第二章 泥の世界
第二章
王都グラントヴィアへの道程は、誠一の予想を遥かに上回る過酷さだった。
商人の馬車に同乗させてもらったが、その馬車は一日に三度も修理が必要になった。車輪が外れ、車軸が歪み、荷物を積んだ荷台の底板が割れた。すべての原因は道路状態の悪さだ。
「また止まったか」
商人のハンスは疲れた顔で馬車を降りた。五十がらみの恰幅の良い男だが、この数日で目に見えてやつれていた。
「車輪のスポークが折れた。予備はもうない」
「近くの村で修理できるか」
「ああ、二リーグ先に鍛冶屋がいるはずだ。歩くしかあるまい」
馬車を路肩に寄せ、一行は歩き始めた。誠一は歩きながら、周囲の地形を観察していた。
土石鑑定の能力が、次々と情報を表示する。
【路肩土壌:礫質土 排水性:良好 支持力:中程度】
【道路中央:粘土質土壌 排水性:不良 支持力:低下中】
見れば分かることだが、数値化されると問題の深刻さが明確になる。道路の中央は馬車の重量で圧密され、くぼんでいる。そこに雨水が溜まり、粘土質の土壌が水を吸って膨張している。車輪がそこを通れば、泥に沈み込む。沈み込んだ状態で無理に引けば、車輪に過大な負荷がかかる。
悪循環だ。
「この道は、どれくらい前からあるんだ」
歩きながらハンスに問いかけた。
「王都街道か? さあ、百年以上は経っているだろうな。建国の頃からあるという話だ」
「百年間、何もしていないのか。補修は」
「補修? 何を補修する必要がある。道は道だ。壊れるものではあるまい」
誠一は頭を抱えた。
道路は——壊れるのだ。常に。毎日少しずつ。車輪が通るたびに、雨が降るたびに、凍結と融解を繰り返すたびに。だからこそ維持管理が必要であり、定期的な補修が必要なのだ。
しかしこの世界の人々は、道路が「壊れる」という概念すら持っていないらしい。
「……舗装という言葉を聞いたことはあるか」
「ホソウ? 何だ、それは」
「道路の表面を、石や特殊な材料で覆って固めることだ。そうすれば泥濘みも轍もできない」
ハンスは怪訝な顔をした。
「馬鹿なことを。道に石を敷くだと? そんな莫大な金をかけて何になる」
「移動時間が短縮される。馬車が壊れない。物資が安全に届く」
「そんな夢物語を」
一笑に付されて、会話は途切れた。
誠一は黙って歩き続けた。この世界の人々を責めることはできない。舗装技術がなければ、道路とはこういうものだと思い込むのは自然なことだ。逆に言えば——技術さえ示せば、理解してもらえる可能性がある。
問題は、どうやって示すかだ。
この世界にはアスファルトがない。アスファルトプラントもない。フィニッシャーもローラーもない。すべてを一から作らなければならない。
しかし——魔法がある。
ゴーレムという存在がいるらしい。魔法で動く人形だという。それが重機の代わりになるかもしれない。水魔法使いがいれば、散水ができる。火魔法使いがいれば、加熱ができる。
可能性は——ある。
数日後、ついに王都グラントヴィアが見えてきた。
丘の上から見下ろすと、石造りの城壁に囲まれた大きな街が広がっていた。中央には白い城が聳え立ち、周囲には無数の建物がひしめいている。人口は数万人といったところだろうか。中世ヨーロッパの都市を思わせる光景だ。
しかし——誠一の目は、城でも城壁でもなく、街の中の道路に釘付けになっていた。
「……嘘だろ」
思わず声が出た。
城壁の内側、王都の中心部——そこですら、道路は舗装されていなかった。土のままだ。轍が刻まれ、水たまりができ、馬糞と泥が混じり合っている。
「王都だぞ。王城があるんだぞ。それなのに——」
「どうした、セイイチ」
ハンスが不思議そうに振り返る。
「いや……何でもない」
城門をくぐり、王都の中に入った。
街は活気に満ちていた。商人たちが声を張り上げ、職人たちが槌を振るい、子供たちが走り回っている。しかし誠一の目には、そのすべてが——泥まみれに見えた。
実際、泥まみれだった。
道路は雨上がりのぬかるみ状態で、人々は膝まで泥に沈みながら歩いている。荷車の車輪は何度も泥に嵌まり、その都度、複数人で押して脱出させている。馬は蹄を泥に取られ、苦しそうに嘶いている。
「雨季はいつもこうなんだ」
ハンスがため息をついた。
「乾季になれば多少はマシになるが、今は最悪の時期だな」
「これが——王都か」
誠一は呆然と呟いた。
この世界の文明は、決して低くない。建築技術は発達しており、石造りの建物が並んでいる。衣服も多彩で、染色技術も進んでいるようだ。商業は活発で、市場には様々な商品が並んでいる。
しかし——道路だけが、異常に遅れている。
なぜだ。
建築に石を使う技術があるなら、道路にも石を敷くことができるはずだ。ローマ帝国がやったように。それなのに、なぜこの世界では道路整備が行われていないのか。
「宿を探さないとな」
ハンスが言った。
「馬車はここで別れだ。商売道具の修理をしなければならん」
「ああ、ありがとう。世話になった」
銅貨五枚を渡して礼を言い、誠一はハンスと別れた。
まずは宿を確保しよう。それから、この世界の道路事情についてもっと詳しく調べる必要がある。
『踊る牛亭』という名の宿屋の一室で、誠一は天井を見つめていた。
安い部屋だが、藁のベッドと窓がある。それだけで十分だ。懐には、ヨルクから餞別としてもらった銅貨が数枚ある。長くは持たないが、当面の生活には困らないだろう。
「さて……」
これからどうするか。
まず現状を整理しよう。
自分は異世界に転生した。体は若返り、おそらく二十代前半くらいの肉体を手に入れている。特殊能力として、温度感知と土石鑑定がある。どちらも舗装工事に極めて有用な能力だ。
この世界には魔法が存在する。しかし、道路舗装の技術は存在しない。王都ですら土の道路であり、雨季には膝まで泥に沈む状態だ。
物流は極めて非効率的で、百キロ程度の距離を荷車で十日もかけて移動している。馬車の破損率は高く、修理のための停止が頻繁に発生する。
そして——北方では魔王軍との戦争が続いている。百年間も決着がつかないのは、おそらく補給の問題だろう。道路が悪ければ補給路が機能しない。補給がなければ軍は戦えない。
「道路が——この世界のボトルネックか」
声に出して整理する。
もし自分がこの世界で道路を舗装できれば——何かが変わるかもしれない。物流が改善し、経済が発展し、戦争にも影響を与えるかもしれない。
大きな話だ。一介の転生者にできることではないかもしれない。
しかし——試す価値はある。
問題は、何から始めるかだ。
まずは技術的な課題を洗い出そう。
一、結合材。アスファルトがないなら、代替品を探す必要がある。土石鑑定の能力があれば、この世界の材料の中からアスファルトに似た性質を持つものを見つけられるかもしれない。
二、施工機械。フィニッシャーやローラーがないなら、魔法で代替する。ゴーレムを使えば重機の代わりになるかもしれない。水魔法や火魔法も活用できるはずだ。
三、人員。舗装工事はチームワークが命だ。一人では何もできない。技術を理解し、協力してくれる仲間を見つける必要がある。
四、資金と権限。道路を作るには土地の使用許可が必要だ。公共事業として行うなら、役所——この世界では王家か——の協力が必要になる。
課題は山積みだが、絶望するほどではない。
「……まずは材料探しだな」
翌朝、誠一は王都の市場を歩き始めた。
土石鑑定の能力を使いながら、目に入るものすべてを観察する。石材店では様々な石が売られていた。建築用の切り石、装飾用の宝石、魔法の触媒となる魔石——
【魔石残滓:純度低下により使用不可 成分:珪素42%、結合Lite28%、魔力残留15%、その他15% 粘性:高い 加熱時軟化点:約160℃】
誠一は足を止めた。
「この——黒い石は何だ」
店主に問いかける。店先の隅に、黒っぽい塊が無造作に積まれていた。
「ああ、それか。魔石の残滓だよ。魔力を使い果たした魔石のカスだな。何の価値もない。欲しければ持っていってくれ、処分に困っているんだ」
誠一は残滓を手に取った。黒くて艶やかで、妙にべたつく。
そして——土石鑑定の表示を再度確認する。
【加熱時軟化点:約160℃】
アスファルトと同じだ。
「これ——全部もらっていいか」
「ああ、構わないが……何に使うんだ?」
誠一は答えなかった。ただ、口元に笑みが浮かんでいた。
結合材——見つかった。
魔石の残滓を大量に入手した誠一は、次なる課題に取り組んだ。施工技術だ。
残滓を加熱して軟化させ、骨材と混ぜて敷き均し、転圧して固める。原理は日本のアスファルト舗装と同じだ。しかし、それを実現するには機械——あるいはそれに代わるもの——が必要だ。
宿屋の主人に、魔法使いやゴーレム職人について尋ねてみた。
「ゴーレム職人か。ドワーフに多いな。この街にもいるはずだが——高いぞ。城の修繕工事とかに駆り出される連中だからな」
「金はある」
嘘だ。金はない。しかし、まず話を聞くことが大事だ。
「そうか。なら、職人街の『グラムの工房』に行ってみろ。偏屈なドワーフだが、腕は確かだ」
翌日、誠一は職人街を訪れた。
鍛冶屋の槌の音、木工所の鋸の音、織機の軋む音——様々な音が入り混じる活気のある通りだ。その一角に、『グラムの工房』と書かれた看板を掲げた店があった。
入り口は狭い。人間には窮屈だが、ドワーフには丁度いいのだろう。
「失礼する」
声をかけて中に入ると、薄暗い工房の中で何かが動いた。
「誰だ」
低い声。振り向いたのは、身長百三十センチほどの小柄な人物だった。筋骨隆々とした体躯に、灰色の長い髭。血走った目が、警戒心を剥き出しにして誠一を睨んでいる。
ドワーフ——というやつか。
「俺は誠一。ゴーレムについて話を聞きたい」
「話を聞きたい、だと? 金もないくせに何しに来た」
土石鑑定が発動する。どうやら人物にも使えるらしい。
【グラム・アイゼンハルト ドワーフ 年齢:142歳 職業:ゴーレム職人 気質:頑固、職人気質、人間不信】
人間不信——か。何かあったのだろう。
「金は後で用意する。まずは可能かどうか確認したい」
「ふん。何を作れと言うんだ」
誠一は、あらかじめ紙に描いておいた図面を取り出した。
「これだ」
グラムは図面を受け取り、眉をひそめた。
「……何だ、これは。見たことがない」
「アスファルトフィニッシャー——いや、この世界には存在しない機械だ。簡単に言えば、熱い材料を均一に敷き均す装置だ」
「材料を敷き均す? 何のために」
「道路を作る」
グラムの眉が、さらに寄った。
「道路? 道路など、そこらにあるではないか」
「違う。本当の道路だ。雨が降っても泥にならない。轍ができない。馬車が壊れない。そういう道路を作る」
沈黙が流れた。
グラムは図面を睨み、何度も首を傾げた。やがて、ふんと鼻を鳴らした。
「くだらん。そんなものは存在しない。帰れ」
「待て」
誠一は一歩踏み込んだ。
「実物を見せる。それで判断してくれ」
「実物だと?」
「ああ。俺がこれから作る。見ていてくれ」
グラムは呆れた顔をした。しかし、好奇心も滲んでいる。
「……どこで作るというのだ」
「場所を借りる。小さな広場でいい」
「金はあるのか」
「ない。だから——協力者を探す」
誠一は工房を出て、次の目的地へ向かった。
協力者。この世界で、自分の技術を理解し、助けてくれる人間を見つけなければならない。
それは——どこにいるのか。
王都の図書館——というほど立派なものではないが、書物を閲覧できる施設があった。貴族や学者が利用する場所らしく、誠一のような身なりでは門前払いを食らいかけたが、「土木魔法の研究について調べたい」と言うと、渋々入れてもらえた。
土木魔法。
宿屋の主人から聞いた言葉だ。この世界には、魔法を使って建築や土木工事を行う技術が存在するらしい。しかし、道路に応用された例はないという。なぜだ。
古い書物を漁りながら、誠一は情報を集めた。
土木魔法は、主に城壁や城の建設に用いられる。土魔法使いが地盤を固め、石魔法使いが岩を切り出し、水魔法使いが養生を行う。しかし、これらの技術は軍事目的に特化しており、道路への応用は考えられたことがないようだ。
「なるほど……」
この世界では、道路は「軍事的重要性が低い」と見なされているのかもしれない。防御施設である城壁や城には魔法を使うが、攻撃的な移動手段である道路には投資しない——そういう発想なのかもしれない。
しかし、それは間違いだ。
兵站こそが戦争の要。道路が良ければ補給が届く。補給が届けば兵士が戦える。逆に言えば、道路が悪ければ——
「あの……」
背後から声がかけられた。
振り向くと、若い女性が立っていた。二十歳前後だろうか。栗色の髪を後ろでまとめ、質素だが品のあるドレスを着ている。そして——その瞳には、知性の光が宿っていた。
「土木魔法について調べていらっしゃるのですか?」
「ああ。何か知っているのか」
女性は微笑んだ。
「私、リーナ・フォン・シュタインベルクと申します。かつて土木魔法を研究しておりました」
土石鑑定が発動する。
【リーナ・フォン・シュタインベルク 人間 年齢:21歳 職業:没落貴族令嬢・元魔法研究者 魔力:土属性(高) 気質:知的好奇心旺盛、社会不適合】
社会不適合——とは。
「研究していた、ということは今は違うのか」
「ええ。私の研究は——理解されませんでしたので」
リーナは苦笑した。
「土木魔法で道路を改良するという発想自体が、馬鹿げていると言われました。道路に投資するなら城壁に投資すべきだと。結局、研究資金は打ち切られ、家も没落しました」
「道路の改良を——研究していたのか」
誠一は身を乗り出した。
「はい。道に石畳を敷くだけでも、移動効率は劇的に向上します。しかし、誰も理解してくれませんでした。道路に金をかけるなど無駄だと——」
「馬鹿な連中だ」
思わず声が大きくなった。
「道路こそがすべてのインフラの基盤だ。道路が良ければ物資が届く。物資が届けば経済が回る。経済が回れば国が豊かになる。城壁なんかより遥かに重要だ」
リーナの目が、大きく見開かれた。
「あなたは——誰ですか」
誠一は立ち上がった。
「黒田誠一。遠い国から来た道路技術者だ」
「道路技術者……」
「舗装工事のプロだ。二十五年——いや、この体では違うか。とにかく、道路を作ることにかけては、この世界の誰よりも詳しい自信がある」
リーナは、信じられないものを見るような目で誠一を見つめた。
「本当——ですか?」
「ああ。俺はこの世界に、舗装道路を作りたいと思っている。雨が降っても泥にならない、轍ができない、馬車が壊れない——本当の道路を」
沈黙が流れた。
やがて、リーナの目に涙が浮かんだ。
「……ずっと、待っていました」
「何を?」
「私の研究を、理解してくれる人を」
誠一は手を差し出した。
「協力してくれるか」
リーナは、その手を握った。
「はい。喜んで」




