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夜の街は思った以上に暗く、そして不気味であった。
青白く光る白銀灯だけが、煉瓦調の歩行道路を照らしている。足元より数メートル先は、漆黒の闇。彼方此方に点在している街灯の光が届かない黒い部分は、何かが潜んでいるという嫌な妄想を否が応でも掻き立てた。
令司も恵一に連れられて、何度も依頼の為に夜の町を徘徊してはいる。だが、今回は頼りになる恵一はいない。代わりにいるのはか弱い依頼人の女性なのだ。
辺りをキョロキョロ伺いながら、慎重に歩みを進める令司。その姿は、依頼人がいなければ、必ず巡回中の警官に職務質問されそうな程、異様で滑稽な物だった。
可哀想に依頼人の手は震えている。令司はその手をギュッと握り締めた。
人妻と不倫を楽しむ程の甲斐性を令司は持ち合わせていないし、最愛の主人が急に姿を消し、頼る者もおらず、依頼人が怯えながら今まで過ごしてきた事は、想像に難くない。依頼人を思いやる、令司なりの心遣いである。
それを知ってか知らずか、依頼人は令司の横顔を見るなり、ニッコリと微笑んだ。
「自己紹介がまだでしたね。私はメアリ=バルジューと言います」
その笑顔に思わずドキッとする令司。顔を赤らめ、急いで握っていた手を離すと、慌てて姿勢を正す。令司はピンと背筋を伸ばすと深々とお辞儀をした。
「此方こそ、すいません!自分はレイジ=アカツキと言います!」
「そんなに畏まらないでください」
令司の可笑しな行動に、思わずクスリと吹き出すメアリ。
「いえ、仕事中ですので…」
メアリの笑顔により、自分の行動がぎこちない事にようやく気付いた令司は、赤くなった顔を更に真っ赤にした。
(本当に美人だなぁ…)
令司は天にも昇る心地でメアリの顔に見とれていた。メアリの笑顔は気高い薔薇というよりも、野に咲くコスモスの様な爽やかさと程良い美しさがある。
令司の人生の中で、此処までの美人と肩を並べて歩く事は皆無に等しかった。仕事とは言え、人妻とは言え、こんな美人に頼られている事に、令司は喜びを隠せない。
「あの…、宜しかったんですか?上司らしき方が、ひどく怒ってらした様ですけれど…」
「良いんです、良いんです、あんな頑固ジジィは。面倒な依頼は断ってばかりでしてね?」
恵一がいない事をいい事に、言いたい放題の令司。大きく口を開けて笑う様は、成程、叔父譲りである。
令司の笑顔は、メアリの恐怖や不安を徐々に解きほぐしていっているのだろうか、メアリも笑顔を絶やさない。
先程の緊張感は何処へやら、二人は和やかに打ち解けていた。
取り敢えず、間を繋ぐ為に令司は身の上話を始めた。何故、自分が探偵をやっているのかという事。見習いの自分が失敗ばかりしており、いつも叔父に怒られている事。依頼人が喜んでくれた時の達成感等を、身振り手振りを交えて半ば興奮気味にメアリに伝えた。
美人の扱いになれていないので、常に話していないと自分が如何にかなってしまいそうなのである。
そんな令司を、時々笑みを交えながら、只々楽しげに見つめるメアリ。端から見れば二人は良い感じである。誰もが羨む状況の中で、令司は完全に有頂天になっていた。
――ドンッ!――
その時である。鈍い音と共に令司の後頭部に激痛が走った。
生暖かい液体が額とこめかみの辺りをゆっくりと流れていく。古くなった鉄の様な、鼻を突く嫌な匂いがした。
後方からの衝撃で前のめりに倒れていく身体を、必死に片足を前に出し、既の所で支える令司。
脳を揺らされた為か、強烈な目眩に襲われた上、足にも力が入らない。
(依頼人を守らないと!)
探偵としての本能が、令司を奮い立たせる。
令司はメアリを庇う様に強く抱き寄せると、衝撃の発生源であろう後方を確認する為に、ふらつきながらも振り向いた。
目の前には真っ黒なコートを着た奇妙な二人組が立っていた。
二人ともフードを深く被っている為、よく顔が確認出来ない。白銀灯に照らされて、サングラスだけが不気味に光を反射している。恐らく、二人共男性であろう。
片方の人物は筋肉質な身体付きをしており、かなりの巨漢である。
もう一方はやたらと背の低い痩せた男であった。妙に腰が曲がっており、それが身長に影響しているのだろうか。
「やれ」
腰の曲がった男が令司の方を指差すと、巨漢の男が丸太の様な腕を振り上げた。
(もうダメだ!)
あの腕から繰り出される一撃を食らったら、恐らく令司はもう起き上がってはこれないだろう。
自分に向かって振り下ろされるであろう拳を、処刑台のギロチンに見立てながら、令司は堅く目を瞑った。
――パシュ…――
突然耳に入ってきた乾いた音に驚きながら令司が目を開けると、腕を振り上げたまま倒れていく巨漢の男。
まるで大木がゆっくりと倒れていくかの様である。
ズシン、と低く響く音と共に、巨漢の男の身体は地面の一部と化す。気の所為か足元が少し揺れた様な感じがした。
巨漢の男の側頭部からは、黒く濁った液体が流れている。その勢いは止まる事を知らず、やがて、巨漢の男の周りに赤黒い水溜まりを作り出した。
何時の間にか、腰の曲がった男はいなくなっている。如何やら、令司もメアリも助かったらしい。
「だ、大丈夫ですか?」
メアリは胸を撫で下ろすと、すぐに令司の身を案じた。巨漢の男の状態も気になったが、まずは令司が先である。勇敢にも自分を守ってくれた恩人を、放って置く訳にはいかない。
しかし、令司は返事をする気配が無い。前屈みになったまま動かないのである。
メアリは恐る恐る令司に触れた。すると、その反動からか、朽ちた木材の様にドサリと地面に崩れ落ちる令司。
「た、大変!誰か!誰か!救急車を呼んで!」
メアリの悲鳴にも似た叫び声が、深夜の静寂を切り裂いていった。