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ハイボールは、二杯まで

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/09/03

「ハイボール、もう一杯作る?」

「いや、さすがに飲みすぎだろ」


ベッドの中から訊く美咲に、俺は床へ落ちていたシャツを拾いながら答えた。


時計は午前一時十二分。テーブルの上には空になりかけたウイスキーの瓶と炭酸水、それから氷の溶けたグラスが二つ並んでいる。


飲み始めたのは九時頃だった。


一杯目で仕事の愚痴を言い合い、二杯目を作った頃には美咲が俺の隣へ移っていた。そこからキスをするまでに、それほど時間はかからなかった。


三杯目を飲み切る頃には服も床へ落ちて、そのままベッドへ入った。


付き合って半年になる。互いの部屋を行き来するようになってから、こういう夜も特に珍しくなくなっていた。


「もう一杯だけ」

「まだ飲むの?」

「今日は飲みたい気分」

「明日休み?」

「休み」


仕方なく俺はキッチンへ向かった。


グラスへ氷を入れ、ウイスキーを注ぐ。そこへ炭酸水を足して軽く混ぜると、氷がカラン、と小さく鳴った。


その音に重なるように、寝室から美咲の声がした。


「ねえ」

「ん?」

「誰と喋ってるの?」


俺は手を止めた。


「誰って、お前だろ」


返事がない。


何を言っているのかと思いながらグラスを持って寝室へ戻ると、美咲はベッドの上でスマホを見ていた。


「何?」

「今、誰かと話してなかった?」

「だから、お前と」

「私、何も言ってないよ」


美咲は笑っている。酔ってからかっているのだと思った。


「もういいよ。ほら」


グラスを渡すと、美咲は一口飲んですぐに眉を寄せた。


「濃っ」

「いつもこんくらいだろ」

「初めて作ってもらったけど」


俺は笑いかけて、そのまま止まった。


「何言ってんの?」

「何が?」

「この前も作っただろ。うち来た時」

「私、ここ来るの初めてだけど」

「いやいや」

「今日、初めて来たじゃん」


冗談を言っている顔ではなかった。


「半年付き合ってんだぞ?」


その言葉を聞いた瞬間、美咲の表情まで固まった。


「……半年?」


部屋の空気が変わった。


俺はテーブルに置いてあったスマホを取り、写真フォルダを開いた。


旅行。水族館。温泉。クリスマス。


美咲と一緒に撮ったはずの写真が何十枚も入っている。


「ほら」


画面を見せると、美咲は黙って写真を眺めた。


「誰、この人」


背中が冷たくなった。


画面には確かに俺がいる。だが、その隣に写っている女は美咲ではなかった。


長い黒髪の、見覚えのない女だった。


慌てて次の写真を見る。


水族館にも同じ女。温泉にも。クリスマスにも。


ずっと俺の隣にいる。


「……誰だよ」


さらに写真を遡る。


半年前。居酒屋のテーブルを挟み、向かい側でその女が笑っている。テーブルにはハイボールが二つ置かれていた。


写真には短いコメントが残っていた。


《由佳と初デート》


由佳。


知らない名前だった。


それなのに、声に出そうとした瞬間、胸の奥が妙に痛んだ。


「あ……」


何かが頭の中へ流れ込んでくる。


この部屋で笑っている由佳。キッチンに立つ俺の背中へ抱きつく由佳。ハイボールを飲みながらキスをして、そのままベッドへ倒れ込んだ夜。


肌の感触まで、突然はっきり蘇った。


そして最後に浮かんだのは、泣いている由佳だった。


『三杯目、作らないで』


そこで記憶は途切れた。


「どうしたの?」


美咲の声で我に返る。


彼女の手には、さっき作ったハイボールがある。グラスの中で氷がカラン、と鳴った。


一杯目。二杯目。三杯目。


俺は急いでテーブルを見た。


グラスが二つ。床にも空のグラスが一つ転がっている。


そしてキッチンには、途中まで飲まれたグラスがもう一つ置かれていた。


数が合わない。


「これ……何杯目だ?」

「え?」

「今日、何杯飲んだ?」

「私? 三杯かな」


違う。


三杯じゃない。


俺がさっき作ったのは四杯目だった。


「飲むな!」


手を伸ばしたが、遅かった。


驚いた美咲が反射的にグラスを傾け、一口飲み込む。


その瞬間、部屋の照明が消えた。


ほんの一秒。


すぐに明かりは戻った。


だが、ベッドの上に美咲はいなかった。


代わりに長い黒髪の女が、裸の肩へ毛布を掛けたままこちらを見ていた。


さっき写真の中で何度も見た顔だった。


「……由佳」


女がゆっくり笑った。


「やっと思い出した」

「お前……」

「ひどいよね。酔うと記憶なくすことがあるって聞いてたけど、女ごと忘れるなんて思わなかった」


由佳はベッドから降り、裸足のまま近づいてくる。


俺は一歩下がった。もう一歩下がったところで、背中が壁に当たる。


由佳はその横を通り過ぎ、テーブルの空のグラスを手に取った。


「最初は私だった」


グラスの氷が鳴る。


「その次が美咲。でも、その前にもいるよ」

「……何の話だ」

「覚えてないんだ」


由佳は笑った。


「三杯目までは、今の女なの。四杯目を飲むと、前の女に戻る」


グラスの底に残っていた水滴が、ぽたりと床へ落ちた。


意味が分からないはずなのに、身体だけが理解したように震え始める。


「じゃあ……五杯目は?」


訊かなければよかった。


由佳の笑顔が消えた。


数秒、何も言わない。


やがて寝室の奥から、別の女の声がした。


「それ、私も知りたかった」


俺はゆっくり振り向いた。


ベッドの下から、白い手が一本伸びている。


その隣から、もう一本。


さらに一本。


指が床を這い、何人もの女がゆっくり顔を覗かせた。


どの顔にも見覚えがない。


けれど向こうは全員、俺を知っているようだった。


由佳がキッチンを見る。


そこには、まだ口をつけていないハイボールが置かれている。


「飲めば思い出すよ」


誰も触れていないグラスの中で、


カラン、


と氷が鳴った。


ベッドの下の女たちが、同時に口を開く。


「五杯目」


少し間を置いて、


全員が笑った。


「あなたが殺した女」

例のごとく、ハイボールを飲みながら書いております。


さすがに五杯目まではいってません。


たぶん。

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