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「う~ん…」
一人の男がワイシャツの袖を捲り、一匹の猫と対峙していた。男の正体は令司である。
猫は全身の毛を逆立てながら、尻尾を立てて「フーッ!」と令司を威嚇している。
一方令司と言えば、白かったであろうワイシャツは土埃で茶色く汚れ、顔には無数の引っ掻き傷。眼鏡にもやや罅が入っており、何と言うかボロボロだ。
何故か両手に虫取り用の網を携えている。これで猫を捕まえるつもりなのだろうか。
二人が依頼主である『カーライル婦人』の家を訪れてから三時間後…。意外にもアッサリと猫は見つかった。
カーライル家の周りの地図から、猫の行動範囲を予測し、巡回する事一時間。たまたま塀の上を歩いていた『報告通りの茶色い縞模様が入っている赤い首輪をした猫』を、令司が発見したのである。
しかし、猫は予想以上に素早かった。腹の出てきた中年の恵一では、猫の運動量に適う訳もない。其処で、若者である令司の出番となった訳だが、鈍臭い令司が一回で巧く捕まえられる筈もなく、これまで失敗する事十四回。今回の十五回目のチャンスこそはと、いつも以上に慎重になっているのだった。
「きしゃぁぁぁぁ!」
虫取り網の必要性の無さにようやく気付いたのだろうか、網を後方に投げ付けると四つん這いになり、何故か令司も猫を威嚇する。
「にゃ、にゃあ…」
令司の突拍子もない行動に圧倒されたのだろうか、猫は弱気になり後退りをした。
しかし、ボロボロの若い男が四つん這いになり奇声を上げている様は、猫でなくても退く事、請合いである。寧ろ、通報されても可笑しくはない。
ジリジリとにじり寄る令司。顔はまるで悪魔の様に歪んでいる。
その迫力に押されて、一歩一歩後退していく猫。如何見ても、令司は悪者か変態にしか見えない。
ついに猫は袋小路まで追い詰められてしまった。
これ以上後ろへ逃げられなくなった猫は、ブルブルと震えながら、敵のサイドの隙間から逃げ出そうと様子を伺っている。
此処で相手が飛び掛かって来たら占めたもの。横からスルリと抜け出す寸法だ。
しかし、令司も馬鹿ではない。いや、もう『飛び掛かっては逃げられ』を十四回も繰り返している時点で馬鹿なのだが、流石に此処まで繰り返せば同じ轍は踏まないだろう。
「ずおりゃぁぁぁ!」
令司は立ち上がると飛び掛かるフリをした。
それに反応した猫は令司の右脇から逃げ出そうとする。
上から状況をじっくりと見ている令司に、そんな戦法が通用する筈もない。
令司は逃げ出さない様に両手でしっかりと猫を捕まえると、天高く掲げて「やったー!」と、大きな声で叫んだ。
勝利の雄叫びを上げる令司を、呆れた顔で溜息混じりに見つめる恵一。
「発見から二時間…、掛かり過ぎだ」
「何言ってんすか。叔父さんだけだったら捕まえられなかったでしょうが」
恵一の独り言に鋭く反応した令司は、猫を抱いたまま振り返ると、すぐさま反論を試みた。確かに令司の言う事も尤もである。だが、それならそれで、もっと優秀な助手を雇えば良いだけの事。令司の仕事が遅い事の理由にはならない。
「それに、こんなにボロッちい探偵事務所で働きたい人なんて、俺の他にいないでしょ?」
恵一の太い眉が、何気ない令司の一言により、ピクリと動いた。これには流石の恵一も参ってしまった様で、図星なだけに反論も出来ない。
「うるせぃ!とっとと帰るぞ!」
令司に痛い所を突かれて、虫の居所が悪くなった恵一は、煙草に火を点けると、早々に依頼人の元に報告に行く事にした。