20話
ヒロシは思わず足を止めた。
遅れて、地面を伝う微かな震動。遠くの建物の屋根から、埃が舞い上がるのが見えた。
「……今の音」
「間違いないね」
モルディオの声から、いつもの軽さが消えていた。
「アウトライアーだ。しかも――まだいる」
「もう討伐されたんじゃないのか?」
「“これ”を見て、その判断をしただけさ」
モルディオは壊れた壁と抉れた地面を示す。
「でも、今のは明らかに“新しい”。町の外じゃない。内側だ」
ざわ、と周囲の空気が変わる。
遠くから、人の叫び声が聞こえた。逃げ惑う足音。金属がぶつかる音。誰かが怒鳴り、誰かが泣いている。
ヒロシの喉が、ひくりと鳴った。
「……ギルドは?」
「動いてるはずだよ。案内人もね。でも――」
モルディオは、ヒロシの手首にちらりと視線を向けた。
「キミ、さっき言ったよね。ギルドで様子を確認するって」
「……ああ」
「その“様子”が、向こうからやってきたみたいだ」
ドガン、と再び衝撃音。今度は、さっきより近い。
通りの先で、建物の壁が内側から破壊され、石材が噴き飛んだ。悲鳴が一斉に上がり、人々が雪崩のようにこちらへ走ってくる。
「ひ、人だ! 逃げろ!」
「化け物だぞ!」
「挑戦者が――ッ!」
人波に押されながら、ヒロシは必死に状況を探る。
崩れた壁の奥。立ち上る粉塵の向こうに――人影があった。
人、だ。
確かに人の形をしている。
だが。
不自然なほど静止している。逃げ惑う人々にも、悲鳴にも、一切反応を示さず、ただ――こちらを見ている。
距離があるはずなのに、視線が合った気がした。
背筋が、ぞわりと粟立つ。
「……あれが」
「うん」
モルディオが、低く告げる。
「アウトライアーだ」
次の瞬間。
人影が、消えた。
――否。
跳んだ。
爆発音と共に地面が砕け、衝撃波が走る。
一瞬で距離を詰め、逃げ遅れた挑戦者の前に着地していた。
「――っ!」
言葉はなかった。躊躇もなかった。
振るわれた腕が、挑戦者の防具ごと身体を叩き潰す。血と金属片が宙を舞い、周囲が凍り付く。
「……マジ、かよ」
ヒロシの声は、掠れていた。
理性も、目的も、交渉の余地もない。
ただ、そこにいるものを“狩る”存在。
モルディオが、静かに言った。
「いいかい、ヒロシ。今すぐ引き返すんだ。これはキミの手に負える相手じゃない」
「……でも」
ヒロシは、無意識に手首を握り締めていた。 《適応の腕輪》の感触が、そこにある。
――死ににくくなる。だが、死なないわけじゃない。
分かっている。頭では、嫌というほど。
それでも。
(……逃げ切れるか?)
アウトライアーの動きは、明らかに異常だった。バーバラとは、また別種の“おかしさ”。
あれがこちらに気付いたら――
「ヒロシ」
モルディオの声が、強くなる。
「生き残る判断をしなさい」
その言葉が、胸に刺さった。
ヒロシは、息を吸う。短く、深く。
「……分かった」
踵を返す。
だが、その瞬間だった。
――視線。
粉塵の向こう。アウトライアーの顔が、こちらを向いていた。
そして。
初めて――口元が、歪んだ。
まるで、獲物を見つけたかのように。
ヒロシの背筋を、冷たいものが走った。
――気付かれた。
その確信が、思考よりも先に身体を突き動かした。
「走れッ!」
ヒロシは叫び、踵を返すと同時に人混みを掻き分けた。考える暇はない。判断を誤れば、次の瞬間には――。
背後で、空気が爆ぜる。
ドン、という音が遅れて届いた時には、すでに地面が抉れ、瓦礫が宙を舞っていた。
逃げ遅れた数人の挑戦者が吹き飛ばされ、悲鳴すら途中で途切れる。
(速すぎる……!)
ダンジョン内で見てきたどんなモンスターとも違う。理不尽さの質が、まるで別だ。
「モルディオ、どっちだ!」
「左だ! 狭い路地に入れ!」
言われるがまま、ヒロシは路地へ飛び込む。 石壁が迫り、視界が一気に閉じる。
次の瞬間。
――轟音。
路地の入口が、内側から叩き潰された。 瓦礫が背中を掠め、衝撃が内臓を揺さぶる。
「ぐっ……!」
倒れそうになるのを、なんとか踏みとどまる。《適応の腕輪》が、僅かに衝撃を逃がしたのが分かった。
(これが……“死ににくくなる”ってことか)
ありがたい。だが、万能じゃない。
ヒロシは歯を食いしばり、路地を駆け抜ける。
後ろを振り返る余裕はない。振り返った瞬間、終わる。
「……っ!」
行き止まり。
壁だ。詰んだ――そう思った瞬間。
「右!」
モルディオの叫び。
壁際に、半壊した建物への裂け目があった。
ヒロシは身体を滑り込ませるように飛び込む。
直後、背後の壁が“消えた”。
粉砕。音すら置き去りにする破壊。
瓦礫の雨の中、ヒロシは床を転がり、辛うじて起き上がる。
視界の先。
崩れた壁の向こうに、アウトライアーが立っていた。
距離は、近い。
逃げ場は――ほぼ、ない。
(……ダメか)
そんな言葉が、脳裏をよぎった、その時。
――風。
横殴りの衝撃が、アウトライアーを叩き飛ばした。
壁を突き破り、地面を抉りながら、そいつは数十メートル先まで吹き飛ぶ。
「……は?」
ヒロシが呆然とする。
次の瞬間、聞き覚えのある――いや、忘れようがない声が響いた。
「なにこれ。町、壊れてる」
瓦礫の山の上。
大きなハンマーを肩に担ぐ、少女が立っていた。
「……バーバラ?」
見間違いではない。
あの、腹を空かせた少女だ。
バーバラはヒロシを見下ろし、ぱちりと目を瞬かせた。
「あ、ヒロシ。おはよ」
「おはよ、じゃない!!」
思わず叫ぶ。
「なんでここに――!」
「ご飯、食べに来た」
即答だった。
状況を一切理解していないようで、しかし――。
バーバラは、吹き飛ばした方向へ視線を戻す。ゆっくりと、楽しそうに口角を上げた。
「……さっきの、あれ。殴っていいやつ?」
ヒロシの背筋に、別種の寒気が走った。
アウトライアー。町を蹂躙する異常者。
そして。
(……こいつも、相当おかしい)
だが今は。
これ以上ないほど、心強かった。




