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8話

門の光が、遠くに見え始めた頃。


 ヒロシはようやく、張りつめていた肩の力を少しだけ抜いた。

 それでも槍は下げない。油断はしない。足取りも、依然として慎重なままだ。


(……戻るだけなのに、こんなに神経使うのか)


 行きよりも、帰りの方が怖い。

 それが、今はっきりと分かる。


 自分がどこまで踏み込んだのか。

 ダンジョンがどれほど簡単に牙を剥くのか。

 それを、身体が覚えてしまったからだ。


 足元で、小さく石が転がった。


「……っ」


 反射的に足を止め、槍を構える。

 だが、何も出てこない。

 ただの瓦礫だった。


(……過敏になりすぎか)


 そう思いながらも、槍を下ろす気にはなれない。


 しばらく進むと、壁際に黒ずんだ跡が見えた。

 乾いた血のような色。

 古いものだ。何度も踏み荒らされ、薄れている。


(……ここで、誰か死んだのか)


 考えないようにしても、頭に浮かぶ。


 挑戦者。

 自分と同じように、武器を借り、門をくぐり、

 そして――戻れなかった誰か。


 ヒロシは視線を逸らし、歩調を早めた。


 やがて、空気が変わる。


 湿気が薄れ、わずかに風を感じる。

 遠くから、人の気配が流れ込んでくる。


(……安全地帯、か)


 緊張が、少しずつ解けていく。


 門の向こう側に立つ影が見えた。

 小さく、細く、尻尾が揺れている。


「……おや、戻ったんだ。意外とお早い帰りで」


 聞き慣れた声。


 門を抜けた瞬間、空気が一変した。

 ざわめき。人の声。金属音。

 生きている世界の音が、耳に流れ込む。


 ヒロシは、その場で大きく息を吐いた。


「……あぁ、戻ったよ」


 モルディオは、ヒロシの全身を一瞥する。


「怪我は?」


「……ない。多分」


「多分、ね。まぁ目立つような怪我がないなら上出来さ」


 猫はヒロシの腰元に視線を落とした。


「おぉ、結晶、増えてるね」


「……ああ。二体、倒した」


 それだけ言うと、どっと疲れが押し寄せてきた。

 膝が笑いそうになるのを、必死で堪える。


「よく生きて戻ったね」


 モルディオは、軽く言った。

 だが、その声には、いつもより少しだけ重みがあった。


「どうだった?」


「……怖かったよ」


 正直な答えだった。


「でも、戦えた」


「うん」


「勝てた、って言うのは……まだ違う気がするけど」


 モルディオは、満足そうに尻尾を揺らす。


「それでいい。最初は皆そんなもんさ。その感覚を忘れないようにね」


「……その感覚を、か」


 ヒロシは短く息を吐き、槍をゆっくりと下ろした。

 安全地帯に入ったという事実が、ようやく身体に染みてくる。

 膝の震えも、心臓の早鐘も、少しずつ収まっていった。


「正直さ」


 ヒロシは門の奥を一度だけ振り返る。

 闇は、何もなかったかのように静まり返っている。


「もう少し奥まで行ける気もした。でも、行かなかった」


 モルディオは頷いた。


「それが正解だよ。初日は“引き際”を覚える日だからね」


「……引き際、か」


 簡単なようで、きっと一番難しい。

 ダンジョンの奥には、まだ知らないものが山ほどある。

 得られる強さも、報酬も、きっと比例しているのだろう。


 だが――命も。


「で、今日はどうする?」


 モルディオが軽く問う。


「……戻るよ。宿に」


「うん。それがいい」


 町へ向かって歩き出す。

 門の前では、これから潜る挑戦者たちが準備をしていた。

 装備を点検する者、仲間と声を掛け合う者、無言で門を見つめる者。


 ヒロシは、その中に自分を重ねてしまう。


(……あの中に、さっきの俺がいた)


 そして、戻ってきた今の自分は――少しだけ、違う。


 町に入ると、昼の喧騒が迎えてくれた。

 露店の呼び声。鍛冶場から響く金属音。

 魔結晶を加工する淡い光が、あちこちで瞬いている。


「今日は稼ぎもあるし、宿代は問題ないね」  

モルディオが言う。


「2コアじゃ、ギリギリだろ」


「初日の成果としては十分だよ。欲張らなかった分、明日がある」


 “明日”。

 その言葉が、自然に出てきたことに、ヒロシは少し驚いた。


「……明日、か」


「嫌なら、無理に潜らなくてもいいんだよ?」


「……いや」


 即答だった。


「怖いのは、変わらないけどさ。何も知らないままより、少しずつ分かっていく方が……多分、マシだ」


 モルディオは、にやりと笑った。


「いいね。その考え方。長生きするタイプだ」


 宿に戻る途中、ヒロシは露店で新人向けの安い傷薬を一つ買った。

 昨日なら見向きもしなかっただろう、地味な買い物。


(……備え、か)


 宿の扉を押し開けると、朝と同じ匂いが鼻をくすぐった。

 油とパンと、少し焦げた匂い。


「部屋、空いてるよ」


 受付の声に、ヒロシは頷く。

 どうやら昨夜泊まった新人向けのこの宿は1コアで一泊できるらしい。


 部屋に戻ると、ベッドに腰を下ろした瞬間、全身の力が抜けた。

 槍を壁に立てかけ、ポケットから結晶を取り出す。


 淡く光る、小さな塊。


「……命の値段、か」


 そう呟いてから、首を振る。


「違うな」


 これは、今日を生き延びた証だ。

 まだ先へ進めるという、許可証のようなもの。


 ベッドに横になり、天井を見上げる。

 瞼を閉じると、あの二体の獣の動きが、鮮明に蘇る。


 囲まれた瞬間の焦り。

 槍が当たったときの手応え。

 倒れたときの、あの静けさ。


(……次は、もっと上手くやれる)


 そう思える自分が、確かにいた。


 外では、まだ町の音が続いている。

 誰かが潜り、誰かが戻り、誰かが戻らない。


 その循環の中に、ヒロシも足を踏み入れた。

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