鼎談は不穏に
ジャック・アーチボルト刑事は困惑していた。ほど良く鍛えられた180センチ強の身体は、今はどこか窮屈にしているし、その青い瞳も大きく動かないように意識はしているものの、どこか不安げに揺れていた。
その理由は色々存在する。
エヴァンジェリン家の屋敷をとある用事で来訪すること数度、今回初めて屋敷の内部に案内されたこともそうだし、通された部屋がジャックの常識からすると、格が高過ぎたというのもあった。
ジャックとて国内最大規模の新聞社の跡取り息子として、最高級のものに親しんで生活してきてはいる。今着ている彼の茶色ががった赤毛とよく合う臙脂色のスーツ一つとっても、予約が三年先まで埋まっていると言われる職人の仕事で、王族が着ているものと比べても劣ることはないレベルのものだ。
しかし、同時にアーチボルド家はただの平民の家系であって、貴族制をしくミザール王国における社会的な地位はそれほど高いとはいえなかった。あえて貴族の位に合わせるなら彼の家の地位はせいぜいが男爵である。
にも関わらず、彼が通されたのは仮に公爵を待たせても失礼にはあたらないレベルの部屋だったのだ。
部屋に貼られている見事な金細工が施された一連の壁紙やこれまた見事な宗教画やを眺めながら、ジャックは真剣に自分がからかわれている可能性を検討していた。彼の見立てが正しければ、この部屋の内装だけで普通の四人家族が一生暮らせるだけの価値がある。
流石はグッドフェロー家という見事な部屋であったが、この扱いが当然だと思えるほど、ジャックは自意識過剰ではなかった。
タネを明かしてしまえば、少なくなった使用人の手間を減らすため、エヴァが屋敷のほとんどの部屋を閉じさせてしまったので、屋敷に存在する幾つかの応接間のうち、普段使えるのがこの部屋しかないというだけの話なのだが、そんなことはジャックに分かるはずもなかった。
「アーチボルド様、紅茶をお変えしましょうか?」
ジャックは目の前のテーブルの上に置かれた白磁の茶器に目を落とすと、何も言わずに首だけを左右に振った。いつもの彼なら、こういったとき使用人に気さくに話しかけたりするものなのだが、今回ばかりは事情が違った。
何せ、自分の脇に控える二人の褐色の肌をした使用人こそ、彼の困惑の一番の理由だったのである。
少しばかり悪いことをしてしまいましたね。サハルは何かもの言いたげな顔をしながら、たまに目線だけで彼女たち二人の様子をうかがいっているジャックを見て、同情に似た気持ちを覚えた。
今回のことは完全にサハル側のミスだった。久しぶりの兄との再会に気が抜けていたのか、サハルとラシードは一対で行動するという世間一般では通用するはずもないグッドフェロー家の常識を、来客者に押し付けてしまったのだ。
サハルは自分たちのような褐色の肌をした人間を見下すミザールの人間が好きではなかったし、そういった人間に不意打ちをかけて泡を食わせたりするのが好きなタイプでもあった。しかし、今までの経緯で、ジャックが思うところは皆無ではないにしても、それを抑制しようと努力できる人間であることは承知していた。
そういった人間をからかう楽しさというのもあるわけだが、それは周到に準備してやるから楽しいのであって、意図せず給仕する対象を不快にさせるなど、使用人の名折れでしかない。
ラシード。
どうにか現状を打開できないものかと、先ほどから口の動きだけで何度か兄へとコンタクトを試みていたサハルだったが、その何を考えているのかよく分からない無表情の前に、全て無駄に終わっていた。
しばらくして、ジャックの口から細い息がもれた。
「サハル、彼のことなんだが──」
「はい、この」
応接間の扉が音もなく開いた。
「お待たせして申し訳ないね。少しばかり服を着るのに時間がかかってしまったものだから」
「申し訳ありません。実家とはいえ、しばらくぶりだったもので、思ったより時間がかかってしまいました」
形式上そう謝りながら、二人の令嬢は深い青色に染め上げられた真絹に銀糸でふんだんに刺繍を施したドレスで、部屋の中へと入ってきた。姉のものには今にも咲かんばかりの沢山の蕾をたたえた木々たちが、妹のものにはその美しい鳴き声で冬の終わりを告げるといわれる愛らしい小鳥が匠の技で縫い取られている。
意匠だけ見れば、冬から春にかけて着るドレスであり、9月に着るには早過ぎる感もあったが、これは悪しき魔女によって樹に変えられた夫のもとに妻が鳥になって会いにくるという王国に伝わる昔話がモチーフになっているのだ。そこに込められた意味は明白だった。
「お気になさらないでください。むしろ、死ぬまで目にすることがないだろうと思っていた天上の美をこの目に出来たのですから、むしろ短すぎるというものです。それにしても、姉妹の再会を祝するドレスですか。男の目から見ても、見事な一品ですね。きっと真似をする人間が続出しますよ」
すこし寓意が重過ぎるのではないかとジャックは内心思わないでもなかったが、口から出たのは歯が浮くようなお世辞だった。
そんなもの聞きなれているのか、二人はジャックに会釈だけすると、さっさとそれぞれの使用人に椅子を引かせて着席してしまった。
「それはどうでしょうか。正直、姉妹で公式の場にこの服で現れる方々とはお友達になりたくありませんけど」
「同感だね。まっ、どうせわたしは表舞台に出れない身だから問題ないけど」
「もう、他人事だと思って。”貴方を羽を休める木になりたい”とか言われる身にもなって下さい。相手をいちいちお姉さまと比べるんですよ。考えただけでも、笑いをこらえるのが大変そうで」
「おや、着てくれないのかい?アーチボルド刑事の話じゃないが、流行らせてくれると思って、青く染めた最高級の絹を既に買い占めてしまったんだけど」
形のいい眉をひそめて困惑の意を表したエヴァに、カーサは天使の笑みで対抗した。
「わたくしが、お姉さまからの贈り物を無碍にするはずがないでしょう?」
「──っと、この感じだと、俺はこっちでも構わないってことかな?」
二人の惚気を遮るように、ジャックは言葉を発した。彼の知るかぎり、エヴァは客人の前でわざわざ意味の無いお喋りをするような人間ではない。つまり、今日の屋敷であった事柄は、全てが彼を試すためのものだという刑事としての彼の結論だった。
「もちろんです。カサンドラ・ピルグリムと申します。ご高名なジャック・アーチボルド刑事にお会いできて、これほど嬉しいことはありません」
そのご高名な刑事を先ほどまで試していたなど微塵も感じさせない笑みで、カーサは座ったまま挨拶をした。対して平民であるジャックは立ち上がって挨拶をしなければいけない立場なのだが、エヴァはその動きを手だけで押し留めた。
「堅苦しいのは無しにしよう。わたしの客人だ、別にかまわないだろう?」
「もちろんです。出来ることなら今日働いた非礼をこれで帳消しにしていただけたら嬉しいのですが」
女というのは何とも怖い生き物だな。それともグッドフェロー家が特別なのだろうか。カーサのいかにも頼りなさげで可憐な態度を見ながら、ジャックはしみじみとそんなことを思った。
「俺が侯爵夫人を許せるような立場にあるとも思いませんがね。出来れば、そちらの彼も紹介してくれないか?居心地が悪いのは、もう懲り懲りなんだ」
「そうか、そうだね。これは悪いことをしたな。急に二人に増えていたら、そう思うのも道理だ。こっちのは、ラシードといってね。カーサにつけているわたしの使用人だよ。見れば分かる通り、サハルの双子の兄でもある」
エヴァの紹介を受けて、ラシードは深々と頭を下げた。
「ラシードは無口な男でね。わたしも喋っているところは数えるほどしか見ていないんだ。ところで話は変わるけど、それは刑事の口には合わなかったかい?これなら男の方でも食べられるんじゃないかと思ったんだけどね」
エヴァは三人が囲んでいるテーブルの上の皿に置かれた”それ”を指で掴んだ。それは小指ほどの大きさの白い立方体で、よく見ると中にオレンジ色の線のようなものが見える。
それは名前はまだ決まっていないが、それはエヴァが抱えた菓子職人が作った新作の菓子だった。舌の肥えた男性の味見役というのは、屋敷に基本閉じこもっているエヴァのツテでは叔父のヘンリーが精々と言ったところだったので、彼女としてはジャックの意見が気になったのだ。
「いや、悪くなかったと思うんだが、何というか気分じゃなくてな」
部屋の格やら、ラシードやらで、菓子を味わえる状態ではなかったというだけの話だったのだが、ジャックはそしらぬ顔で、その白い物体を改めて口の中に入れた。舌の中に落ちると、それはまるで泡のように溶け、彼の口の中には甘酸っぱい爽やかな後味だけが残った。
「──これは、ちょっと凄いな」
何ともお粗末な台詞だとジャックは自分でも思ったが、エヴァの方はいかにも機嫌が良さそうだった。
「その反応なら、いけそうだね。少し販路を広げてみるかな。とはいえ一日置くと、固くなって味がかなり落ちるのが難点なんだ。うちの料理人は天才だけど、どうにも商売に向かなくて困るよ」
「一つ疑問なんだが、商売に手を染める必要なんてあるのか?今日、屋敷を見せてもらった限り、そこまで困窮しているようにはとても思えないんだが」
「それを言うなら、アーチボルド家のご嫡男がわざわざ警視庁にお勤めになる必要もないのではありませんか?」
黙っているの退屈した、わけではないか。突然、会話に入ってきたカーサの振舞いの意味を検討して、ジャックはすぐに最初に浮かんだ考えを却下した。ピルグリム侯爵夫人が見た目によらず許容量の大きい腹の持ち主だという話は聞いていたし、自分が今日見たものだけで判断しても、一筋縄でいくような人物には思えない。
ジャックの中で可能性は、他愛のないものから最悪のものまで幾つか浮かんだ。皿の上の菓子をつまんで時間を稼ぎながら、どう答えれば上手く探れるか彼が考えていると、ふとカーサの後ろに控えているラシードの顔が目に入った。彼はこちらの視線に気づくと、急に口を輪のように開けて、そして閉じた。
わ。な。
それが意味するのはあまりにも明瞭だった。
「俺は好きでやってるんだがね。考えてみれば、こっちが口を挟む事柄でもなかったな」
エヴァンジェリン・グッドフェローには不可解なところがある。そんなことは王国の人間なら誰だって知っていることだ。だから、そこに何かありそうだという態度そのものがブラフなのだ。あるいは、ブラフに見せかけた本命なのかもしれないが、そんな複雑な読み合いはジャックの得意とするところではなかった。
「見事なお答えですね、アートボルド刑事。感服いたしました。まるで脳みそが二つおありになられるようです」
その声は鈴のようで、浮かんでいる笑顔は至極愛らしい、にも関わらず、ジャックは悪寒のようなものを感じずにはいられなかった。
「──カーサ、これ以上は意味がないから、付き合わないよ」
その一言で、部屋の中にあった不快な圧のようなものが嘘のように霧散した。
「それは残念です。色々と勘違いして、お気を抜かれているようだったので、本性をのぞけるかと思いましたのに」
「悪かったね、刑事。妹はまだまだ子供というか、人間の面の皮を剥げば、本物があるなんて夢物語を信じているんだよ」
エヴァの物言いに、ジャックは思わず笑ってしまった。
「俺にもあったけどな。会う人間、会う人間、親の金目当てだって思えてならなかったときが」
「もう、二人して酷いですわ。わたくしだってお姉さまのことを思って、色々と頑張ったつもりですのに」
口を尖らせて文句を言う妹と、それを笑ってなだめる姉。先ほどまでが嘘のようだ。
ジャックの口元に自嘲が刻まれた。
嘘のようなのではない。彼が嘘だと思いたいだけなのだ。カサンドラ・ピルグリムは自分の手に負えるような代物ではなかった。では、そんな彼女を言葉だけで見事に御してみせたエヴァンジェリン・グッドフェローはどうか。答えは考えるまでもなかった。
だが、尻尾をまいて逃げ出すにはジャック・アーチボルドはプライドも野望もあり過ぎたのだった。
「お詫びが欲しいってわけじゃないが、一つ聞いて欲しい事件があるんだ。構わないか?」
このとき彼は最後の一線を越えたのだ。その道の先が何処に続いているかも知らずに。
一線を越えたというのは、直接的には、自分の口で事件の情報を伝えるという行為そのものを指します。今までは「たまたま」通信菅ごしに取調べの様子が聞こえてしまったという言い訳も出来なくはなかったので。
まあ、誰が見ても無理目な言い訳なので、精神的なものだと考えて下さい。
次は事件編ということになります。




