雨は、好きですか?
湖を中心に、グルッと円を描くように小さな村があった。
そこは小さな限界集落で、多くの高齢者とわずかな若者が、畑を耕しながら湖の水や魚を頼りに自給自足の生活をしていた。
ひと月に一度やってくる商人から香辛料や衣類を買っていたが、その商人もここ数カ月、この村には立ち入れずにいた。
村の上空にだけ留まる重そうな厚い雨雲。ザーザーと音を立てて降り続ける雨の継続期間は異常で、すでに三か月も雨が降り続けていた。そのせいで商人は村に足を踏み入れることは出来ず、近隣の村もその不気味さに近づくことが出来なかった。
魔女のいたずらとでも呼ぶべきその噂は広まり、ついに王都から調査の命を受けて騎士団が調査に乗り出した。
大雨のぬかるみで馬の足は使えず、装備も軽装。最低限の剣と胸当てだけを装備している。雨合羽に革の長靴を着用した騎士団が件の村へ踏み入った。
「三か月も雨が続いているのは異常だが、村民は屍と化していたか」
人気のない村の調査を開始し、隊長と直属の部下一名は村の中で比較的綺麗な家屋の中で雨宿りをしていた。雨が降り続けたせいか屋台骨が腐って所々雨漏りしていて、規則的に水滴が床に叩きつけられていた。
家の中は他の家屋とそう変わらず、閉鎖的な村らしく金になりそうな物もなく、腐った食料が台所に残っている程度。そして、居間には若い夫婦が苦しそうな顔をした状態で横たわっていた。
「自殺か?」
「おそらくは。ですがどこか身体を切ったような外傷はなく、餓死したわけでもないようです」
「では毒薬ではないのか?」
「そこまでは分かりません。解剖してみなくてはなんとも」
「はぁ、だから雨は嫌いなんだ。気が滅入る」
じめじめとした雨の中、やることが死体の検証ということで溜息を漏らした隊長は、他の家屋でも同じなのかと外で待つ騎士に話を聞きに行った。
まだここへは着いたばかりで情報は集まっていないが、隣の家屋でも高齢男性が息を引き取っていたとのこと。外傷はなく、命を捧げての雨ごいでもしたんじゃないかと思い始めた隊長の元に新米の騎士が一人、慌てた様子で駆け寄って来た。
「た、隊長! 子どもがどこにもいません!」
「なに? たしかこの村には子どもは十人と少しはいたはずだろ? 一人もいないのか」
まだ入隊したばかりで死体を見慣れていないためか、呼吸を乱してコクコクと頷くばかりの新米騎士は、頬を伝う雨を舐めて気持ちを落ち着かせた。
「ふむ……、子どもは行方不明、大人は揃って不自然な死を遂げている。この村は何か風習があると聞いていたが、それと関係があるかもしれんな」
かなり閉鎖的な村だったらしく、近隣の村との交流はほぼなく、商人も滅多にやって来ない。年に一度、何かお祭りのようなことをやっているような気配がする、程度の情報しか近隣の村には伝わっていない。
「隊長、先ほど我々がお邪魔していた家屋からこんなものが」
騎士が比較的綺麗な家屋から持ってきたのは一冊の日記帳だった。表紙と裏表紙は厚紙で、内側の薄紙と共に刺繡糸で挟むように束ねた簡素な日記帳だった。
情報を集めるために一度家屋に戻って来た隊長は、壁際に置いてあったカビだらけの毛布を束ねて置き、その上にどっかりと座った。
「日記の持ち主は誰だ」
「この夫婦の娘と思われます。ザッと中身を読みましたが、この村の風習について疑問視していたようです。ですが少し不可解なことが――」
「貸せ、俺が読む」
「はっ!」
隊長に日記帳を渡した騎士はそのまま下がり、家屋の入り口付近で静かに待機した。
日記帳は女の子らしい丸文字で書かれていて、表紙には可愛らしい絵が描かれていた。日記帳は薄く、すぐに読み終わるだろうと表紙を撫でる。
「さてと――」
読み終わる頃にはまた新しいことが分かるだろうと部下を信頼し、隊長は一ページ目を開いた。
〇月△日
今年も紅葉を楽しむ季節がやってきた。年に一度のお祭り、この日は美味しいものがいっぱい食べられるから好き。この季節は私の好きな雨がいっぱい降るし、お祭りもあるから気分がいい。普段は着ないスカートでスキップなんかしちゃう。
だけど、湖に住む水神様のおかげで毎日を過ごせているのだから、そのお礼をしなくちゃいけないって、村長が言った。お礼って、何をするのかは誰も教えてくれなかった。
たぶん、パパとママは分かっている。お礼って何をするのか聞いたら、パパもママもすごくつらそうな顔で「うちは関係ないから」って、教えてくれなかった。
それと私が、雨が好きって言うと皆それはおかしいって笑うのはちょっと許せない。いつか雨の素晴らしさを教えてあげよう。
〇月□日
私の一つ年上でお隣さん。今年十歳になるお兄さんが、村の代表で水神様にお礼をするんだって!
それはとてもすごいことで、毎年十歳になる子どもの中から一人が選ばれるんだって。来年は私が十歳になるから、もしかしたら私が選ばれるかもしれない。美味しいものを食べさせてくれる水神様にお礼が出来るなんてとても素敵ね!
水神様は湖に住んでいるって教えられたけど、お役目に選ばれたら会えるのかな? そしたら美味しい料理いっぱい食べたいってお願いしちゃうかも。
〇月▽日
ここ最近、お兄さんの顔色が悪い。どうしたのって聞いても何も教えてくれない。
パパとママのお友達はみんな暗い顔をしているのに、村のおじいちゃんたちは生き生きとしてお祭りの準備をしている。今年も美味しいものが食べられるぞって、歯のないおじいちゃんがアメをくれた。アメは美味しいのがずっと続くから好き。でもその間は他の美味しいものが食べられないからキライでもある。
お兄さんに元気を出してもらいたくて、アメを一つあげた。他の子たちもお兄さんの元気がないのが気になっていたのか、お兄さんの手にはいろんなお菓子が握られていた。でも、私がアメをあげると、そのお菓子のすべてをぼとぼと地面に落としちゃった。本当、どうしたんだろう?
△月〇日
今日はお祭りの日! パパとママの手を引いておじいちゃんたちから美味しいものをいっぱい貰う。パパから「まるでリスみたいだ」と笑われた。
お友達と一緒にかけっこしながら村中を周っていると、お祭りは急に静かになった。これから水神様にお礼をするための儀式を行うんだって。お兄さんはどこにいるんだろう?
儀式はよく見ても意味は分からない。小舟に藁を縛ったかたまりを乗せ、湖の真ん中に向けて流す。それを火矢で射って燃やすだけ。今までそういう遊びなのかなって思っていたけど、これが水神様へのお礼なんだって。初めて知った。
湖の真ん中まで進むと、船は小さくなって見えづらいけど、火矢によって燃える藁がもうもうと煙を上げ、やがて船はバランスを崩してひっくり返り、湖に沈んでしまった。
こんなお礼の仕方で水神様は喜んでくれるのかなと、不思議に思った。
△月□日
あのお祭りの日からお兄さんが帰ってこない。探しても見つからない。
私たちのお兄さんで、いつもいろんな遊びを教えてくれたお兄さんが見つからない。みんな心配して家まで様子を見に行ったけど、おじさんとおばさんにきつく睨まれてしまった。
村長に、水神様のお礼をする役目って何をするの? と聞いてみたが、頭を撫でられ、笑ってごまかされた。結局、お兄さんがあの日、何をしていたのかは分からず、そのままどこへ行ったかも分からず仕舞いだった。
早くお兄さんが見つかるといいな。また一緒にかくれんぼがしたいよ。
〇月×日
久しぶりに日記を書く。気が付けば一年くらい書いてない。日記を思い出したのはまたお祭りの日が近づいてきたからだ。
今年、水神様へお礼をするのは誰なのかまだ決まっていない。ここ最近、私は家から出してもらえず、パパとママからはずっと「大丈夫だから、うちは関係ないから」って言われる。
暇だから壁に耳を当てて外に誰がいるのか当ててみようと思ったら、パパが、たぶん村長と言い争いをしている声が聞こえた。
詳しいことはわからないけど、「うちはもう役目を果たした」とか、「役目は一周したから」とか、ずっと何か言い争っている。正直怖い。なんでずっとケンカしているんだろう?
ママは私のことを抱きしめて「お姉ちゃんが守ってくれるからね」って何度も呟いていたけど、私にお姉ちゃんなんていない。だから本当に訳が分からなかった。
△月×日
パパとママが帰ってこない。家からは出るなと言われているからずっと家にいる。
食べ物ももう無くなって来た。お隣さんにこっそり貰いにいくくらいなら大丈夫かな、と思っていたら、家の扉が開いて、村長さんとおじいちゃんたちが揃って我が家にやってきた。
すごくニコニコしていて怖い、腕を掴まれ、私を囲うように家から連れ出された。湖を半分グルッと周り、いつもお祭りの道具を仕舞っている小屋まで移動すると、床の扉を開いて地下室へ連れられた。
こんな地下があるなんて知らなかった。そして、そこにあったのは不気味な牢屋だった。
両手を枷で拘束され、固い石の床に放り出された。ぶつけた膝の痛みに呻いている間に牢の鍵を閉められる。
窓がなくて朝なのか夜なのかも分からない。ビクともしない格子の内側は、冷たい床に薄い布団が一つ。日に二度、質素な食事を運んでくれるが、何か混ざっているのか変な味がする。
パパとママが助けに来てくれると信じて、私は今日もひたすらに寝た。
――――
どれくらいの日にちが過ぎたのだろう。気が付けば、変な味のする食事に違和感を持たなくなったし、毎日やってくる村長の言う事には従うようになっていた。
私は水神様にお礼を言うお役目を担った。そのための準備が、今のこれらしい。
あんなに優しかった村長が、村の人たちが、私に酷いことをする。
松明を近づけられ、左手を焼かれた。だけど痛みはない。肌を嫌な臭いで焼いていく光景を眺めていると、水を掛けられて火を消してくれた。私が何も反応していないのを見て喜んでいる大人たちの姿が滑稽だった。
村長が言った。「お姉ちゃんのように、しっかりお役目を果たしなさい」と。
私には生まれる前にお役目を果たした姉がいたようで、その姉が役目を果たしたから、我が家はもう水神様へお礼を捧げなくてもよいという話だった。しかし、今年、十歳になる子どもは私だけ。だから選ばれた。見たこともない水神様のための贄に。
――――
「水神様に会ったら、今年も豊穣をもたらしてください、とお願いするんだよ」
――――
目の前が真っ暗だった。
がさがさとした何かに閉じ込められ、手足は満足に動かせない。
毎年聞いていた祝詞というものがわずかに聞こえる。もしかして、今日はお祭りの日なのだろうか。
私は不安定な何かに乗っているのか、上下左右に揺れながら、聞こえる声が遠くなっていくことに不安を覚える。
風がわずかな隙間から入り込んできた。聞こえた水の音で、ようやく私は湖の上にいることが分かった。船の上に乗せられている。じゃあ、私が閉じ込められているのはお祭りで見たあの藁のかたまり? だとしたら、毎年、水神様へお礼の役目を担ってきた子どもたちは……。
藁に火を付けられた、毎年見る火矢が命中したのだろう。
熱くはない。痛みもない。感覚は忘れてしまったかのように何も感じない。炎が私の身体を焼いていく。
重い藁のバランスが崩れて私は引っ張られるように水に落ちた。
どうせなら呼吸の苦しさも忘れたかった。息が出来ないことがこんなにも苦しいなんて。
炎は私の目も焼いたから何も見えない。音も聞こえない。だけど、何かがそこにいる。
きっと、あなたが水神様なんだね。
……そうだ、水神様に伝えたいことがあったんだ。私がみんなを守らないと。
私の願いは――。
日記はここで終わっていた。
一通り読み終わった隊長は、手に持った日記を鼻で笑いながら閉じる。この日記を何も信じてはいなかった。
「所詮は子どもの日記だな。死した後にどうして日記が書ける。三流以下の脚本だな」
隊長はそろそろ新しい情報でも集まったかと布団から腰を上げ、待機しているはずの騎士に声をかける。
「おい、そろそろ――ッ⁉」
振り向いた先、虚ろな目をした騎士が両手を隊長へ伸ばしていた。
とっさの判断で騎士のこめかみに裏拳を入れて弾き飛ばすと、騎士は壁に頭をぶつけたままズルズルと床に滑り落ちていった。
様子を伺う隊長の耳には雨漏りの音だけが聞こえる。ピチョン、ピチョン、と規則的な音が隊長の精神を削る。
視線は先ほど読み終わった日記帳へと吸い込まれる。もう一度、あの日記帳を読まないといけない気がした。
何か様子がおかしいことには気付いている。隊長は剣を抜き、警戒を怠らず日記帳を拾い上げると最後のページを開いた。先ほどは何も書いていなかった空白のページ。だけどそこに何か書いてある気がしてならなかった。
〇月〇日
王都の騎士団が調査にやってきた。ふふっ、おかしなところなんてどこにもないのに。
これは私が願った事だから、これが正しいんだよ。
“大嫌いの数だけ雨を降らせてください”
私たちを生贄にしてきた大人たちなんて大嫌い! 助けに来てくれなかったパパとママなんて大嫌い! だから、大嫌いを大好きに。子どもたち皆で、水神様に願いましょう。
――あなたは、雨は……好きですか?
「今日の日付け……、大嫌いの数だけ雨を降らせる? ではここに眠る夫婦は生贄となった娘に嫌われたから雨の代償となった?」
むちゃくちゃじゃないかと首を振った隊長は、日記を捨て、床に崩れ落ちた騎士に近づいて脈を取る。
頭をぶつけて意識不明になっているだけだと思いたかったが、ピクリとも動かない騎士の脈に舌打ちをして、そっと横たわらせる。殴ってしまったことを謝罪し、短時間だけ黙祷を捧げた。
外へ出ると雨脚は激しくなっていた。まるで終わりかけのジョウロに水を足したように。
入り口に待機していた騎士が泥へ頭から突っ込んでいる。声をかけるまでもなく息絶えている。
「誰か、誰かいないのか!」
隊長は雨に声をかき消されるのを承知で大声を張り上げる。やはり、その声に応えてくれる者はいなかった。
雨で腐り落ちた家屋には、苦しそうな顔をして息絶えている村人の姿があった。近くには不自然な体勢で崩れ落ちた騎士の姿もある。
どの家屋も似たようなものだった。
少女の怒りを買った者たちが水神に命を捧げられた末路だ。この村は雨が止むまで立ち入るべきではなかった。
そんなこと分かるはずもなく、後悔するには遅すぎる判断に隊長は湖を前に嘆いた。水面を叩き続ける雨は、いつまでも止む気配がない。
結局、生者を誰も見つけられなかった隊長は、もはや意味をなさない雨合羽のフードを脱ぎ去ると湖の中心に向かって力任せに剣を投げ入れた。
「雨なんか大嫌いだ! 雨なんかさっさと止め! 晴れろ! 水神なんか死んじまえ!」
醜く叫ぶ隊長は、目を見開いて涙と雨が入り混じったものを頬に流しながら、ずっと怨念の言葉を湖にぶつけ続けた。
ついに喉も枯れ、声が出なくなったその時、隊長は背中を押され湖に落ちる。その瞬間、隊長の耳元には何者かの声が届いた。
「雨は、好きですか?」