13話
踵を返し、来た道を戻り始めてから、しばらくは順調だった。
壁の傷。瓦礫の配置。
意識的に覚えてきた目印を辿り、慎重に歩を進める。
(……大丈夫だ。まだ、わかる)
だが――
数分後。
ヒロシは、足を止めた。
「……?」
見覚えのあるはずの分岐点。
だが、そこにあるはずの岩の突起がない。
代わりに、壁が不自然に滑らかだ。
削れたような、溶けたような――そんな痕。
(……こんなの、あったか?)
一歩、近づく。
石壁に手を触れた瞬間、背筋に嫌な感覚が走った。
(……違う)
戻ってきたはずの道が、微妙に“違う”。
天井の高さ。
通路の幅。
空気の流れ。
どれもが、記憶と噛み合わない。
「……まさか」
ヒロシは、ゆっくりと周囲を見回した。
分岐が、一つ増えている。
さっき通ったはずの一本道が、緩やかなカーブを描いて奥へと続いている。
しかし、その先は闇に溶け、見通せない。
(……ダンジョンの、変質か)
1層では、地形が変わるような変質は滅多にないと聞いた。
だが、ゼロではない。
しかし、よりによって今、奥部にいるこのタイミングで起きるとは予想だにしていなかった
「……くそ」
舌打ちを堪え、ヒロシは呼吸を整えた。
(慌てるな。出口は、必ずどこかに――)
そのとき。
――キン。
金属が、石に触れる乾いた音。
「……っ!」
反射的に槍を構える。
音の方向。
新しく伸びた通路の奥。
そこから、三つの影が現れた。
ゴブリン。
三体。
丸盾と剣を持つ個体が、中央。
その後方、少し離れた位置に弓持ち。
そして、側面から圧をかけるように、槍持ちが回り込んでくる。
(……嘘だろ、最悪だ)
三体。
しかも近距離、中距離、遠距離。
役割分担が、はっきりしている。
(逃げ道は……)
背後を振り返る。
だが、来たはずの通路は、崩れた瓦礫で半ば塞がれていた。
完全に戻れないわけではない。
だが、この三体を目の前に戦闘中に抜けるのは極めて困難だ。
(……やるしか、ないか)
盾持ちが、一歩前に出る。
剣を盾の縁に打ち付け、甲高い音を鳴らした。
――挑発。
次の瞬間。
弓が引き絞られる。
「……っ!」
ヒロシは、即座に横へ跳んだ。
矢が、さっきまで頭があった位置を掠め、壁に突き刺さる。
(速い……!)
弓持ちは奥部でも遭遇するのは稀だと聞く。
ヒロシは今始めて目にしたが、分かることが1つ。
槍持ちや短剣持ちの個体より、明らかに練度が高い。
矢速はギリギリ見切れる程度であるが、狙いが的確である。
盾持ちが踏み込んでくる。
盾を前に突き出し、距離を詰める。
ヒロシは、突かない。
盾は正面からでは割れない。
下手に攻めれば、剣の反撃をもらう。
――来る。
槍持ちが、側面から距離を詰める気配。
ヒロシは、半歩後退しつつ、穂先を低く構えた。
盾持ちが、剣を振る。
ヒロシは、盾を叩かず、剣の軌道だけを弾く。
火花。
手応え。
だが――
その瞬間、横から突き。
「――っ!」
ヒロシは、身体を捻って回避。
槍先が、防具の上を滑る。
直後。
風切り音。
――矢。
避けきれない。
ヒロシは、とっさに槍を立てた。
――カンッ!
矢が柄に当たり、弾かれる。
(……危ねぇ)
一瞬でも判断が遅れていたら、喉を射抜かれていた。
息が荒くなる。
三体同時。
休む暇がない。
盾持ちが、再び前進。
今度は、盾で押し込んでくる。
(……押される)
体重差。
踏ん張る足元も悪い。
ヒロシは、後退を余儀なくされる。
――そのとき。
足元の瓦礫が、崩れた。
「……っ!」
一瞬、体勢が浮く。
そこへ、槍持ちが踏み込んできた。
直線的な、鋭い突き。
(……間に合わない)
ヒロシは、無理やり槍を横に払った。
完全ではない。
穂先が逸れきらず、脇腹を掠める。
衝撃。
痛み。
「……っ、く……!」
防具がなければ、深手だった。
だが――
その反動で、槍持ちの体勢が崩れた。
(……今だ)
ヒロシは、歯を食いしばり、踏み込む。
盾持ちではない。
後方のいる厄介な弓持ち。
距離を一気に詰める。
床を蹴った瞬間、肺が悲鳴を上げた。
だが、止まれない。
弓持ちのゴブリンが、目を見開く。
矢を番えようとするが、距離が近すぎる。
「――させるか!」
ヒロシは低く身を沈め、突きではなく踏み込み斬りの軌道で穂先を振った。
切っ先が弓の腕を裂き、木製の弓が音を立てて弾き飛ぶ。
「ギィッ――!」
短い悲鳴。
だが、仕留めきれていない。
次の瞬間、背後から凄まじい衝撃が来た。
「――っ!!」
盾持ちの突進。
盾が背中に叩きつけられ、ヒロシの身体が前へと吹き飛ぶ。
壁に肩を強打し、視界が白く弾けた。
(……くそっ……!)
そのまま床に転がる。
反射的に槍を引き寄せ、転がりながら立ち上がろうとした瞬間――
突き。
槍持ちのゴブリンが、容赦なく間合いに踏み込んできていた。
「――っ!」
間一髪、槍で受ける。
――ガンッ!!
鉄同士が噛み合い、腕に強烈な衝撃が走る。
握力が抜けそうになる。
(押される……!)
盾持ちが、再び距離を詰めてくるのが見えた。
三方向からの圧。
完全に囲まれている。
ヒロシは、歯を食いしばった。
(考えろ……! このままじゃ、殺される……!)
新しい槍は、折れない。
だが、自分の身体は折れる。
なら――
(削るしかない)
ヒロシは、わざと力を抜いた。
槍持ちの突きを、完全には受けず、滑らせる。
柄を軸にして回転し、相手の懐へ半歩踏み込む。
穂先ではない。
石突き。
柄の末端を、ゴブリンの顎へ叩き込んだ。
「――ッ!」
鈍い音。
完全ではないが、確実に効いた。
その隙に、距離を切る。
――だが。
弓持ちが、歯を剥き出しにして短剣を抜いていた。
(……まだ動くのか)
左腕は裂け、血を流している。
それでも、殺意は消えていない。
盾持ちが、剣を振り上げる。
ヒロシは、もう後ろへ下がれなかった。
壁がある。
(……ここだ)
ヒロシは、壁を背にする覚悟を決めた。
剣が振り下ろされる。
真正面から受けず、盾の縁に穂先を引っ掛ける。
――ギィン!
滑る。
盾の角度が僅かにズレる。
その瞬間、ヒロシは身体を捻り、盾の内側へ潜り込んだ。
「――っ!?」
盾持ちの視界が塞がる。
至近距離。
突きは打てない。
ヒロシは、柄で相手の脇腹を抉るように打ち付けた。
鈍い手応え。
骨に当たった感触。
盾持ちが呻き、体勢を崩す。
だが――
その背後から、槍。
「――っ!!」
ヒロシは反射的に身を捩じる。
穂先が背中の防具を裂き、皮膚を掠めた。
焼けるような痛み。
(……まだ、だ)
ヒロシは、よろめきながらも前へ踏み出す。
目標は一つ。
数を減らす。
弓持ち――いや、短剣持ちとなったゴブリンが、突っ込んでくる。
ヒロシは、敢えて迎え撃つ。
相手の短剣が、腹を狙う。
防具越しに衝撃。
息が詰まる。
だが、その瞬間。
ヒロシの穂先が、喉元に吸い込まれるように突き刺さった。
「……ギ……」
声にならない音。
ゴブリンの身体が、崩れ落ちる。
一体、脱落。
だが、喜ぶ暇はない。
背後で、二つの殺気が膨れ上がる。
盾持ちと、槍持ち。
二体同時に来る。
(……きついな)
腕が重い。
呼吸が浅い。
それでも。
ヒロシは、槍を構え直した。
新しい槍は、血と汚れにまみれている。
だが、刃こぼれ一つない。
(……信じろ)
槍持ちが、先に踏み込む。
直線的な突き。
ヒロシは、半歩横へ。
穂先を絡め、相手の槍を外へ弾く。
同時に、盾持ちが剣を振る。
避けきれない。
ヒロシは、肩で受けた。
「――っ!」
防具が悲鳴を上げる。
だが、刃は深く入らない。
その代わり――
盾持ちの動きが、一瞬止まった。
(……今)
ヒロシは、全身の力を一点に集めた。
渾身の突き。
狙いは、盾の隙間。
喉ではない。
心臓。
穂先が、盾の内側を抜け、肉を貫く。
確かな、終わりの感触。
盾持ちが崩れ落ちる。
残るは――槍持ち、一体。
互いに、距離を取る。
荒い息。
血の匂い。
ゴブリンが、吠えた。
そして、突っ込んでくる。
最後の勝負。
ヒロシは、逃げなかった。
真正面から、迎え撃つ。
――ガンッ!
穂先がぶつかる。
腕が痺れる。
だが、ヒロシは踏み込んだ。
半歩。
さらに半歩。
相手の懐へ。
柄を滑らせ、内側から突き上げる。
顎を貫き、脳へ。
ゴブリンの身体が、力を失って崩れ落ちる。
――終わった。
三体の魔物が、次々と光へと変わっていく。
ヒロシは、その場に崩れ落ちた。
「……はぁ……はぁ……」
全身が、痛い。
だが、動いている。
(……生きてる)
それだけで、十分だった。
迷い、追い詰められ、死線を越えた。
ヒロシは、血と埃にまみれた槍を握り締め、震える息の中で静かに目を閉じた。
――まだ、帰らなければならない。
だが今は。
ただ、生き延びた事実だけを、噛みしめていた。




