透明は実在に
解決編です。
「人の目に触れながら、決して意識されない。分からないな、そんなものが世の中に存在するのか?」
まさか、魔法を使ったなどとは言わないだろうな。ジャックは幾分か警戒しながら、カーサに続きを促した。
「では聞きますけど、刑事さんが今朝、一番最初に会ったのはどなたですか?」
「部下の巡査だ。朝の六時に家まで俺のことを呼びにきてな。むこうも夜勤明けだろうから強くは言えなかったが、あまり良い目覚めとは言えなかったよ」
「本当に?」
「嘘をつく理由がないだろう」
「ではお聞きしますけど、その巡査の方は刑事さんの枕元まで、わざわざ起こしに来られたんですか?」
「何を言ってる、そんなわ──俺が起きて最初に会ったのは”使用人”ということか」
心理的盲点か。目の前で行われている意味のない会話を聞き流しながら、エヴァは周りの人間が羨ましくなった。
彼女には物心ついてから何かを見落としたという経験がなかった。今、想念を走らせながらも、耳から入ってくる会話が文字情報として記憶野の中に納まっていくように、目から入ってくる情景もまた、その全てが適切に処理されて記憶の海に放り込まれていく。彼女の世界はいつだって完璧で、それゆえにいつも少しばかり刺激に欠けていた。
「制服というものは時に人間を透明にして、役割だけの存在に変えたりします。そして、刑事さんが、その罠にはまったように、例の酔っ払いの方も、見えていたものが見えなかったのではないでしょうか」
「だが、屋敷の中に使用人がいるのは普通だとしても、屋敷の外に出る場合、使用人のお仕着せというのは、そこまで印象が薄いものではないぞ」
「もちろん、そうでしょうとも。ですから、犯人が着ていたのは別の服です。早朝に屋敷から外に出てきても奇妙ではない衣装、それは一つしかありませんわ」
「もったいぶらないで、さっさと教えてくれ」
ジャックは見るからに焦れていた。その様子が愉快だったこともあって、エヴァは出さなくてもいいチョッカイを出した。
「刑事、本当に分からないのかい?」
「──今、わたくしが話しているところなんですけど」
お姉さまったら、わたくしが遊んでるのを邪魔されるのが一番嫌いだって知っていらっしゃるくせに。叱られた子犬のように所在なさげにしている姉の演技を見ながら、カーサは困ったものだなと思った。
他の人間ならその行為を死ぬまで後悔させてさし上げるのがカーサの常だったが、エヴァではそんな気も起きないのだ。それを承知しているから、たまにエヴァもわざわざ邪魔をするわけで、要するに一種のじゃれ合いだった。もちろん、屋敷の人間はこれを見ても勘違いなどしない。そう、屋敷の人間は。
エヴァンジェリン嬢にも意外な弱点があったものだな。何も知らないジャックは、この勘違いから、後に壮絶なミスを犯す羽目になる。しかし、もちろん、このときの彼はそれを知るよしもなかった。
「それで、そろそろ答えを教えてくれないか」
「新聞配達夫ですわ、刑事さま」
ジャックはまるで電撃に打たれたかのように身を震わせた。それは新聞社の御曹司として何故に気づかなかったのだろうという自責であり、警視庁の刑事として犯人を捕まえる目途が立ったという喜びでもあった。
「いますぐ、警視庁に連絡して、宅配を行っている新聞社に協力を依頼しよう。今勤めていないしても、犯人は一度、新聞配達の仕事をしている可能性が高いはずだ」
勢いよく立ち上がったジャックを、エヴァは手を上下に二度軽く動かすと再び席へと座らせた。
「刑事、一つ質問を。その新聞配達夫の格好をしたという犯人は、どういう姿で屋敷に侵入したとお思いで?」
「それは、もちろん、新聞配達夫の格好をして。いや、別に衣装さえ用意しておけば、黒づくめの格好でも問題はないな」
「なるほど、では、その犯人は何故に新聞配達夫の衣装を屋敷に持ち込んだんです?」
「何を言っているんだ、目撃者に目撃されないために決まってるだろ」
処置無しという風にエヴァが首を振ると、カーサが両手をパンと叩き合わせた。
「ほんとですわ、何故にそんな勘違いをしていたんでしょう。犯人は別に顔さえ見られなければ、それで問題無かったはずです。わざわざ、そんな手の込んだ手段で透明になる必要なんて、一つも無かったということですね?」
はしごを外された形になったジャックは、それでもなお粘った。粘る必要などなかったはずだが、こういうのは意地というものがあるのだ。
「本当に屋敷に新聞を配達していた人間が犯人なのかもしれない。新聞を配達する振りをして、屋敷の様子を下見するんだ。ありえない話じゃないだろ」
「わざわざ、これから強盗に入る屋敷に日参して、使用人たちに顔を晒す危険をおかすの?あまり賢明とは思えないけど」
「盗みに入るのは新聞配達夫の仲間で、何かあったときのために衣装を借りていたという可能性もあるだろう」
「仲間に新聞配達夫がいたら、それを連想するような衣装をわざわざ持っていくようなことはしないんじゃないかな。現職の人に言うこともでないけど、盗人っていうのは物から足がつくことに関しては、神経質なほどに神経質な人々だよ。そもそも、新聞配達夫の衣装がないと切り抜けられない場面って謎だし」
ジャックは励まされるようにサハルが注いでくれた紅茶を一口飲むと、両手で頭を締め付けるように掴んだ。
「だが、実際に、酔っ払いは誰も見ていないと証言しているんだぞ。それが間違いだと言うつもりなのか?」
「まっ、そういう可能性もあるよね」
その言葉にジャックの身体はまるで重力が急に彼の周りだけ三倍になったかのように椅子に沈み込んだ。
「だけど、別の可能性もある。酒に飲まれた男はそれでもなお正しく物事を観察し、犯人は透明にもならず、堂々と葉巻を吸いながら屋敷の中を闊歩したという可能性がね」
ジャックの周りの重力が元の値かあるいは三分の二くらいなった。身を乗り出しつつ、彼はエヴァが示唆した言葉を信じられないような気持ちで言い直した。
「トーマス・スタークスが犯人だと言いたいのか?」
「別に確信は無いんだ。何せ、当事者の証言ですらない情報を元にした推理だからね。ただ、新聞配達夫の格好をした男よりは、ありそうな話だとは思うよ」
「しかし、彼は撃たれているんだぞ。それに何より、スタークス卿が撃たれたとき、彼は書斎の外にいたんだ。君は現場を見ていないから分からないかもしれないが、アリス嬢が部屋から飛び出してくるまでの時間で、あの距離を移動するのはどう考えても無理だ」
「元学生チャンピオンの軽快なフットワークならあるいは、と思わなくもないけど。まっ、普通の常識があれば、たとえ世界一足が速かったとしても、そんな危ない橋は渡らないだろうね」
「なら、銃弾の弾が扉をすり抜けたとでも言うつもりか?言っておくが、銃弾の痕跡なんて扉には全くなかったぞ」
惜しいですね。サハルはジャックの皮肉にわずかばかりの評価をつけた。銃弾が魔法のように撃ち抜いたのは扉ではなく時間なのだ。彼女はこの頃、ジャック・アーチボルドには刑事の才があるのではないかと思い始めていた。
ジャックには少なくとも、事件の違和感を拾い上げられるだけの勘が存在している。後はそれを有意味な形に再構成する能力さえ身に付ければ、彼は刑事として大成するのではないかと彼女は考えていた。今日の醜態を眺めて、だいぶ遠い道のりになりそうだとも思ってはいたが。
「その前に一つ確認したいんだけど、トーマスは何で、その時間に起きていたアリスより早く部屋を出れたということになっていたんだい?」
「朝帰りというやつだよ。彼は友人たちと朝の3時までホテルの一室で酒を飲み交わし後、ヤボ用があると言って帰っていったらしい。屋敷まで歩いて50分くらいの距離だが、酔った人間の足だからな、誤差の範囲だろ。それとヤボ用っていうのは外科手術の隠語で、こういうことは別に珍しくもなかったようだ」
「ミーザルでは、手術を行う前8時間以内に飲酒していたことが発覚したら免許取り消しだからね」
「らしいな、今日始めて知ったよ。ちなみに、トーマスは撃たれていなければ11時から執刀の予定だった」
「素晴らしい遵法精神だと感動するべきところかい?すると銃声があったとき、わたし達の名医さまは寝巻きではなかったわけだね」
「まだ昼は暑いとはいえ、夜はそこそこ冷え込むからな。シャツとズボンの上に麻織の白いジャケットを羽織っているという格好だったらしい。上着の方は応急手当の際に、包帯代わりにされて見る影もなかったが」
案外と考えられた計画なんだなとエヴァは他人事のように感心した。彼女からすると、もう少し入り組んだものが好みではあったが、緻密な計画というのは容易に破綻するものでもある。行動力に自信があるなら、これぐらい荒いものの方が上手くいくものなのだろう。
いっそのこと見逃してやろうか。エヴァの脳裏にそんな考えが閃いたものの、姉として妹の前で恥をかくのは遠慮したいなという思いが勝った。
「おそらく、そのジャケットは破れやすいように前もって細工してたんだろうね。上着そのものをビリビリに破いてしまえば、仮にトーマスのポケットから変な布切れが出てきても、男所帯の警察じゃ、どっかの部品だろと思うのが関の山だろうし」
「その変な布切れとやらが、不可能を可能にする鍵なのか?」
「そうだとも言えるし、そうでもないとも言えるね。別に彼が寝巻き姿でも犯行は不可能ではないし、たとえ上着に細工が無くても本質的には問題ではないんだ。ただ、どうせなら、出来るだけ正確な方がいいだろ?」
「もう、いい。はぐらかすのはよしてくれ。どうやって、トーマスが扉を挟んではるか向こうにいるスタークス卿を撃ち殺したっていうんだ」
「簡単な話じゃないか。酔っ払いが逃げる犯人の姿を見なかったのは、犯人がそもそも外に逃げなかったからだ。なら、トーマスがスタークス卿を撃てなかったというのは、彼がそもそも撃たなかったということを示しているだけのことじゃないか」
その言葉を聞いてもまだ、ジャックはすぐに真相へ辿りつかなかった。何せ、銃声は三回聞こえ、部屋の中には三発の銃弾が残っているのである。撃たなかったと言われても、納得できるはずがなかった。
「じゃあ、こう言えばいいのかな。いいかい、トーマス・スタークスは都合5発撃ったんだよ」
これもまたジャックには理解できない言葉だった。なら、残った二発の銃弾は何処にいっ──
「銃弾と銃声が別ものなのか」
「彼が犯人であると仮定するなら、それが最もありそうな解だろうね。あの家の人間はあまり銃に親しみがないようだったし、客間の前あたりから二発発砲しただけでも、トーマスが書斎から銃声が聞こえてきたと主張すれば、アリスを誤魔化すのは難しいことではなかったはずだよ。彼はそのまま拳銃をジャケットの内側に作っておいた特製のポケットみたいなものに納めて、書斎へ向けて疾走したわけだ。そして、何らかの手段で意識を奪っておいた父親にむけて最後の一発を撃ったのさ。銃弾と違って、銃声は証拠が残らないからね。前もって書斎の適切な箇所に撃ち込んでおいた銃弾さえあれば、警察も誤魔化せるという算段だったんだろう」
「だが、トーマスにも確かに銃で撃たれた傷跡があるんだぞ。外に向けた二発と壁に撃ち込んだ二発で、残り一発しかない計算になるじゃないか」
まだエヴァの言葉を認めきれないジャックに、姉に代わってカーサがとどめを刺した。
「わたくし、先ほど言いましたよね。カーチストン社のペッパーボックスはよほど近づかないと、狙った場所に当たらないって。逆に言うなら、近くで狙えば当たるんです。スタークス卿は見事に心臓を撃ち抜かれ、犯人は腕に問題の無いレベルの傷を負った。それが答えなのではないでしょうか?」
つまり、トーマスは自分の腕を貫通させる形で己の父親の心臓を狙ったのだ。曲芸じみた行為にも聞こえるが、トーマスは高名な外科医である。人体の仕組みは詳しいだろうし、検査と称して父親の身体を調べることも不可能ではない。
十分に実行可能かもしれない。そこまで認めたところで、ジャックの中に一つの反論が浮かんだ。
「確かに音はその場で消え去ってしまうかもしれない。だが、臭いはどうなんだ。発砲すれば、独自の臭いが残る。警察の人間を誤魔化せるとは思えないぞ」
「直接的な対策としては、葉巻じゃないかな。大怪我を装った方が心証が有利に働く場面で、わざわざ葉巻をくわえて部屋に戻るなんて他に理由が思い浮かばないし」
「あと、発砲の際の臭いの原因のほとんど、周囲に飛び散る火薬ですから、知識さえあれば、ある程度まで抑えられますよ」
姉妹に息の合ったダメ押しをされて、ジャックはついに観念した。そもそも、敵対しているわけでもないのだから、彼は黙々と刑事として可能性を潰していけばいいだけの話なのだ。
「証拠は何かあるのか」
「確認してなかったんだけど、二階の廊下には窓がついてるんだよね?」
「ああ、かなり大きい開閉式のが左右に二つずつある」
「そっか、窓が無かったり、はめ殺しだったりしたら、天井のどこかに弾痕が二つあるとかガラスの不自然な欠けで解決したんだけどな。窓の外に向けて撃たれた銃弾を見つけても、試し打ちのときのものだと主張されると弱いしね。血縁の証言だから安定性に欠けるけど、アリスに書斎と廊下で発砲して聞き比べてもらうとか、かな」
それで犯人を捕まえられるだろうか。渋い顔をしたジャックに、救いの天使が舞い降りた。
「お姉さま、もっと完璧な証明法がありますわ。推理が正しいなら、壁にめり込んだ銃弾内の二つは誰の身体も貫通していません。もしかしたら、血ぐらいつけているかもしれませんけど、筋肉組織が銃弾に付着しているかどうか、弾を取り出して気をつけて調べれば分かるはずです。おそらくですけど、本当にしなくても、その事実を告げただけで自白するんじゃないでしょうか?」
この台詞の直後、ジャックは足早にグッドフェロー邸を去ったのだった。その後で最高裁判所所長殺人事件が急転直下の展開を見せたことは言うまでもない。
───
──
─
「ところでさ、本当に分からなかったわけないよね?」
目の前で一心不乱に動いていたカーサの手がゆっくり速度を落とし始めたのを目視すると、エヴァは妹の額に光る汗を手ぬぐいで取ってやった。
「お姉さま、普通の婦女子はああいうとき、殿方を立てるものですよ?」
先ほどまで芸術的な動きをしていたカーサの手が、エヴァの汗をそっとぬぐった。
二人が今しているのはエヴァがカーサのために用意したとっておきのプレゼントを使った
遊びだった。半分ずつに分けた領地から、パズルのようにどんどん部品を外していって、先に中央に辿りついた方が価値になる。かれこれ三時間以上、彼女たちはこの遊戯に熱中していたのだ。
「やっぱり、カーサには敵わないなぁ」
エヴァは喜んで愛しい妹に己の敗北を宣言した。
普通の婦女子ですか。蕩けるような笑みで、見事に切り出してみせた死者の心臓を姉にみせつけている少女を眺めながら、サハルは隣で無言を通している兄共々、言葉というものの自由さに思いをはせるのだった。
ジャックさん、日付指定でパシらされるの巻でした。
四篇目は導入部に、二篇目で入れ替えになったエピソードから始まるのと、トリックそのものは三篇目よりも先に決まっていたものなので、五月中に更新が開始されると思います。




