ハイボールは、二杯まで
「ハイボール、もう一杯作る?」
「いや、さすがに飲みすぎだろ」
ベッドの中から訊く美咲に、俺は床へ落ちていたシャツを拾いながら答えた。
時計は午前一時十二分。テーブルの上には空になりかけたウイスキーの瓶と炭酸水、それから氷の溶けたグラスが二つ並んでいる。
飲み始めたのは九時頃だった。
一杯目で仕事の愚痴を言い合い、二杯目を作った頃には美咲が俺の隣へ移っていた。そこからキスをするまでに、それほど時間はかからなかった。
三杯目を飲み切る頃には服も床へ落ちて、そのままベッドへ入った。
付き合って半年になる。互いの部屋を行き来するようになってから、こういう夜も特に珍しくなくなっていた。
「もう一杯だけ」
「まだ飲むの?」
「今日は飲みたい気分」
「明日休み?」
「休み」
仕方なく俺はキッチンへ向かった。
グラスへ氷を入れ、ウイスキーを注ぐ。そこへ炭酸水を足して軽く混ぜると、氷がカラン、と小さく鳴った。
その音に重なるように、寝室から美咲の声がした。
「ねえ」
「ん?」
「誰と喋ってるの?」
俺は手を止めた。
「誰って、お前だろ」
返事がない。
何を言っているのかと思いながらグラスを持って寝室へ戻ると、美咲はベッドの上でスマホを見ていた。
「何?」
「今、誰かと話してなかった?」
「だから、お前と」
「私、何も言ってないよ」
美咲は笑っている。酔ってからかっているのだと思った。
「もういいよ。ほら」
グラスを渡すと、美咲は一口飲んですぐに眉を寄せた。
「濃っ」
「いつもこんくらいだろ」
「初めて作ってもらったけど」
俺は笑いかけて、そのまま止まった。
「何言ってんの?」
「何が?」
「この前も作っただろ。うち来た時」
「私、ここ来るの初めてだけど」
「いやいや」
「今日、初めて来たじゃん」
冗談を言っている顔ではなかった。
「半年付き合ってんだぞ?」
その言葉を聞いた瞬間、美咲の表情まで固まった。
「……半年?」
部屋の空気が変わった。
俺はテーブルに置いてあったスマホを取り、写真フォルダを開いた。
旅行。水族館。温泉。クリスマス。
美咲と一緒に撮ったはずの写真が何十枚も入っている。
「ほら」
画面を見せると、美咲は黙って写真を眺めた。
「誰、この人」
背中が冷たくなった。
画面には確かに俺がいる。だが、その隣に写っている女は美咲ではなかった。
長い黒髪の、見覚えのない女だった。
慌てて次の写真を見る。
水族館にも同じ女。温泉にも。クリスマスにも。
ずっと俺の隣にいる。
「……誰だよ」
さらに写真を遡る。
半年前。居酒屋のテーブルを挟み、向かい側でその女が笑っている。テーブルにはハイボールが二つ置かれていた。
写真には短いコメントが残っていた。
《由佳と初デート》
由佳。
知らない名前だった。
それなのに、声に出そうとした瞬間、胸の奥が妙に痛んだ。
「あ……」
何かが頭の中へ流れ込んでくる。
この部屋で笑っている由佳。キッチンに立つ俺の背中へ抱きつく由佳。ハイボールを飲みながらキスをして、そのままベッドへ倒れ込んだ夜。
肌の感触まで、突然はっきり蘇った。
そして最後に浮かんだのは、泣いている由佳だった。
『三杯目、作らないで』
そこで記憶は途切れた。
「どうしたの?」
美咲の声で我に返る。
彼女の手には、さっき作ったハイボールがある。グラスの中で氷がカラン、と鳴った。
一杯目。二杯目。三杯目。
俺は急いでテーブルを見た。
グラスが二つ。床にも空のグラスが一つ転がっている。
そしてキッチンには、途中まで飲まれたグラスがもう一つ置かれていた。
数が合わない。
「これ……何杯目だ?」
「え?」
「今日、何杯飲んだ?」
「私? 三杯かな」
違う。
三杯じゃない。
俺がさっき作ったのは四杯目だった。
「飲むな!」
手を伸ばしたが、遅かった。
驚いた美咲が反射的にグラスを傾け、一口飲み込む。
その瞬間、部屋の照明が消えた。
ほんの一秒。
すぐに明かりは戻った。
だが、ベッドの上に美咲はいなかった。
代わりに長い黒髪の女が、裸の肩へ毛布を掛けたままこちらを見ていた。
さっき写真の中で何度も見た顔だった。
「……由佳」
女がゆっくり笑った。
「やっと思い出した」
「お前……」
「ひどいよね。酔うと記憶なくすことがあるって聞いてたけど、女ごと忘れるなんて思わなかった」
由佳はベッドから降り、裸足のまま近づいてくる。
俺は一歩下がった。もう一歩下がったところで、背中が壁に当たる。
由佳はその横を通り過ぎ、テーブルの空のグラスを手に取った。
「最初は私だった」
グラスの氷が鳴る。
「その次が美咲。でも、その前にもいるよ」
「……何の話だ」
「覚えてないんだ」
由佳は笑った。
「三杯目までは、今の女なの。四杯目を飲むと、前の女に戻る」
グラスの底に残っていた水滴が、ぽたりと床へ落ちた。
意味が分からないはずなのに、身体だけが理解したように震え始める。
「じゃあ……五杯目は?」
訊かなければよかった。
由佳の笑顔が消えた。
数秒、何も言わない。
やがて寝室の奥から、別の女の声がした。
「それ、私も知りたかった」
俺はゆっくり振り向いた。
ベッドの下から、白い手が一本伸びている。
その隣から、もう一本。
さらに一本。
指が床を這い、何人もの女がゆっくり顔を覗かせた。
どの顔にも見覚えがない。
けれど向こうは全員、俺を知っているようだった。
由佳がキッチンを見る。
そこには、まだ口をつけていないハイボールが置かれている。
「飲めば思い出すよ」
誰も触れていないグラスの中で、
カラン、
と氷が鳴った。
ベッドの下の女たちが、同時に口を開く。
「五杯目」
少し間を置いて、
全員が笑った。
「あなたが殺した女」
例のごとく、ハイボールを飲みながら書いております。
さすがに五杯目まではいってません。
たぶん。




