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探偵令嬢は殺人事件の夢を見るか  作者: 十二箇月遊
「新月の儀」の謎
1/24

始まりは優雅に

あらすじには国家を揺るがす陰謀とか書きましたが、おそらく原稿用紙50枚くらいでとりあえず一区切りつきます。

「──結婚ですか?」


初夏のうららかな日差しの中、ひたいから垂れる汗を手ぬぐいでふき取りながら、エヴァンジェリン・グッドフェローは怪訝な顔で突飛な提案してきた叔父の方に視線をやった。

日よけ用のつばの広い白い帽子の中に豪奢な金髪をしまい込み、藍色に染めた木綿のシャツとズボンというラフな格好の彼女とは対照的に、叔父の方は黒のタキシードにシルクハット、手には巨大な猫目石の指輪という文句のない正装だったが、二人を比べるとみすぼらしく見えるのは後者の方なのだから不思議なものである。


「そんな顔をするものではないよ、エヴァ。お前だって年頃の娘だ。縁談の一つや二つ舞い込んできたところで、なんの不思議もないだろう?」

「年頃、というにはわたしは少しばかり歳をくい過ぎだと思いませんか?ヘンリー叔父さん」


エヴァのからかうような青い瞳に見つめられ、ヘンリーは絹のシャツに包まれた太鼓腹の奥がキュッと苦しくなった。エヴァの両親が死んでもう6年になる。当初こそ後見人の地位を利用して、侯爵家の財産を思うままにしようとした彼だったが、1年もしない間にその考えを改めざるえなかった。

若干12歳だった目の前の姪に、ある日夕食の席に招待されたかと思うと、前菜からデザートまで全12品からなるフルコースの全時間を使って、彼がまだ実行にすら移していない計画の問題点をネチネチと指摘され続けたのだから無理もない話である。今でも月に2回は、あのときの獲物を見つけた猫のようなエヴァの顔を彼は悪夢の中で見るのだ。


「そんなことはない。お前は今だって十分に美しいじゃないか」

「やめてください、反吐が出ます。ですが、こんな碌な財産も無いいきおくれを貰ってくれる奇特な方がいるとは、さすがは前途洋々たる我らが王国と言ったところでしょうか」


ヘンリーの言葉通り、エヴァはかつて王国一の詩人にその美を讃える詩を捧げられるほど際立った美貌の持ち主であった。だが、彼女は来月で19になる。このミザール王国での貴族の平均的な結婚時期が15歳であることを考えれば、彼女は十分な「いきおくれ」だと言えた。


「それは、お前が、妹が嫁に行くときに侯爵家の財産をほとんど分け与えてしまったからだろうが。あれさえなければ、いくらお前だってここまで話が来ないってこともなかったんだぞ」

「妹にはわたしのせいで苦労をかけましたからね。せめて、あれぐらいはしてあげないとわたしの気がすみません」

「だからって、侯爵家の優良資産の九割だぞ、少しは後先考えなかったのか」

「考えましたよ。残りの一割は本家の屋敷を維持できる分だけ残して、余りはヘンリー叔父さんにあげたでしょう?」

「わしが偉そうなことを言える立場でないことは百も承知だがな。お前自身のことを考えなかったのかと言っているんだよ」

「生きていく分には特に困っていませんけど?」


よりかかっていた鍬を持ち上げると、エヴァは手馴れた様子で土を耕してみせた。そもそも、実家の裏庭で畑の新規開拓に勤しんでいた彼女の元に、ヘンリーがやってきたのが今回の話の始まりなのだ。


「どこの世界に裏庭の薔薇園を潰して、耕作に勤しむ侯爵家の娘がおるのだ」

「叔父さん、毎回言ってますが、これは耕作ではなく探求です。何故、天上では誰もが争うことなく、平和に暮らしていけるのか。それはそこに生えている植物がこの地上より優れているからです。人と同じく、この地上では植物もまた堕落しているのですよ。なら、人が正しい行いによって堕落から逃れられるように、植物もまた適切な処置を行えば、天上のそれに近づくに違いない。いわば、これもまた神へと至る道ですよ」

「まったく、巷では、やれ進化論だと騒いでおるというのに。こんなところで土ばかりいじっておるから、世間の流れに取り残されるのだぞ」

「進化論ですか。わたしとしては、あれは判断を保留したいところですね」

「はっ、その歳でもう柔軟性が欠如しておる。わしの若い頃は、新説とあらば何が何でも賛成派に回ったものだがな」

「それは叔父さんが、血気盛んな馬鹿だっただけの話でしょう」

そう言いながらエヴァは畑にしゃがみ込むと、そこにいたミミズを躊躇いもなく素手で掴んだ。

「ほら、叔父さん、これが人間のご先祖様ですよ」


ヘンリーは顔をかばうように右手を上げた。この男、虫どころか生物の類が基本的に苦手なタイプなのである。それがエヴァたち姉妹にばれてからの恐怖の日々を思い出して、彼は全身に鳥肌を立てた。


「やめなさい。第一、進化論で人と猿の話は出ても、人とミミズの話なぞ出たためしがないぞ」

「それは進化論の提唱者たちが叔父さんと違って賢明だからですよ。猿が人に進化したとしましょう。では猿は何から進化するのですか。そして、その猿の進化の元になった生物は何から?進化の過程を無限に遡っていけば、最後にはミミズやハエ、あるいはもっと程度の低い生物に行き当たるのは物の道理です」

「しかし、人とミミズではあまりに違い過ぎるぞ」

「そう、そこですよ。もし、進化というものを前提にするのであれば、人とミミズを共約できるような何らかの因子がなければならない。ですが、彼らはそれを示せていません。それが示せない間は、わたしの中では面白い仮説の一つと言ったところですね」


あるいは示されない方が良いのかもしれない。もしも、そんな因子が存在するとすれば、人間の意志というものはあまりに儚いということになってしまうから。エヴァがそう口に出そうとした瞬間、鐘の音が荘厳に鳴り響いた。首都の東西に一つずつある時計台が正午を知らせる音だ。


「もう、こんな時間ですか。叔父さん、どうです、お昼代わりにわたしの探求の成果を食してみませんか?」

「そもそも、まだ話が終わっておらん」

「そうでしたね、あいにく屋敷の食堂は閉じているんですが──」

「あの広い屋敷をほとんど閉鎖して、わざわざあんな場所に住む物好きもお前くらいなものだろうよ」


そう言いながら、ヘンリーは率先して「あんな場所」の方へと歩き出した。口とは裏腹にその軽快な足取りが、社交界で密かに話題になっているエヴァの探求の成果を味わってみたいと想っていることを雄弁に語っていた。


「何度見ても、混沌としてるようにしか見えんな」


目的地へとつながる扉をくぐったところで、ヘンリーは感嘆とも呆れとも取れる感想を述べた。

かつての厩を改築したエヴァの住居には、東西の雑多なものが満ち溢れていた。

昼でも薄暗い部屋全体には大陸を横断して東からやってきた香が焚き染められ、壁のほとんどは様々な言語で書かれた書物を収める埋め込み式本棚になっており、中に三本立った柱の部分には様々な縮尺の地図や人体図、黒板などが打ちつけられている。インテリアには極彩色の織物や黄金の像、不気味な仮面の群れに、何に使うか分からない怪しげな機械装置が、入り乱れるように置かれており、その合間に生活をするための家具が配置されているという按配だった。


「ここは人を招待する部屋ではありませんから。どうぞ、ヘンリー叔父さん、こちらです。この前に来られたときは、こちらは改築中でしたもんね」


そう言って、エヴァは部屋の奥にある鉄の扉へと進んでいった。彼女がその扉のノッカーを一度叩き、しばらく待ってから急いで三回叩くと、扉は内側から開いた。


「暗号か?」

「まあ、サハルとのちょっとした遊びみたいなものですよ」


エヴァの通った道筋はヘンリーの体型からすると少し厳しいものではあったが、彼はそれに対しては何も言わなかった。彼がこの6年間で学んだことの一つに、エヴァンジェリン・グッドフェローは基本として受動的な人間であるというのがある。要は他の人間への興味が薄いということなのだが、こちらからキッカケさえ与えなければ、彼女はその深遠たる内面にこもっていてくれのである。


「ヘンリー様、ようこそいらっしゃいました」

「うむ、サハルも息災そうで安心したよ。わたしの姪が色々と迷惑をかけているだろう?」


ヘンリーは深々とお辞儀をする褐色の肌のメイド服の女に鷹揚に言葉をかけた。


「そりゃ、かけてますよ。サハルがいなけりゃ、ここの管理もままなりませんからね」


そう言って、エヴァが両手で指し示した部屋は、隣の部屋とは正反対だと言っても良かった。

本の管理のため窓すら存在しなかった隣室とは異なり、こちらの部屋は側面どころか天上の一部にまで光を取るための仕掛けが存在していた。石畳の床を横断するように設けられた50センチほどの溝には近くの小川から水が引かれ、壁の近くはもちろんこと、光がよく入る天井の近くにも様々な植物が鉢で吊り下げられいる。春に咲く花々のかすかな甘い香りがヘンリーの鼻まで匂ってきていた。

部屋にはその他の家具はほとんど無く、部屋の端の台にまとめられたじゅうろなどの園芸のようの道具類をのぞけば、特例的に置かれたと思しき白いテーブルクロスが引かれた円卓と二脚の腰掛椅子があるだけだった。


「ここで座って待っていて下さいますか、着替えがてら水浴びをしてきます」

「わしにも午後から予定があるんだがね」

「ただ水を被って服を着るだけです。五分とかかりませんよ。そうそう、サハルの入れるお茶は絶品ですから、是非、御賞味あれ」


それだけ言うと、エヴァは入ってきたのは別の扉から出ていってしまった。その様子を見ながら、ヘンリーは呆れたようにサハルに言葉を投げかけた。


「わしの妻は、ちょっと近くに出かけるというだけで優に一時間は使うんだがな」

「エヴァンジェリン様は、女性としては少しばかり風変わりであらせられますから」

「少しばかりね。ふむ、お茶を入れてくれるかね?」

「よろしいのですか?近くに他の使用人も控えておりますが」

「構わんよ。お前の肌の色より、わしにはエヴァに感想を聞かれて、しどろもどろになる方が怖いものでね」

「かしこまりました」


深く一礼するとサハルは何も無い壁の方に迷うことなく歩を進めた。彼女は壁の前で立ち止まると、その壁を先ほどエヴァがしたように先に一回後に三回叩いてみせた。

サハルが一歩後退すると、石造りのはずの壁はぐるりと回転し、何も無かった空間には白い布がかけられた物体が出現していた。彼女が白い布を剥ぐと、そこにあったのは見事な細工が施された銀の配膳台だった。


「そんな改造までしたのか。エヴァの酔狂には頭が下がるよ」

「いえ、これは元々屋敷に備わっていた非常用の抜け道を流用したものだと聞いております。隠し扉の近くを増築して、収納用の物置にしたのだとか」

「──その抜け道は侯爵家の嫡子だけが知る秘伝のはずなんだがな」


琥珀色の液体が配膳台の中から出てきた陶磁器のカップに注がれていくのを見ながら、ヘンリーは疲れたように言った。彼はカップが満ちるやいなや、ぐいっとそれを飲み干した。


「なるほど、言うだけのことはある。もう一杯もらおうか」

「恐れ入ります。レモンはいかがしましょうか?」

「レモン?牛乳ではなくてかね?」

「はい、近頃のエヴァンジェリン様のお気に入りでございまして」

「なるほど、では一つ試してみよう」


配膳台の中からレモンが取り出されると、それはサハルの手に握られたナイフによってまたたく間にスライスされた。ヘンリーは一瞬だけ、彼女は一体何処からナイフを取り出したのだろうかと思ったが、切られてたてのレモンの清々しい匂いに、すぐに興味は紅茶の方へと移ってしまうのだった。


「ほう、これはなかなか」

「おや、レモン付きですか?それなかなかいいでしょう。紅茶のエグみがレモンの酸っぱさで気にならなくなるんですよ。昔から、酸っぱさには疲れを取る力があるといいますし、一石二鳥というやつですね」

「疲れを取るか。それは知らなかったよ」


ヘンリーはチラりとサハルの方に視線をやった。それに気づくと、彼女はほんの少しだけ頭を下げた。

姪は良い使用人をもったものだ。そう屈託なく思える善良さが、彼の自己定義である老練たる権謀家から最も離れたヘンリー・グッドフェローの最大の長所だった。この長所が彼の知らぬところで、その寿命を永らえさせているのだが、それはエヴァを含めた一握りの人間しか知らぬことであった。


「それで何だ、その格好は。いい歳をした婦女子がはしたない」

「これですか、名前はまだ決めていないんですが、医者の知人が病人の服のことでボヤいていたので、一つ力になれないかと思って作ってみたんですよ。要は一枚布で身体を包み込んで、側部の紐で止めるわけです。東の方の衣服と同じ原理ですね。これならいざというときに脱がしやすいし、病人の身体の大きさにある程度まで幅をもって対応できますからね。なにぶん、麻なので肌着の類は手放せないかもしれませんが」


裾の部分を少しばかり持ち上げながら、エヴァは事なげもなくそう言った。世間の常識からすれば寝所でしか許されないレベルの軽装だが、彼女からすればこの気持ちのよい日差しのなか、何重にもなる嵩張ったドレスを着る方が馬鹿げて映るのである。


「すまないが、エミリー。もう一杯レモン付きの紅茶をもらえるかな」

「この頃の叔父さんは、すぐに折れてしまって面白みが足りませんね。昔なら、ここで怒鳴り声が炸裂していたところなのに」

「人は学ぶもだよ、エヴァ」

「そうですか、ではご褒美をあげなくてはいけませんね」


たっぷりと嫌味をこめたヘンリーの言葉を軽く流すと、エヴァはエミリーに目配せをやった。メイドは優雅に一礼すると、回転扉を通って姿を消した。


「それで、何を食べさせてくれるのかな?」

「小川で冷やしておいた葡萄ですよ」

「葡萄の季節には少しばかり早過ぎると思うんだが」

「だから、探求の成果といったでしょう。正直、種まきの時期をずらしてもあまり芳しい効果は無かったんですがね。それでも、十分に叔父さんを驚かせることは出来ると思いますよ」

「しかし、葡萄か。わしも嫌いではないが、どうせなら葡萄は酒で楽しみたいところではあるな」

「ワイン用の葡萄にも色々と手をつけてはいるんですが、葡萄の味が変われば、当然にかける手間も変わります。ワイン職人との兼ね合いもありますし、こちらは長期戦ですかね」

「お前でも、上手くいかないことがあるわけだ」

「そりゃそうですよ。全部上手くいっていたら、今頃、わたしの頭には王冠が載っています」

「──滅多なことを言うもんじゃない」

「”悪魔の花嫁”とまで戯れ歌で言われておいて、今更、滅多なことも何もあったもんじゃないと思いますけど」


ヘンリーは愉快そうな笑みを浮かべているエヴァの内心を推し量ろうとその瞳をじっと見つめてみたが、得られたのはむしろの自分の心が覗き込まれているという印象だけだった。

その息苦しさに耐えかね、ヘンリーは咄嗟に思いついた話題をあえぐように口に出した。


「しかし、誰か来る予定だったのか?お前が、いつもこれほどのもてなしの準備をしているとはとても思えんが」

「何を言ってるんです。ヘンリー叔父さんのために数日前から準備を整えていたんですよ」

「変なことを言うもんじゃない。ここを訪ねることは、今日の朝決めたことなんだぞ」

「ええ、別にわたしも今日だとまでは知りませんでしたが、叔父さんが近日中にわたしを訪ねてくることは分かりきっていましたので」


さも当然のことのようにそう言われて、ヘンリーは表情を強張らせた。かつて、エヴァと彼が冷戦状態にあったとき、彼女が彼に24時間の監視をつけていたことを後日告げられたことを思い出したのだ。


「ああ、叔父さんが思っているようなことはしていませんから安心してください。中年紳士の日常なんて報告を受けて面白いものでもありませんしね。ただ、噂好きの友人が先日、著名な弁護士が魔除けの猫目石だと騙されて、ただの色つきのガラス玉を高額で購入したという笑い話をしてくれまして。そのとき何故か、叔父さんの顔が脳裏をよぎったんですよ」

「これは、贋物なのか?」

「いえ、本物ですよ」


話の流れについていけずポカンとしているヘンリーの手から指輪をはずすと、エヴァは服のポケットから取り出した別の指輪を彼の指にはめ直した。その指輪には言うまでもなく、巨大な猫目石がはめられていた。


「ね?本物でしょ」

「いや、しかし、わしは騙されたんだぞ」

「安心して下さい。件の宝石商とはこちらできっちりと話をつけて、その指輪の代金を支払わせておきました。とはいえ噂が広がるのは防げませんからね。叔父さんはその指輪をはめて、”彼はこれをガラス玉だと思っていたようだがね。見たまえこれが贋物に見えるかい?”とか何とか言っておけば、ヘンリー卿の武勇伝にまた新たな1ページが加わるという寸法ですよ」


彼は口の中で何かをもごもごと呟いた後、最終的に押し黙った。

いつもそうなのだ。六年前、ヘンリーは侯爵家の名前で何とか食いつないでいる三流の弁護士に過ぎなかった。だが今の彼は、知恵と勇気に富んだミザールの社交界に知らぬものはいない名士である。その彼の華々しい武勇伝を影で全て作り上げたのが、目の前にいる姪なのだった。

ヘンリーは彼女に感謝していないわけではなかった。だが、それ以上に不気味であった。何故そこまでしてくれるのか、彼には全く見当がつかなかったからだ。自分はエヴァに決して返せないほどの債務を負っている。その脅迫観念は、いつも彼を捉えてやまなかった。


「ほら、叔父さん、葡萄がきましたよ」

「ああ、これは大きいな」


エヴァは自主的に愉しい叔父さんの時間を打ち切りにした。ヘンリーは理解していないが、彼女はただ単に自分の叔父を愛しているというだけの話なのだ。ただその愛し方は、真綿で首を絞めて徐々に青くなっていく顔を近くで観察したいという類の変質的なものではあったが。


「二種のぶどうを交配した結果なんです。味も悪くないでしょう?」

「確かに、かなり甘みが強いな。これは評判になるのも頷ける」

「これからの収穫期を前にして、かなり良い評価は頂いていますが、まだ絶対数が少ないですからね。今期は先行投資と割切りますよ」

「貴婦人方の間では、近頃、お前の名前を冠した菓子の話が出ない日はないがな。他に何が必要なんだ?」

「うちの菓子はどうしても手間がかかりますから、サロンの類に供するのが限界ですけど、この葡萄ならもう少し広い範囲で商いが出来ると思うんです。そのためにも、坊さん連中に根回しをしないといけません」

「坊さん?」

「この葡萄を集会かなんかで坊さんに宣伝させて、熱心な信者に買わせようと思ってるんです。葡萄には沢山の実がありますから、金の無い人たちでも、集まって一房買ったりするかもしれないでしょう」

「さっき、堕落だの何だのクドクドと言っていたのは、そういうことか」

「こういうとき侯爵家の名前は便利ですね、いきなり上の方と話が出来ますから。後は頭の固いのを一人退ければ、つつがなく話がまとまるんですが、これがいわゆる聖人の類でして下の人気もあるので、無理をするより任期が終わる来年を待とうという話なんです」

「その間、上手い汁だけ吸われるわけだな。気をつけろよ、あいつらは聖職者の皮を被った亡者どもだぞ」

「ええ、すっかり身に染みました。あのなまぐさどもはこっちの葡萄の苗を手に入れて自分のところで育てようと企てているみたいですが、逆に上手くつけこんでやろうとは思ってますよ」


エヴァはヘンリーの前に置かれた葡萄に手を伸ばすとそれを皮ごと口の中に入れた。彼女は葡萄の皮を舌で器用に剥ぐと、種と合わせて床を流れる水路へと勢いよくはき捨てた。


「エヴァ、頼むから相手の前で、そんなことはしてくれるなよ。破談どころか、侯爵家の名が地に落ちるぞ」

「そういえば、結婚がどうとか、というお話でしたね。わたしも叔父さんのことは信頼していますから、相手はアレですね、ずばり、並外れた色情狂とみました」


叔父の方を人差し指で差し自信満々に言い放ったエヴァに、ヘンリーは二度首を横に振ることで答えを返した。


「そうすると、並外れた色情狂にして殺人歴有りですか。まさか、そこまで叔父さんに嫌われていたとは」

「──ジャック・アーチボルドを知っているか?」

「大学教授の?」

「違う」

「ガッダス州の州議のですか?」

「違う」

「では、農水省の官僚の?」

「違う」

「しかし、叔父さん。去年出た紳士録のジャック・アーチボルドの項に記されているのはあと、国内最大の新聞社の御曹司にして、警視庁最年少の刑事である、あのジャック・アーチボルドしかいないと記憶しているんですが」

「彼だよ」

「嘘でしょ、信じられない」


ヘンリーにはエヴァがあの1000ページを優に超える紳士録を全部暗記しているらしいことの方が信じられなかったが、彼も慣れたもので、そんなことでは話を脱線させたりはしなかった。


「そう思うなら、一度彼に会ってみるといい。ジャックの方も、強くそう希望していた」

「分かりました。では今から行くことにします」

「い、今からか」

「ええ、この時間なら、警視庁に出向けばほぼ間違いなく出会えるでしょうから。しかし、困りましたね。夜会用のドレスなら一、二着はあるんですが、昼の訪問着となると。やっぱり、シャツにズボンじゃまずいですよね?」

「頼むから、それだけは止めてくれ」


考え込んでいるエヴァを見かねたのか、今まで影のようにそっと傍にひかえていたサハルが口を開いた。


「カサンドラお嬢様の誕生日のためにお作りになられていたドレスをお召しになられてはいかがでしょうか。あれなら、昼に着ても違和感が無いと思いますが」

「確かに、あれは後は襟の刺繍だけだから、着ても問題ないか」

「ええ、丈は問題ありませんし、胸周りは詰め物をすればよいかと」


サハルの冷静の指摘が、ヘンリーを噴出させた。


「なんですか、ヘンリー叔父さん。何か言いたいことでも?」

「いや、何でもないよ」

「そうですか。この理不尽な憤りは、アーチボルド卿にぶつかってしまうかもしれませんが、そのときは叔父さんがフォローしてくださいね」


にこやかにそれだけ告げると、後ろで何かを喚いている叔父を無視してエヴァは回転扉を通って、本屋敷へと向かうのだった。





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