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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

箱入り天使

「この天使のめんどうを見なさい、クリストファー」


 司祭の命令は絶対だ。反射的に修道士ブラザーのクリストファーはうなずいた。うなずきながら、司祭の黒服の裾にすがる少年の背中へ目をやった。


 ……羽根など生えていない。金色の短髪ショートは少し傷んで、大空のように青い瞳、白く素朴な服の姿は天使のように可愛らしいが、やはり羽根など生えてはいない。


 単なる例えなのだろう、とクリストファーは軽く考え、またうやうやしくうなずいた。この子どもはきっと、教会の前にいた捨て子なのだ。だからこの子のめんどうを見て、あるていど成長したらこの教会のブラザーにする……いつものことだ、自分だってそうして育った子どもなのだ。


「よろしく、わたしはクリストファーだ。良かったら『クリス』と呼んでくれ」


 できるだけ穏やかにって手をさし出すと、少年は少し身を引いた後、そっとブラザーの手を握る。その瞬間、ふっと身の内に電気が走った。走ったようなときめきがあった。何だろう、この感じは……一瞬クリスはそう思ったが、深く考えるのをやめて、少年の手を引いて歩み始めた。


 もう夜なので自室に引っ込み、クリスは少年をうながした。

「もう遅い、ベッドで一緒に休もうか……さして広くもないベッドだが、ひょろひょろの体のわたしと子どもの君となら、何とか共用できるだろう」


 少年は少しためらったが、やがて黙ってうなずいた。寝るために背を向けてシャツを脱ぐ……その背中がなんとなし目に入り、クリスはわが目を疑った。あまりにひどい赤い傷が、少年の背中にふたつ、えぐられたようについている。


「き……君! 何だその傷は……!!」

「……ああ、これ? 羽根のあと」

「は……羽根……?」

「聞いてなかったの、司祭さんから……? ぼくは天使で、天から足をすべらして落ちてきて……嫌な人たちに捕まって、羽根をもぎり取られたんだ。『万能薬』になるからって」


 良い金になるって、言ってたよ。

 こともなげに言う少年に、クリスは言葉を失った。


 ――確かに聞いたことがある、時たま、本当に奇跡のように、天から天使が落ちてくると。そうしてその白く大きな羽根は、万能薬の材料になり、そのために天使は往々にして悪い人間に羽根をむしられ、みるまに『人間』になりさがると。そうして天にも帰れずに、元天使は地上で生きるしかなくなると。


「……それじゃあ、君は、本当に……」

「天使なんだよ、天使だった。さっきからそう言ってるじゃない、司祭さんも言ったでしょ?」


 不思議そうにこちらを見上げる少年に、クリスの目がやけどしそうに熱くなる。


 ――ひとりぼっちだ、この少年は。羽根を失い、天にも帰れず、いずれは地上の小さな教会の修道士になる道しか、もう残されていないのだ。


 ひとりぼっちだ。いつかこの教会の門前に捨てられた、自分みたいに、ひとりぼっちだ――。


 視界がぐるぐる潤んできて、クリスはあわてて鼻をすすって、優しく少年の手を引いた。自分のベッドに招き入れて、鼻と鼻が触れ合う近さで問いかけた。


「忘れていたよ……君の、名前は?」

「名前? 名なんてないよ、ぼく、生まれたばっかりで地上こっちに落ちてきちゃったんだもん。羽根をとられても、教会の人に発見されて救われたのは、本当に運が良かったよね!」

「……じゃあ……アンジェラ。今から君の名は、アンジェラだ」

「アンジェラ……それ、女の子の名前じゃないの?」


 ちょっとばかり考えるそぶりを見せた後、天使は()()()と笑ってみせた。


「まあ良いか、ぼく天使だもんね! 天使は男の子のと女の子の、両方体に持ってるもんね! それを知ってて、アンジェラって名をくれたんだよね!」


 言っていることが分からなかった。言葉をよく考えてみて、クリスのほおにじわじわと熱が回ってきた。耳まで燃えるほど真っ赤に染めて、クリスはアンジェラに背を向けて、ベッドの隅のすみの方に縮まって……朝まで一睡もできなかった。


 不思議そうにしていた天使は、ほどなく寝息を立てだした。あんまりよく眠っている風なので、クリスはそっと向き直り、アンジェラの方を何度も何度もうかがった。


 ……天使のような、寝顔だった。


* * *


 天使は少しずつ、大きくなった。最初は六歳くらいの見た目だったのが、年々少しずつ成長し、今は十歳くらいになった。


 アンジェラは日中はいつも、教会の中心部にある温室にいた。ガラス張りの天窓越しの光を浴びて、雨の日も天窓に保護されて、その肌が濡れることはなかった。すくすくと育つハーブに囲まれ、人工の泉の水をすくい、小さなのどを潤した。泉の水は澄み過ぎて、魚の一匹もいなかった。


 もうじき、彼もクリスと同じ修道服に身を固め、礼拝所で一緒に聖書を読むようになる。聖書を読み、祈りを捧げ、修行を重ねてブラザーになる。ブラザーになって、司祭になって、もっともっと上の位につくだろう。


 ――あまり要領の良くない自分は、ブラザーのまま年老いて、偉大になったアンジェラの姿を誇らしく見上げることだろう……クリスはそう思っていた。思って、今から誇らしかった。


 その考えを破ったのは、信徒のマーガリートの言葉だった。彼女は三男三女の母で、『肝っ玉母さん』といった感じの、農作業で日焼けした、よく笑うふくよかな女性だった。


 その肝っ玉母さんが、持ち前の方向音痴を発揮して、ある日教会の温室に迷い込んできてしまったのだ。そこにはいつものようにアンジェラがひとり遊んでいて、そこに午前の祈りを終えたクリスが、昼食を運んできたところだった。


「――あら! あらあらまあまあ、その子がうわさの天使ちゃんかい?」

「……ええ、そうですよ、マーガリート。また迷子になったのですか? はい、お帰りはあちらですよ」

「まあこの白い肌! 細い手足! 文字通りだよ、いかにも『温室育ち』って感じだねえ!!」

「……この子は、天使ですからね。そこらの野原を棒切れを持って駆け回るような子どもとは……」

「まあ! 何言ってんだろうねクリスさん! 子どもったら、男の子ったら、っきれ持ってそこらへんを駆け回るのが仕事じゃないか!!」


 あまりに迷いなく言い切られ、クリスが思わず()()とひるむ。見慣れぬ女性に少しひるんで、あとはたっぷりの好奇心で目を丸くしている天使をかばうように背中に隠し、手のしぐさでマーガリートを追い出しにかかる。マーガリートはなかなか立ち去ろうとせず、大きな声で言いつのる。


「まったく……箱入り娘もいいとこだよ、これじゃ『箱入り天使』じゃないか! 良いかいクリスさん、天使は天から来たんだよ? ガラス越しの光じゃなくて、お日さまに当ててやんなきゃね、そのうちくたばっちまうよ、摘みとられた花みたいにね!」


 あまりにも乱暴な言葉で彼女なりの気づかいを残し、マーガリートはようやく温室を立ち去った。後にはため息をつくクリスと、彼の腕の中の天使がふたり残された。一安心……と思った瞬間、青い目をまんまるにしたアンジェラが、いつになく大きな声でこう訊いた。


「ねえ! 『くたばっちまう』って、どういう意味?」


* * *


 次の日曜、クリスとアンジェラはおしのびで教会の外に『ピクニック』に出かけた。もうじきアンジェラも修行を始めるし、一回くらいは外を見ておいてもいいだろう……と上の人たちも言ったのだ。何よりアンジェラ本人が「ぼくはくたばりたくない」といつになく駄々をこねたのだ。


 まあ良いだろう、最後の機会だ。アンジェラもすぐに分かるだろう、温室とは違う、とげを生やしてたけり狂う野の草木や、泥の溜まった池や何かを味わったら、やっぱり教会のほうが良いと、すぐに心底分かるだろう。


 ――分かるだろう、アンジェラ、この世は汚いことだらけだ。悪い人間はいくらもいる、よこしまな人間はもっと多い、世間の()()にまみれて暮らせば、あっという間にしてしまう。綺麗なままでいるんだ、アンジェラ、いつまでも天使のような天使でいてくれ――。


 そう願いながら歩くクリスと、少し早足の天使の頭上を、さっと淡い影が走る。鳥だ、小鳥だ。ちりちりと軽く歌いながら、二三羽、青空を駆けてゆく。


「――わあ! 今の何、今の音! すごく綺麗!!」

「……音? ああ、声だよ、鳥の声……何でもない、小鳥の歌だ」

「へええ! 鳥ってこんな素敵な声で歌うのかあ!!」


 当たり前のことを満面の笑みではしゃがれて、胸にすっと風穴が開いたようだった。――ああ、そうか。温室のガラス越しには、鳥の声は聴こえないんだ。


 ひそかにショックを受けるこちらにはまるで気がつかず、アンジェラはふっと足もとに広がる小さな池にかがみこむ。底に溜まる泥をすくって「気持ち良い」とはにかんで、水に泳ぐ小さなものに気がついた。


「わあ、わあ! なんかいる、何か動いてる!! ねえクリス、これなーに?」

「……ああ……おたまじゃくしだ、カエルの子どもだよ」

「おたまじゃくし! わあ、ぼく初めて見たよ!!」


 それはそうだろう、温室の泉には泳ぐものはいない……あの人工の清すぎる泉には、一匹も……。


 思わず自分の胸を押さえるクリスにやはり気づかずに、アンジェラは穴のあくほど池を見つめて、口をぱくぱくするおたまじゃくしたちと長いあいだにらめっこして、やがてくりっと弾けるようにふり返って、こう言った。


「――生きてるんだねえ!!」


 天使のような、笑顔だった。その瞬間、クリスは自分の過ちに気がついた。もう戻るまい、あの温室には、あの教会にはもう二度と戻るまい。『無菌状態』で育てれば、それで天使が出来るんじゃない。汚い中でも、どんな環境でも、天使は天使だ、アンジェラはアンジェラだ……。


「――アンジェラ」

 クリスはそっと近づいた。鼻と鼻の触れ合うほどに近づいて……天使のくちびるに、すがるように口づけた。初めてだった、お互いに。甘い香りがした。朝食に食べたデザートのメープルシロップをかけたフルーツヨーグルトのにおいが、互いの鼻に甘く香った。


 ふたりの頭上を、淡い影がさっと通った。また小鳥たちが空を駆け、何者かの祝福みたいに、ちりちりと澄んだ歌声が降ってきた。


* * *


「……そうして、ふたりは教会を逃げ出しました。逃げ出して、田舎のはしっこに落ちついて、クリスの胸に下がっていた銀の十字架を売りはらい、そのお金で小さなちいさな空き家を買って……」


 若い母が、寝物語を語っている。幼いころのアンジェラに似た、さらさらの金髪の愛しい息子に。


「……家の前に広がっていた、荒れ果てた畑を耕して、収穫した野菜を売って……貧乏に、でも幸せに、可愛い子どもにも恵まれて……」

「アンジェラ、アンジェラ……もう寝てる」


 含み笑いで夫に言われ、母はベッドのとなりへ目をやる。息子はまつ毛の長い目を閉じて、すうすうと寝息を立てていた。起こさぬようにベッドを抜け出す妻の手をとり、クリスは騎士が姫にするようにその手の甲に口づけた。


「……ずいぶん母親らしくなった。いたずらな目をした『男の子』だったのが噓みたいだ」

「……そりゃそうよ。わたしは誰かに愛されれば愛されるほど、いろんな風に姿を変えるの……」


 ……天使だからね。

 最後のひと言をささやいて、アンジェラは今は聖母のように微笑んだ。クリスは幸せなため息をつき、幼い息子の寝顔を見つめた。天使みたいだ。心の底から、クリスは言った。


「うちの息子は、天使みたいだ」


 背中にふたつの古傷を持つ、若い母が心の底からうなずいた。『箱入り』ではない幼い天使は、愛情に満ちた両親のまなざしをそそがれて、すうすうと寝息を立てていた。


 小さく古い家の外、ナイチンゲールの夜想曲が、祝福みたいに響いていた。


(完)

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