荒れた海にいるモノは
あれは数年前、大学最後の夏休みの出来事だった。俺は仲の良かった友人二人と、海に行く計画を立てていた。しかし生憎台風が接近しており、予定は延期にすることにした。
その日は丸々空いてしまったので、友人宅に集まって日がな一日テレビゲームに興じていた。
ところがその日の夜、友人の一人が突然「海に行ってみよう」と言い出したのである。台風が近づいている海を見てみたいというのだ。勿論、こんな状況で海へ行くのは危険だと解ってはいた。しかし、その時は妙なノリと勢いで全員が賛成してしまった。
海へは車で向かい、三人でまだ雨の降り出していない砂浜を歩いてみた。夜の海は飲み込まれそうなほどに真っ暗だ。スマホで辺りを照らしてみるが、正直何一つよく見えなかった。
荒れた波の音は想像以上に大きく、風の音と相俟って、それ以外に聞こえるものはほぼない。世界に取り残されたような淋しさと恐怖の感覚を、今もしっかり覚えている。
その内雨が降り出した為、急いで車内に戻る。ドアを閉めた途端、待っていたかのように雨音が一気に大きくなった。
もう帰ろうかと話していると、雨音に紛れて何かが聞こえた気がした。耳を澄ましてみるが、雨の音が五月蠅くてよく判らない。
その直後――
バンバンバン!
車の外から叩くような衝撃が響いた。車体が僅かに揺れるほど強く叩かれ、窓からスマホの灯りを照らしてみるが、何もいない。風も強まってはいるが、どう考えても原因はそれだとは思えない。人間が拳で思い切り叩いているような音と衝撃だ。
そして次第に、先ほどの音がはっきりと聞こえるようになってきた。
『……レテ――入レテ』
女性の声のようだがとても低く、喉が絞まるような苦しげな声音だ。
『入レテ入レテ入レテ入レテ入レテ入れテ入レテ入レテ入レて入レテ入レテ入レテ――』
何処で息継ぎをしているのか、降り頻る雨のように只管同じ言葉が繰り返される。
「――――っ」
運転席にいた友人が耐え切れずにエンジンをかけようとした。しかし、思うようにかからない。
「早く出せよ!」
「何やってんだよ!」
「エンジンかかんねえんだよ!」
その言下、ようやく車体が唸りを上げた。ヘッドライトが照らした前方を見ると、そこにはワンピースを着た一人の女性が立っていた。
雨の中、傘もささずに濡れそぼった黒髪は長く、そのせいで表情が見えない。だというのに、笑みを浮かべた口許だけは厭にはっきりと見えた。
ゆっくりと開いた口内は血のように真っ赤で、そこから呪いのように声が吐き出される。
『入レテ……!』
悲鳴を上げた友人は車を急発進させた。その後は家に帰り着くまで、誰も一言も喋らなかった。
それから一週間、俺達は原因不明の高熱に浮かされ続けた。
――あの体験は一体何だったのか。それは今でも判らない。