第3話「日常に潜む劇薬」
翌日、俺は非番を利用して街へ出ていた。
抑制剤のストックが心もとなくなっていたため、信頼できる闇医者から薬を受け取る必要があったからだ。
正規のルートでは足がつくし、ヒーローがヒート抑制剤を買っているなんて記録が残れば、マスコミの良い餌食だ。
変装のために帽子を目深にかぶり、ダテ眼鏡をかけて、繁華街の裏通りにある雑居ビルへと向かう。
無事に薬を入手し、裏口から出てひと息ついた時だった。
「ずいぶんと物騒な買い物をするんだな」
不意にかけられた声に、俺は肩を跳ねさせた。
あわてて振り返ると、路地の入り口に一人の男が立っていた。
身長は俺より頭一つ分高く、仕立ての良いグレーのスーツを着こなしている。
整った顔立ちに、銀縁の眼鏡。
知的で冷ややかな美貌を持つその男に見覚えはなかったが、漂ってくる気配に全身の毛が逆立った。
気配を消していたのか、それとも俺が油断していたのか。
いや、違う。
この男が発する存在感が、昨日会った「彼」と重なるからだ。
「誰だ……」
警戒心を露わにして問うと、男は口の端を少しだけ上げた。
その笑みを見て、確信する。
グラキエスだ。
マスクも戦闘服も着ていないが、この威圧感、この香りは間違いなくあいつだ。
俺は咄嗟に構えを取ろうとしたが、ここは街中だ。
変身もできないし、騒ぎを起こせば一般人を巻き込むことになる。
「そう警戒するな。今日は仕事じゃない」
男――人間の姿をしたグラキエスは、ポケットに手を入れたまま、ゆっくりと俺に近づいてくる。
その動作一つ一つが洗練されていて、周囲の薄汚れた路地がそこだけ映画のワンシーンのように見えた。
「何の用だ。俺を殺しに来たのか?」
「殺す? まさか」
彼は俺の目前まで来ると、すっと顔を寄せた。
眼鏡の奥の瞳が、面白がるように俺を観察している。
「昨日の今日で、よく出歩けるなと思ってな。体はもういいのか?」
「お前には関係ない」
「関係あるさ。お前は俺が見つけた『運命』なんだからな」
運命。
その言葉が、重く響く。
オメガバースにおける「運命の番」。
互いのフェロモンが最高に適合し、出会った瞬間に魂が惹かれ合う存在。
まさか、俺とこいつが?
正義のヒーローと悪の幹部が、運命の番だなんて、何の悪い冗談だ。
「俺は、そんな迷信信じてない」
「頑固だな。体は正直に反応しているようだが?」
彼は俺の手首を不意に掴んだ。
冷たい指先が肌に触れた瞬間、電流が走ったような痺れが駆け抜ける。
心拍数が跳ね上がり、呼吸が浅くなる。
抑制剤をのんだばかりだというのに、彼のフェロモンを浴びると、薬の効果が吹き飛んでしまいそうだ。
「放せ……!」
「いい薬を使っているようだが、俺の前では無意味だぞ」
彼はそうささやきながらも、俺の手首を解放した。
その態度はあくまで紳士的で、それが逆に恐ろしかった。
力ずくでねじ伏せることもできるはずなのに、彼はまるで俺をいたわるように振る舞っている。
「名乗っておこうか。人間社会での名は、桐生エイスケだ」
「……聞きたくない」
「カイ、だったか。いい名前だ。燃えるような赤、お前に似合っている」
俺の本名を呼んだ。
正体を知っているだけでなく、素性まで調べ上げているのか。
背筋が寒くなる。
「俺の組織に勧誘しに来たのか?」
「いや。今のネビュラにお前が来るのは勧めない。あそこは……少し腐敗が進みすぎた」
意外な言葉だった。
彼は自分の組織を批判したのだ。
「どういう意味だ」
「いずれ分かる。それより、忠告しておいてやる」
エイスケの表情から笑みが消え、真剣な眼差しになった。
「次の作戦では、もっと凶悪なやつが出てくる。無理をして変身を維持すれば、お前の体は壊れるぞ」
「俺はヒーローだ。逃げるわけにはいかない」
「その無鉄砲さも嫌いじゃないが……死なれたら困る」
彼は懐から小さなケースを取り出し、俺の胸ポケットにねじ込んだ。
「これを使え。俺が独自に調合させた抑制剤だ。市販のものより副作用が少なく、効き目は強い」
「敵から施しを受ける気はない!」
「敵じゃない。今はただの、お前に惚れた男として渡している」
さらりと言ってのけた言葉に、俺は言葉を失った。
惚れた、だと。
こいつは、自分が何を言っているのか分かっているのか。
呆然とする俺を残して、エイスケは「また会おう」と背を向けて歩き出した。
路地を出て行く彼の背中は、憎らしいほど堂々としていて、そして悔しいほどに頼もしく見えた。
胸ポケットに入ったケースが、俺の心臓の鼓動に合わせて熱を帯びているように感じられた。




