼしき傷跡が残っていた。部屋の中も荒されていたし、夜のうちに入ってきた強盗による突発的な殺人の線が濃厚だ。被害者は発見された時点で死後数時間は経っていたことは確実だが、リリアン嬢からすれば、親しい相手の血まみれの頭部をじかに見たわけだからな。未だに情緒が安定しないのも無理のない話ではある」
「ん?扉を開けた場所から、後頭部が見えるということは死体はうつむけに倒れていたということでいいのかな」
「すまん、話が脇にそれたな。死体についてはその通りだ。どうやら、犯人はレイラ・ヤングを殺しきれなかったらしい。とは言っても、最終的に死んだんだがな。頭を叩かれた後、被害者は床を這うようにして、部屋の奥の方から、扉付近に移動した痕跡がある」
死に至るほど頭を強打されてなお床を這って進む老嬢の姿を想像して、エヴァは何とも言えない気分になった。それは人間の尊さを示す悲劇のようにも思えたし、人間の愚かさを示す喜劇のようにも思えたからだ。
「外に助けを求めようとしたわけだ」
「というよりは、犯人を部屋から閉め出そうとしたんだろうな。這いつくばった状態から身を起こそうとして、扉側と直角になる壁の方を爪がはがれるほど力一杯かきむしった後が残っている」
「それは少々無理がある仮説だね。鍵を施錠してから死んだ場合、その直後に死に絶えれば、壁の付近に寄りかかる形になるし、しばらく時間があった場合でも、せっかく立ち上がったものをうつ伏せに戻ろうとする人はいないだろう?」
「いや、両の手の力で上半身だけを起こそうとした場合なら、そういうことも起こりうるというのがこっちの見解だ。確かに少し無理があるようにも思えるが、二つしかない鍵の内、一つはアパートから歩いて30分の距離にあるリリアン・ヤングの家に、もう一つは室内で発見されている。殴られた後、被害者が自己防衛のために鍵をかけたことは疑いようがない」
エヴァは自分の中にあった極めて確度の高い推測が真実の座に上りつめたことを感じた。さてどうしたものかなと彼女は考え、そんなことを考えている自分を嗤った。彼女は謎を解き、その代価に死体を貰えば、それでいい。犯人の事情を考えるのは刑事であるジャックの仕事なのだ。
「まっ、わたしは実際に死体の位置を見たわけでもないからね、そっちの見解を信じるとしよう。それで一体何が気に食わないって言うんだい?」
「分かってるだろ、犬のワンダだよ。どうやって室内からワンダが消えたのか、その謎を解いて欲しいんだ」
「近頃では蓄音機とかいう便利な発明品も存在しているよね」
「それについては俺も調べた。音を発生させる機械の類は部屋の中に存在していない」
「鳴いた後、扉が壊されるまでの間に、ワンダが別に出口から逃げたのかもしれない」
「部屋には扉のほかにもう一つ犬程度なら出入りできそうな窓があるにはあったが、残念ながら衣装箪笥によって塞がれていた。リリアン嬢によれば、被害者があの部屋に住み始めたときから、ずっとそうだったようだ」
「つまり、密室の中から犬が忽然と消えたと、刑事さんはそう言いたいのかな?」
エヴァの揶揄するような声音も気にせず、ジャックは重々しく頷いた。
「そうだ。ありえないことは分かっているが、彼女の証言を信じるなら、そういうことにある」
「別にありえなくはないさ。というより、君だって本当は分かっているんじゃないのかい?この事件は一つでも疑問に思ってしまえば、そこから全てが連鎖的に解けてしまう性質のものだ。何故、犬はいなくなったのか?何故、被害者はそこまでした部屋の鍵を閉めようとしたのか?そして何より、何故、彼はあの部屋の近くにいたのか?全ての答えはあまりにも明瞭じゃないか」
コテコテの密室トリックではありますけど、割と気に入ってる一本ではあります。事件の登場人物を最低限の数にしようかとも思ったんですが、最終的に今の人数ということになりました。




