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4、ガラスの心

 家に帰った美波は、部屋で一人、泣き続けた。田村の行動が、なぜこんなにも悲しいのか。

 一年間押し殺してきた思いが爆発するかのように、涙は止まることを知らない。だが思い出すことは、今まで接してきた田村との他愛もない楽しい思い出や、可愛らしい笑顔ばかり。こんなにも好きだという気持ちを、親友の恋人ということで諦めてきた恋は、気持ちだけ膨れ上がったまま、もはや美波を支えきれなくなっていた。

 誰にも伝えられない想いに、美波はその日一晩、ただただ泣いていた。


 次の日は土曜日で休みだったが、部活を休むわけにはいかない。明日の日曜は、待ちに待った大会なのだ。美波は腫れた目を何度も洗うと、気を取り直して学校へと走っていった。

 学校に着くと、すぐにグラウンドへ向かう。大会を明日に控えているので、顧問の先生も部員たちも、みんないつもより少し気が立っているようだ。そんな部員たちを尻目に、美波だけは生気のない目でその場に居た。誰の言葉も耳に入らないように、美波の心は何処にもない。

「鈴木!」

 最後の練習に身の入らない美波に、先輩の檄が飛ぶ。

「どうしたのよ、鈴木。朝から上の空じゃない」

「……すみません」

 先輩の言葉に、美波は無意識に答えた。

「なにかあったの?」

「……いいえ……」

「……悩み事があるなら聞くよ? 言えないならそれでもいい。だけど、明日は大会なんだから。それが終わってから悩めばいいじゃない。そんな顔してるんなら、出場取り消されても文句は言えないわよ」

 先輩がそう言った。美波はなおも元気は出ないものの、その言葉を理解して頷く。

「すみません。練習に戻ります」

 美波はそう言うと、気を取り直して練習へと戻っていった。

 何がこんなに心を沈ませているのか、美波自身も戸惑っていた。ただ予想以上に自分が田村を好きだということに、美波は気付かざるを得なかった。


 その日、練習を終えた美波は、誰の誘いも断って、一人で家路を急いでいた。

「鈴木!」

 学校を出かかった時、そんな声に美波は振り向いた。すると、野球場で片付けをしている野球部員が目に止まる。その中に、こちらへ向かって手を振る田村の姿があった。田村はいつもと変わらぬ笑顔で、手を振っている。

「鈴木! 明日見に行くからな! 頑張れよ!」

 ずいぶん遠くからだが、そう叫ぶ田村の声は、美波にまでハッキリと届いた。

「……馬鹿……!」

 美波はそう呟くと、田村に何も言わず、その場から走り去っていった。途端、どんどん涙が溢れてくる。

(ひどいよ、田村……昨日私が泣いたことも、なかったことにしてる……好きだけど……私があんたを好きなこと、このまま黙っているつもり。千笑のこと、絶対に失いたくないから……だけど……どうして昨日、あんたの言葉で泣いたと思ってるの? こんなに我慢してる私、ちょっとくらい気付いてよ……!)

 美波はそのまま、家へと走っていった。


 次の日の朝は最悪だった。今日も腫れぼったい目は、涙に濡れて充血し、心も平常心どころではない。昨日もあれから、考えれば考えるほど、涙が止まらなかった。

 だが、今日は待ちに待った陸上大会だ。今となっては乗り気ではないものの、美波は気持ちを切り替えるように、何度も何度も顔を洗った。鏡に映る洗い立ての顔は、全体が腫れぼったく、見つめれば涙が溢れ出しそうだった。

「なにやってんの、私……付き合ってもいないのに、傷付いてる場合じゃない。今日は大会のことだけ考えなくちゃ……」

 前向きに考えようとすれば、なんとなく気持ちも晴れてくる。いつまた引き込まれるかもしれない闇に、深くは考えようとせず、美波は家を飛び出していった。

 しかし、気持ちを切り替えようとする美波とは逆に、曇り空は今にも泣き出しそうだった。


 美波は駅に着くと、すでに来ていた先輩と合流した。同じ駅の部員と、大会のある競技場まで行くことになっている。

「おはよう、鈴木」

「おはようございます」

「どう? 調子は」

「あ、はい……昨日はすみませんでした」

 心配そうに見つめる先輩に、美波は申し訳なく謝った。

「いいよ。少しは立ち直ったなら。今日は走ることだけ考えな」

「はい……」

「さて、あと一人はまだかな。遅刻魔だから心配」

 先輩は、携帯を取り出しながらそう言った。同じ駅の部員はあと一人いる。まだ集合時間にはなっていないが、先輩はその一人に電話をかけ始めている。

 その間、美波は遠くを見つめた。すると、美波の目はまたしても一人の人物に釘付けになる。

 通りの向こうを歩いているのは、数日前に目撃した時と同じ光景だった。そこには、千笑と見知らぬ男性が、仲良く腕を組んで歩いている。

「ち……」

「お待たせ!」

 その時、あと一人の部員が合流してきたので、美波は現実へと引き戻された。

「揃ったね。行こう、鈴木」

「は、はい……」

 美波がもう一度振り向くと、さっきいたはずの場所に、千笑の姿はなかった。


 電車の中で、美波は笑顔を取り繕いながら、千笑のことを思い出していた。地元の周辺で、恋人以外の男性と腕を組んで歩くなど、美波には到底出来ることではない。田村とも同じ地元で、会ってしまう確立も高い。なにより朝のこの時間では、いつも寝坊ばかりの千笑にとって、まるで朝帰りでもしたかのようである。

 美波の中で、千笑のことを信じようとしても、悪いことばかりが渦巻いているようだった。


「鈴木。もうすぐだね。大丈夫?」

 競技場で順番を待つ美波に、先輩が話しかけてきた。優しい先輩の顔を見るだけで、心が落ち着くような気がする。

「あ、はい……大丈夫です」

「そう。なんだか雨が降りそうな天気だよね。寒くなってきたし、身体冷やさないようにね」

「はい」

 そう返事をして、美波は何度も足を振ったり手を伸ばしたりし、間近に迫る順番を待った。

 美波は短距離走に出ることになっている。だが、ただその時を待つこの時間だけは、何度経験しても慣れない緊張感がある。

「美波――!」

 緊張している美波に、遠くでそんな声が聞こえた。顔を上げると、客席に大きく手を振る人影があった。さっき見た顔とはまったく違い、いつもと同じ、元気一杯の千笑の姿だった。

「千笑……」

「頑張って―─!」

 そう叫び続ける千笑に、美波は笑う。だがその笑顔の中にも、いくつもの疑惑が消えることはない。

「鈴木。もうすぐだよ」

 先輩に呼ばれ、美波は千笑に手を振ると、そのまま待機場所へと向かった。ふと、もう一度客席を見ると、千笑の隣にはいつの間にか田村の姿もある。美波の心が、張り裂けそうに鼓動する。

(苦しい……)

「次、位置について」

 その時、やっと美波が呼ばれ、スタートラインに着いた。スタートラインからは、遠いながらも真正面に、千笑と田村の姿を捉えることが出来る。

 突然、競技用のピストル音が、けたたましく鳴り響いた。

 一瞬、二人のことを考えていた美波も、ハッとして反射的に走り出す。まるで二人に向かって走っているかのように、美波は遠くから自分を見る二人を見つめた。そんな二人の手が、固く繋がれているのが遠目にわかった。

(もう、駄目……くじけそう……)

 美波は意識を失うように、競技中に崩れて転んでしまった。もう、走れなかった。

「鈴木!」

 遠くで先輩の声が聞こえたが、美波はもう立ち上がる気力もないかのように、その場で泣き崩れた。

(もうイヤ……どうして私、こんなに馬鹿なんだろう……割り切れない。無理なものは、無理だ……!)


 救護テントの仮設ベッドで、美波は横になっていた。先輩や先生が付き添ってくれているものの、その声は美波には届かない。

(私は、千笑が大事。千笑のことも信じてる……そう、だから……何があっても、田村のことを好きになっちゃいけないんだ。一人で辛くなるのも駄目。誰にも心配かけちゃ駄目。こんな駄目な私なんか、死んじゃえばいいんだ……!)

 止まることを知らない美波の涙を見て、先生も先輩も、それ以上、美波に何も言おうとはしなかった。


 しばらくして、外は雨がぱらつき始めた。すべての競技を終え、すでに競技場は片付けの準備に入っている。

 美波もだいぶ落ち着いたようで、帰り支度を始める。付き添いの先生と先輩を残して、他の部員は帰っていったようだ。美波も支度を整えると、先生と先輩とともに、競技場を出ていった。

 診察した医師からは、極度のストレスと疲労、そして寝不足だと診断された。ネガティブな自分と、大会で走りきれなかった自分に嫌気が差し、美波は深く落ち込んだ。


「美波……!」

 競技場を出てすぐに、外にいた千笑が駆け寄ってきた。そこに田村の姿はない。美波の顔は強ばるものの、雨の中、心配そうな顔で待っていてくれた親友の姿には、素直に嬉しかった。

「美波。大丈夫?」

「千笑……うん……田村は?」

「先に帰ってもらった……一緒に帰ろう」

 千笑はそう言って、自ら差している傘を差し出す。美波はその傘に入ると、先生と先輩にお辞儀をして、千笑と歩き出した。

「残念……だったね」

「……うん……」

 重い雰囲気の中、二人はそれ以上しゃべらず、駅へと歩いていった。電車の中でもしゃべろうとしない千笑に、美波は違和感を覚える。

「美波……智樹のこと、好きなの?」

 その時、美波の気持ちを察するように口を開いた千笑は、唐突にそう尋ねてきた。

「……えっ?」

「好きなんでしょ? 智樹のこと」

「……」

 美波は、言葉を失った。自らの恋人を好きかと尋ねる千笑に、何と答えれば良いのかわからない。

 沈黙のまま、電車は二人の住む最寄り駅へと止まった。二人はそのまま、無言で電車を降りていく。

「……どうして黙ってたの? 隠し事はやめようねって、今まで散々言ってきたじゃない。どうして黙ってるの?」

 改札から出たところで、千笑は今にも泣きそうにして、美波にそう訴えた。美波は責められているようで、拳を握り締める。

「そんなの……言えるわけないじゃない!」

 拳を握り締めたまま、美波が言った。

「美波……」

「そりゃあ、今までだって散々悩んできたよ! 何度言おうかと思ったことか……だけど、言えるわけないじゃない。千笑の恋人、好きになっちゃったなんて……!」

 美波の言葉に、千笑の表情も変わる。

「言えばいいじゃない! そりゃあ、彼氏を譲るなんて言えないよ。でも、親友がここまで溜め込んでるの見て、それでも気付かないフリしてろって言うの? どうしてそんなになるまで、一人で我慢してるのよ!」

 駅前だが周囲も気にせず、二人はぶつかり合っていた。

 少し本音を吐き出したことで、美波は止まらなくなったように、もう一度口を開いた。

「じゃあ……何? 千笑はなんなの?」

「え?」

 美波の問いかけに、千笑は首を傾げる。

「私、見たよ。今日も千笑が、知らない男の人と一緒にいるの……あれは何?」

「……それは……」

「今日だけじゃない。この間だって見たんだよ。だけど、千笑は何も言ってくれなかった……いつもだったら、昨日あったこととか、なんだって話してくれてた。でも、どうして黙ってるの? あれはなんなの?  田村がいるのに、どうしてあんな人と腕組んで歩いてるの? ねえ、どうして何も言わないの。どうして黙ってるのよ!」

 今までの不満が爆発するように、涙とともに美波はそう叫んでいた。

 千笑は何も言えなくなったようで、小刻みに肩を震わせている。

「……もう、いい……」

 やがて、千笑がそう言った。

「部活、部活で、全然話す暇がなかったの誰よ! 美波も智樹も、全然わかってない。忙しいのはわかってる……だけど、別のクラスで話す暇もなかったじゃない……もう、美波なんか知らない!」

 千笑はそう言い放つと、そのまま走り去っていった。

 残された美波は、雨に打たれたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。

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