9話
――風を切る音が、耳元を掠める。
「っ……!」
反射的に身体を捻る。
直後、さっきまで頭があった位置を、錆びた穂先が通り過ぎた。
ギィ、という耳障りな鳴き声。
目の前にいるのは、二足歩行の小柄な魔物。
灰色の皮膚に、歪んだ顔。
手には、短いが鋭い槍を握っている。
ゴブリン。物語では最序盤に出てくる雑魚モンスターの代表格。
このダンジョンでもその位置付けは弱者であるが、しかし、そんなモンスターでもヒロシにとっては油断出来る相手ではなかった。
(……槍使い、か)
ヒロシは距離を取ろうとして、そこで一瞬、戸惑った。
(……速い?)
違う。
自分の動きが――昨日より、確実に軽い。
足が、思ったより前に出る。
後ろへ跳んだはずなのに、距離が大きい。
魔物が再び踏み込んでくる。
突き。直線的だが、迷いがない。
ヒロシは、考えるより先に身体が動いていた。
槍を横に払う。
金属と骨がぶつかり、鈍い衝撃が腕に伝わる。
「……っ」
だが、弾かれない。
踏みとどまれている。
(昨日なら、これ……腕ごと持っていかれてたな)
ゴブリンが体勢を崩す。
その一瞬を、ヒロシは逃さなかった。
一歩、踏み込む。
自分でも驚くほど、迷いのない動きだった。
腰を落とし、槍を突き出す。
手応え。
確かな抵抗と、次の瞬間に訪れる、力の抜けた感触。
ゴブリンは短い悲鳴を上げ、崩れ落ちた。
槍が床に転がり、乾いた音を立てる。
ヒロシはすぐに距離を取り、槍を構えたまま動かなくなる。
数秒。
――動かない。
「……はぁ……」
ようやく息を吐いた。
心臓は早鐘を打っている。
だが、昨日ほどではない。
腕を見る。
震えてはいるが、制御できないほどではなかった。
(……倒せた)
しかも、思っていたより――楽に。
床に落ちた魔物の身体が、淡く光り始める。
やがて、結晶へと変わっていく。
「……また、だ」
ヒロシは小さく呟いた。
いつぞやも感じた、あの感覚。
戦った後、身体の奥が、じんわりと温かくなるような感触。
筋肉が、少しだけ応える。
呼吸が、早く整う。
(これが……成長、なのか?)
急激ではない。
目に見えて強くなったわけでもない。
それでも確かに、昨日の自分とは違う。
ヒロシは槍を握り直し、周囲を警戒しながら結晶を回収した。
「……油断は、まだ早いな」
そう言い聞かせるように呟き、再びダンジョンの奥へと視線を向ける。
闇は、今日も変わらずそこにある。
だが――挑む側は、少しずつ変わり始めていた。
初の本格的な探索から5日ほど経った。
ヒロシは片時も休むことなくダンジョンに挑み、モンスターを倒し続け、遂に1層の浅域を抜け、中域にまでたどり着いた。
1層でも中域からは三脚獣の他にゴブリンが出るようになる。
基本は単独、たまに2体同時に出没するらしいが、その戦闘力は三脚獣と変わらないという。ただし、それは素手の場合だ。
(まさか槍持ちが出るなんてね。事前情報と違うんだけど)
ギルドで聞いた話だと、武器持ちのゴブリンは1層でも奥部から出現するという。
聞いていた情報と違っていた。
(多分、ダンジョン調査依頼ってこういう変化を確認する為のものなんだろうな)
モルディオ曰く、ダンジョンは日々、変質している。
それまで、同じモンスターしか出なかった場所に急に違うモンスターが出現し始めたり、或いは同じモンスターでもより強い個体が増え出したり、通路の地形が変わったり、環境が変化したり。
いつ何時でも、ダンジョンは唐突に姿を変えるのだという。
上の階層ほど難易度が高まるという原理は不変なれど、地道にダンジョンに挑み続ける者にとっては、ほんの僅かな変化でも致命になり得る。
故に、ギルドでは変化による被害を最小限にする為、常に最新の情報を求め、挑戦者に対し調査依頼を貼り出しているのである。
これらの依頼は報酬こそ安いものの、新人たちにとっての飯の種になっていた。
ヒロシもまた、ギルドからの調査依頼でダンジョンに潜っていた。
依頼内容は単純だ。
――1層中域における出現モンスターの種類、数、行動傾向の確認。
あくまで“可能な範囲で”という但し書き付きだ。
(無理はするな、ってことだよな)
ヒロシは通路の壁に背を寄せ、足を止めた。
中域に入ってから、空気が明らかに違う。浅域よりも湿り気が強く、石の匂いに混じって、生臭さが鼻につく。
視界も悪い。
通路は曲がりくねり、天井も低くなってきている。
音が反響しやすく、自分の足音すら判断を鈍らせる。
五日前の自分なら、ここには立っていれなかった筈だ。
(……落ち着け)
呼吸を整える。
自然と、腹の奥に力が入る感覚があった。
以前より、立ち方が安定している。
槍を構えた時の重心が、ぶれにくい。
意識しなくても、身体が“戦う姿勢”を取ってくれる。
その時だった。
――カリッ。
何かを踏み砕くような、乾いた音。
ヒロシは即座に足を止め、槍を構える。
今度は、躊躇がなかった。
音は、正面ではない。
右手の壁の向こう――小さな脇道。
(……来る)
確信に近い予感。
直後、影が飛び出した。
低い位置からの突進。
灰色の肌。
短槍。
「槍持ち……しかも二体か!」
やはり槍持ちが出現し始めたのは偶然ではなかったか。
それを考える暇はない。
ヒロシは一歩、横にずれる。
突きは、紙一重で外れた。
ゴブリンは勢い余って前に出る。
その背後から、もう一体。
(挟む気か……!)
昨日までなら、完全に対応できなかった配置。
だが、今のヒロシは――踏み込んだ。
前の個体へ、あえて接近する。
槍を短く持ち替え、柄で殴りつける。
顎に入った。
悲鳴。
体勢が崩れる。
その隙に、後方の個体へ視線を走らせる。
距離は、三歩分。
(……間に合う)
身体が、そう判断していた。
一歩。
二歩。
踏み込みながら、槍を突く。
今度は、避けられた。
だが想定内だ。
槍を引き戻すと同時に、足を軸に回転。
横薙ぎ。
浅い。
だが、腕を裂いた。
ゴブリンが怯む。
ヒロシは、追撃を選ばなかった。
無理に倒しに行かず、距離を取る。
(……欲張るな)
それを覚えたのも、この五日間だ。
先に体勢を崩している一体目へ、再び意識を戻す。
立ち上がりかけた瞬間を狙い、喉元へ突き。
沈む。
残る一体は、数歩後退した。
歯を剥き、短く唸る。
逃げるか、来るか。
数秒の睨み合い。
――やがて、ゴブリンは踵を返した。
「……逃げた、か」
追わない。
それもまた、判断だ。
ヒロシは、その場でしばらく動かなかった。
耳を澄ませ、気配を探る。
いない。
床に残った魔物の死骸が、淡く光り始める。
結晶が、一つ。
ヒロシはそれを拾い上げ、ポーチに入れた。
胸の奥が、また温かくなる。
だが、以前ほど強くはない。
(……成長にも、段階があるってことか)
無限に強くなるわけではない。
少しずつ、積み重ねるもの。
ヒロシは、壁に背を預けて腰を下ろした。
汗を拭い、呼吸を整える。
中域。
ここから先は、明らかに“楽な狩場”ではない。
(でも……来られた)
事実として、ここに立っている。
ヒロシは立ち上がり、通路の先を見据えた。
調査は、まだ終わっていない。
だが――今日は、ここまで。
無事に帰って、情報を持ち帰る。
それもまた、挑戦者の役目だ。
槍を握り直し、来た道へと向き直る。
闇は、相変わらず静かだった。
だが、その静けさの意味を――ヒロシは、少しだけ理解し始めていた。




