臭う水
「――床に水滴が浮き出ていたんです」
目の前に座る男性に女性が語り始めた――。
「最初は、ただ水が跳ねただけだと思ってたんです」
女性は、悲し気に俯き、その視線を落とした。
膝の上で拳を作っている彼女の手は、肘の辺りまで赤く染まり、かさつく皮膚はめくれて、白いささくれのようなものがいくつも浮いていた。
女性は、自身の手に視線を留めたまま言葉を続ける。
「台所と洗面台の床にぽつぽつと水滴が落ちていて、私、マットとか敷いていなくて、フローリングの床だったから、その水滴を見つける度に、足を滑らせないようにってこまめに拭いていたんですけど、
どんなに注意して食器を洗っても、手を洗っても……毎日、ぽつ、ぽつと床が濡れていて――毎回……拭いていたんですけど、その水滴……そのうち、ヌメヌメとしてくるようになって――」
女性は、握りしめていた手を緩めると人差し指と親指をこすり合わせ始めた。
何度も何度も擦り続けていた女性は、不意にその指先の匂いを嗅いだ。
女性の顔が歪む。鼻筋には深い皺が刻まれ、小鼻はぴくぴくと痙攣していた。
「このぬめり、そのうち黄ばんできて、色もどんどん濃くなって、白いタオルで拭いてみたら濃い黄色い染みが……洗っても全然とれなくて。
それで、これはもう水道の水が跳ねたんじゃないんって思うようになって、そうしたら、これ……どこから来たんだろうって気になってしまって。
天井を見ても染みとかないし、棚の中を見てもそんな液体、置いていないし――
気味悪いなって思って、気のせいだって思いたくて……ある夜に……床全体を拭いてみたんです。水がない事を確認して証拠として、床の写真を撮ったんです。
幻だって思いたくって、明日には写真のまま、乾いたままだって願いながら、布団に入って、でも……朝、目が覚めて、台所に行くと――あったんです、その水滴が。
ぽつぽつって、携帯で撮った画像を見てもその場所に水滴は無くて、夜のうちにどこからかその黄色い液体が、ぽつぽつってどこからか来るんです」
女性は、また、鼻をひくつかせた。何かを探すように床に視線を這わせながら、
「その液体……ぬめりだけじゃなく、そのうち臭うようになってきたんです。
すっぱい匂い。汗臭いみたいな……そんな匂いで、夏で蒸し暑くなってきたから今まで気がつかなかっただけかも知れないけど――でも、その臭いを嗅いだら……気持ち悪くて、いつまでの鼻の奥にこびりついていて、一日中、毎日、鼻からその臭いが取れなくて……大家さんに訴えたんですけど、害獣や害虫の駆除業者もみんな、呼んでもらって、徹底的に……でも、結局何も見つからなくって――私、臭いませんか?」
女性が男性に尋ねた。
ただひたすらに独り言ちるように喋り続けていた女性が、突然顔を上げて問いかける姿に、向かいに座って話を聞いていた男性は、驚きながら彼女と目を合わせた。
慌てた様子の男性が首を横に振って女性の言葉を否定すると、彼女は、ふっと笑みを浮かべた。
「友人には――この、臭う水、見えないみたいなんです」
女性は、また俯いてしかし笑みを貼り付けたまま、
「大家さんにも……見えない、誰にも。私……だけなんです」
女性は、また、顔を上げた。
「臭いって記憶に残るんです」
眉を顰める男性に、女性は続ける。
「あの臭い、以前、嗅いだことがあったんです。ずっと忘れてたんですけど、昔の臭いだったんです。
何度も何度も嗅がされていたら――そのおかげで……私、ようやく思い出すことができました。学生の頃に嗅いだ臭いを……」
泣きそうになりながら女性は、目の前の男性を見つめた。
黙って話を聞いていた男性のこめかみに、一筋の汗が流れ落ちた。
「――私、臭わないですよね? 私……気持ち悪くないですよね?」
黙って頷く男性に、薄く笑んだ女性は、
「そうですか。ありがとうございました。それを――それだけを確認したくて……便利屋さん、一時間の契約でしたよね。ちょっと早いけど、でももう大丈夫です」
――これ、お礼です。
女性はテーブルの上に茶封筒を置いて立ち上がった。
「あ、ありがとうございます。またのご利用を――お待ちしております」
男性の掠れた声を背に女性は、扉を開けて部屋を出て行った。
男性が、震えながら見つめる先のソファには、水だまりができていた。
白いソファを濡らす水だまりは、座面から流れ落ちることなくそこにのっぺりと溜まり、てらてらと蛍光灯の光を跳ね返していた。
その黄ばんだ水だまりに「うっ」と顔を歪めた男性は、両手で鼻を覆うと、茶封筒をそのままに、逃げるようにして部屋を後にした――。