5話
ガルムの背中が、人混みに紛れていく。
短剣の青年と並び、光の案内人を伴い、迷いなく町の奥――次の層へと続く方向へ消えていった。
その姿を、ヒロシはしばらく見送っていた。
(……戻って腐るくらいなら、挑んで死ぬ、か)
言葉が胸の奥で沈殿する。軽く言っていたようで、その実、あまりにも重い選択だ。
「……ずいぶんと、刺激的な出会いだったね」
隣で、モルディオが尻尾を揺らした。
「知り合い?」
「いや、さっき会ったばかりだ」
「それで人生観までぶつけてくるんだから、挑戦者ってのは、やっぱ面白い」
モルディオはそう言って、噴水の縁にひょいと飛び乗った。
「さて。新人講習の続きといこうか」
「……講習?」
「君、さっきから疑問だらけの顔をしてる」
図星だった。聞きたいことは山ほどある。だが、何から聞けばいいのか分からない。
「まずは一番分かりやすいところからにしよう」
モルディオは、ヒロシのポケットを指差した。
「その結晶。まだ捨ててないみたいだね」
「……ああ」
反射的に、ポケットの上から手を当てる。 通路で拾った、淡い光を放つそれ。
「これ……あの獣を倒したら、落ちてた」
「正確には“残った”んだ」
モルディオは言い直した。
「モンスターを倒すと、必ずああいう結晶が生まれる。形や色、質はまちまちだけどね」
「……何なんだ、それ」
「今は、“役に立つもの”くらいでいい」
あっさりと、話を切った。
「詳しい話は、ちゃんと腰を落ち着けてからだ。知識は武器になるけど、早すぎると混乱する」
ヒロシは、少し不満そうに眉をひそめたが、反論はしなかった。正直、頭はすでに限界だった。
「それより」
モルディオは、噴水の水面をちらりと見る。
「今日はもう、潜らない。君の状態だと、次は運じゃ済まない」
「……そう、だな」
全身の重さを思い出す。 今すぐ横になって眠りたい。
「宿を取ろう。新人向けの安いところがある」
「宿……?」
「あるよ。ベッドも、食事も」
猫は当然のように言った。
「挑戦者は人間だ。休まなきゃ死ぬ」
噴水から離れ、町の裏手へ向かう。表通りの賑やかさが少しずつ薄れ、石畳の音が静かになっていく。
途中、何人かの挑戦者とすれ違った。視線だけを向けてくる者。 興味なさそうに通り過ぎる者。一瞬、ヒロシの結晶の気配に目を留める者。
(……見られてる?)
ポケット越しでも分かるほど、視線が刺さる瞬間があった。
「……なあ」
小声で尋ねる。
「さっきから、俺を見てくる人がいる気がするんだけど」
「正常だね」
モルディオは平然と答えた。
「新人は目立つ。装備も、歩き方も、表情も」
「……装備って」
自分の格好を見る。普段着のまま。武器らしい武器もない。
「それに」
猫は、声を少しだけ低くした。
「結晶を持ってる気配がするから」
「……気配?」
「詳しくは後」
まただ。
だが、モルディオの言葉には一貫して“今は不要”という線が引かれている。理由もなく引き延ばしているわけではない――そう思えた。
やがて、小さな建物の前で足を止めた。 石造りの二階建て。 看板には、簡素な文字で《休憩所》と書かれている。
「ここだ」
「……思ったより、普通だな」
「期待してた? 酒場で情報収集とか」
「少しは」
「それ新人がやると、カモにされるよ」
即答だった。
中に入ると、木の香りが鼻をくすぐる。 簡素な受付。 壁際には長椅子が並び、何人かが黙って座っていた。
疲労。 諦観。 そして、わずかな安堵。
それらが、空気として漂っている。
「一泊だ」
モルディオが言うと、受付の女性は無言で頷いた。 ヒロシを一瞥し、鍵を差し出す。
「……え?」
「もう手続きは終わってる」
「いつの間に……」
「案内人の仕事だよ」
鍵を受け取り、二階へ。 小さな部屋。 簡素なベッドと、机と、椅子。
だが――
「……天国だ」
ヒロシは、ベッドに腰を下ろした瞬間、そう漏らした。
身体が、悲鳴を上げていたらしい。 今になって、どっと疲労が押し寄せてくる。
「今日は、もう何も考えなくていい」
モルディオは、窓際に座る。
「生き延びた。それだけで、十分だ」
「……なあ、モルディオ」
ベッドに仰向けになりながら、ヒロシは言った。
「俺、ちゃんと……選べてるのかな」
「何を?」
「進むか、戻るか」
天井を見つめる。 石の天井。 現実感のある、異世界の天井。
「……正直、ちょっと怖い」
声が、少し震えた。
「さっきの戦いだって、運が良かっただけだ。次も生き残れる保証なんてない」
「うん」
否定しない。
「でもさ」
ヒロシは、拳を握る。
「それでも……戻るって選択を、今すぐ選ぶのも……」
言葉に詰まる。
「……逃げ、みたいで」
「逃げるも、挑むも君の自由さ。思う存分悩めばいい」
モルディオは、あっさりと言った。
「でも、まぁ、ボクとしては挑んで欲しいけどね。挑戦者をサポートする、それこそがボクたち案内人の意義、本懐だから」
静かな声だった。
「まぁ、取り敢えず今日は寝なよ。明日、町を回って、話を聞いて、考えればいい」
猫は、窓の外を見た。
「ダンジョンは、明日もそこにある」
ヒロシは、目を閉じた。
ガルムの背中。 通路の獣。 淡く光る結晶。
それらが、ゆっくりと、闇に溶けていく。
(……俺は)
まだ、答えは出ない。
だが――
少なくとも今は、生きている。
生きている実感がある。
その事実だけを抱えたまま、ヒロシの意識は、深い眠りへと沈んでいった。




