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――ピンポーン…――
令司はインターホンの音に目を覚ますと、勢い良くソファーから身体を起こした。玄関の覗き穴を覗くと、其処にはウルブスが立っている。
令司は入り口の扉を開けると、ウルブスを中に招き入れた。事務所の中には入らず、何故か玄関で立ち止まるウルブス。
「ケルベロスはいないのか?」
ウルブスが真剣な表情で令司に問い掛けた。急いでいるのか、その表情には焦りが感じられる。
「え~と、何か警察に用があるとかで出掛けましたけど?」
「そうか…」
令司の言葉で恵一がいない事を悟ると、ウルブスは溜息を吐きながら残念そうに下を向いた。
「何かあったんですか?」
ウルブスはいつもと何処か様子が違った。前に話した時は、もっとこう、のんびりとした感じの人物であった筈だ。令司はウルブスの態度に疑問を覚えた。
「大した事じゃない」
令司の問い掛けに素っ気なく答えるウルブス。横目でチラリと令司を見やると、ちょっと嫌がる素振りを見せた。
「いつもと口調が違うし、何かあったんでしょ?」
「全く、妙な所だけ鋭いなぁ。本当に大した事じゃないってば~」
しつこい令司をあしらうかの様に、ウルブスは咥えていた煙草を縦に振った。吸い口を前歯で器用に挟むと、リズミカルに煙草が上下する。それはまるで指揮者が振るう指揮棒の様だ。
「何か伝言があるなら伝えますけど?」
この場合、恐らく叔父に何かを伝えに来たのであろう、と判断するのが普通である。令司はペンを手に持つと、懐からメモ帳を取り出した。
「なら、『ジャッカルが現われた』とだけ伝えて頂戴」
「はいはい。了解しましたよっと」
令司はメモ帳に『ジャッカル』とだけ書き残すと、事務所から出ていくウルブスを見送った。
扉が閉まりウルブスが帰っていくのを確認した後、令司は受話器に手を伸ばす。
恵一が残したメモを頼りに、令司は電話のボタンをプッシュした。暫くのコール音の後に、程なくして電話が繋がる。
「もしもし、朱月探偵事務所です」
いつも通りの口調で自らを名乗る令司。電話番号はウルブスの家の物だ。ジャッカル絡みでウルブスが訪れた時は必ず此処に連絡する様にというのが、恵一からの指示である。
「探偵さんが、家に何の用ですか?」
受話器から聞こえてきたのは女性の声だった。その声は少し震えている。
「失礼ですが、ウルブスさんの奥さんですか?」
恵一からは奥さんに連絡しろと言われていた。まさかとは思うが、そうでない場合も考えられる。令司は一応確認を取る事にした。
「はい…。夫が何か?」
受話器の向こうの声が少し不満気な物に変わった。如何やら、此方を警戒している様である。
「えっとですね、私の叔父が元警察官でして、ウルブスさんがこっちに来たら、話を伺えと言うモンでね?」
令司は警戒を解く為にも、事の顛末を話した。別に隠す事でもないし、内緒にしろとは言われていない。夫と同じ警察官であった事を告げれば信用して貰えるだろう、と令司は考えたのだ。
「何も話す事はありません」
ウルブス夫人はやや強い口調で、聴取を拒否する。令司はその様子に少し驚いたが、夫人の態度から何かを隠していると確信した。
「…ジャッカルさんって、ご存じですか?」
恵一の話によると、ウルブスの奥さんはジャッカルとも面識が深いという。
ならば、ジャッカルの名前を出せば何かを情報を引き出せるかもしれないと思った令司は、ウルブス夫人に対して鎌を掛ける事にした。
「…」
夫人は沈黙したまま何も語ろうとはしなかった。受話器の向こうから啜り泣く声の様な音が微かに聞こえる。
「如何かしました?」
心配になった令司は、ウルブス夫人に優しい口調で問い掛ける。すると、夫人は落ち着きを取り戻した様で、先程までの荒い息遣いから随分と穏やかな物になった。
「前の…、夫です…」
夫人は恐る恐るジャッカルとの関係を口にした。余り話したくはなかったのだろう。所々で言葉が詰まる。
「今の旦那さんは何処へ行くと?」
「『裏切りの場所』とだけ…」
ウルブス夫人は震える声を押さえる様に、ゆっくりと令司の問いに答えていく。
「其処は何処です?」
「何も知りません!」
順調だと思われたその時、夫人の口調が強い物に変わった。何かを悟られまいとしている様だ。
「何か心当たりはありませんか?」
「分からないって言っているでしょう!」
令司は夫人をしつこく問い詰めた。語りたくなくても語って貰わねば、二人に何が起こるか分からない。
「…二人共、奥さんにとっては大事な人ですよね…」
令司は只、二人共死なせたくなかった。事件の解決は望んでいるが、誰かが傷つく結末はもう沢山だ。絞りだす様な声で、令司は夫人の説得を試みる。
「…」
「ジャッカルは殺し屋です!旦那さんが如何なるか分からない!」
口を開かないウルブス夫人の態度に、令司は声を荒げて夫の危機を告げた。
そうこうしている内にも、ウルブスの身に何かが起こっているかもしれないのだ。
「決着を…、二人だけで決着をつけさせてあげてください」
泣き崩れながら何かを懇願するウルブス夫人。
令司には理解出来ないが、声の様子からそれが余程大切な事というのが伺える。
「両方ともいなくなっても良いんですか!」
しかし、例え理解出来ていたとしても令司の心は決まっている。二人共死なす訳にはいかない。
令司は大きな声で受話器に向かって叫んだ。
「…ジャッカルが死んだとされる場所」
「何処です?」
「サンストリートの外れのクレセントビル…。今は廃ビルになっている筈です…」
「クレセントビルですね!ありがとうございます!」
取り敢えず、位置は確認出来た。後は向かうだけである。令司は胸を撫で下ろすと、渋々だが聴取に応じてくれたウルブス夫人に心から礼を言った。
「いち早くこの事を恵一に伝えろ」と脳が司令を送る。
――ガチャン!――
令司は受話器を元の場所に叩きつけると、急いで携帯電話を取り出した。慣れた手つきで恵一の番号を素早く入力する。そして、静かに電話を耳に充てた。
――トゥルルル、トゥルルル…――
携帯電話の呼び出し音のみが耳に流れ込む。
「あー、早く出てくれよ!」
いつもなら何でもない待機時間も、焦っている令司にとってはえらく長い時間に感じる。
中々出ない恵一に、令司は苛立っていた。その時、「プツ」という音と共に呼び出し音が途切れる。
「あっ、叔父さ…」
「只今電話に出る事が出来ません。案内に従って伝言メッセージを…」
てっきり叔父が出たと思った令司は大声で呼び掛けるが、味気の無い案内音声だけが虚しく辺りに響き渡った。
「ったく!あの糞ジジィ!一体、何処をほっつき歩いてやがんだ!」
令司は携帯電話に対して怒号を浴びせると、壁に向かって投げつけた。
中を舞った携帯電話は綺麗な放物線を描くと、やがて厚い壁に弾き飛ばされる。ガシャンという音を発てて、それは無残な姿で床に転がった。
「確か、此処に…」
令司は机の裏を弄ると、隠してある鍵を取り出した。そして、上から二番目の引き出しを開ける。
中には恵一愛用の拳銃が大事そうにしまわれていた。
「もう、俺がやるしかない!」
令司は弾丸が入っているか如何かを確認すると、ウェストとズボンの隙間に拳銃を捻り込んだ。
「大丈夫だ!やれるぞ、俺!」
令司はガクガクと笑う膝を必死に押さえ込むと、自分に言い聞かせる様に勇ましく吠えた。両手で頬を「パン!」と叩きながら、令司は自らを奮い立たせる。
そして、クレセントビル跡を目指して、急いで夜の街へと駆け出していった。




