2話
ヒロシは、石を振り上げたまま固まっていた。
(……当たるのか、これ)
距離は三メートルほど。 獣は、唸り声を上げながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。
三本脚のせいか、動きは不格好だ。 だが、それでも――確実に、こちらへ来ている。
「……っ」
腕が、震えた。
こんなふうに誰かを殴るのは、初めてだ。ましてや、相手は人間ですらない。
だが、迷っている時間はない。
獣が、低く身を沈めた。
「……来る!」
次の瞬間、獣は跳んだ。
「うわぁぁぁっ!!」
ヒロシは、反射的に石を振り下ろした。
――外れた。
「えっ!?」
石は、獣の頭をかすめて、空を切る。 勢い余って、体が前に流れた。
(ヤバい!)
獣の体当たりが、肩にぶつかる。
「ぐっ!」
視界が揺れ、ヒロシは床に転がった。 背中を強打し、息が詰まる。
「っ……は……!」
獣はすぐに体勢を立て直し、こちらを見下ろしていた。 黄ばんだ牙が、すぐ目の前にある。
(立て……!)
頭では命令しているのに、体が動かない。恐怖で、手足が痺れたようになっていた。
獣が、前脚を振り上げる。
(終わ――)
その瞬間、ヒロシは叫んだ。
「嫌だ!!」
声と同時に、体が動いた。
転がるように横へ跳ぶ。 爪が、さっきまで頭があった場所を叩いた。
ガンッ、と嫌な音が通路に響く。
ヒロシは、息も整わないまま立ち上がった。
「……クソ……!」
石は、まだ手に握られている。 指が、白くなるほど力を込めた。
(落ち着け……落ち着け……)
相手は速くない。 動きも単調だ。
(……いける)
自分に言い聞かせる。
獣は、再び唸り声を上げ、突進してきた。
ヒロシは、今度は逃げなかった。
真正面から、一歩踏み出す。
「来い……!」
獣が、噛みつこうと口を開いた瞬間。
――今だ。
ヒロシは、横から回り込むように動き、全力で石を振り下ろした。
ゴンッ。
鈍い感触が、手に伝わる。
「……っ!」
確かに当たった。 だが、致命打ではない。
獣は、悲鳴のような声を上げ、体を振り回した。 その勢いで、ヒロシは弾き飛ばされる。
「うわっ!」
背中から壁にぶつかり、肺の空気が吐き出された。
「……っは……」
視界が、ちらつく。
(……効いてない……?)
獣は、頭を振りながらも、まだ立っている。 むしろ、怒ったように動きが荒くなっていた。
「マジかよ……!」
逃げる? いや、背後は壁だ。
獣が、再び距離を詰めてくる。
(……考えろ)
ヒロシの目が、獣の体を必死に観察する。
三本脚。 前脚は二本、後脚は一本。
(……バランス、悪い)
獣が踏み込んだ瞬間を狙えば――
獣が、突進。
「今だ!」
ヒロシは、獣の前脚めがけて石を叩きつけた。
ゴキッ。
嫌な音がした。
獣の体が、傾く。
「……っ!」
今度は、逃さない。
ヒロシは、獣に馬乗りになるように飛びかかった。
「うぉぉぉぉ!!」
石を、何度も振り下ろす。
頭。 首。 顔。
ゴン、ゴン、ゴン。
自分でも、何を叩いているのか分からない。 ただ、止まれなかった。
「……死ね……!」
言葉が、勝手に口から漏れた。
獣の抵抗が、徐々に弱くなる。 噛みつこうとしていた顎が、空を切る。
最後に、もう一度。
全力で、振り下ろす。
ゴン。
獣の体が、ぴくりと動き――
止まった。
「……っ……はぁ……」
ヒロシは、その場に崩れ落ちた。
全身が、震えている。 腕も、脚も、力が入らない。
「……生きてる……?」
自分に問いかける。
しばらくして、獣の体が―― 音もなく、崩れ始めた。
光輝く粒子となり、床へと落ちていく。
「……やったのか?」
ヒロシは、ただ見ていることしかできなかった。
完全に消えたあと、床の上に残ったのは―― 淡い光を放つ、小さな結晶。
「……何だよ……これ……」
拾い上げると、ひんやりとしている。
壊れそうには見えない。 ただ、そこに“在る”感じがした。
その瞬間。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びた。
「……っ?」
体の芯に、何かが流れ込む感覚。 疲労の奥に、わずかな力が灯る。
理由は分からない。 説明もできない。
だが、確かに―― さっきよりも、呼吸が楽だった。
「……意味、分かんねぇ……」
ヒロシは、結晶を握りしめたまま、天井を見上げた。
「……でも」
声が、震える。
「……生き残った」
それだけが、確かだった。




