14
「マスターは良い人でしょう?」
街灯に映し出された影が、二つ並んで伸びていく。
ウェイトレスは暇潰しに男に話題を振った。
「ああ、俺とは大違いだ」
「貴男もそんなに悪い人には見えませんけど?」
ウェイトレスの問いに、男は笑いながら答える。そんな男を見てウェイトレスも笑った。殺伐とした初春の寒空の下、和やかな雰囲気が辺りを包む。
「あ、自己紹介がまだでしたね。私はアニーって言います」
「私はジャカルだ…」
「何だか恐そうな名前ですね」
「IDの事と同様に、それも言われ慣れてるよ」
自己紹介をし合う二人。「恐そうな名前」と言うアニーの言葉が核心を突いた為、ジャッカルは思わず吹き出した。確かに自分は殺し屋である。表の世界では知られていないものの、裏の世界では恐れられている。恐れ慄き逃げ惑う裏社会の住人の姿を思い浮べると、笑いが止まらない。
「それは何だ?」
ジャッカルはアニーの抱えている巨大な紙袋が気になっていた。重たそうにしているアニーを手伝ってやりたいが、生憎自分の両手も塞がっている。
「食料ですよ」
紙袋を不思議そうに見つめるジャッカルにアニーは笑い掛けると、ケロッとした顔でアッサリと答えた。
「私もIDが無いんですよ。だから、働く代わりにこうやって色んな物を譲って貰っているんです」
「昨今ではIDが無いと、物も買えないからな」
店内でのジャッカルを思い出して頂ければ分かって貰えると思うが、現在の購買システムではIDが無ければ、幾ら現金を持っていても意味は無い。IDの無い者が生きる為には、アニーの様に誰かから物資を恵んで貰う他なかった。
「着きました。此処ですよ」
ジャッカルが見上げる先には、見るからに古いアパートが建っていた。壁には至る所に罅が入っている。其処からは無数の蔦が這い出し、灰色の壁を深緑色に染めていた。
「散らかっていますけど、雨風程度は防げますから」
二人はコンクリートの階段を数回上った後、一つの扉の前に辿り着く。アニーは鍵を差し込むと扉を開けた。
「贅沢を言える身分ではないよ」
ジャッカルはそう言うと、アニーに促されるままに部屋に入った。何かの管が廊下中に張り巡らされており、歩きにくい事この上ない。沢山の管を辿っていくと、全てが一つのカプセルに繋がっている。カプセルの中には痩せ細った男が入っていた。
「この人は?」
「父です」
「もうずっと、こんな感じなのか?」
「ええ…。あ、コーヒーで良いですか?」
アニーの問いにコクリと一回頷くと、ジャッカルはまじまじとカプセルの中を見つめた。
「こんな状態で、生きていると言えるのか?」
「ちゃんと生きてます!」
ジャッカルは思わず息を飲みながら言葉を漏らした。ジャッカルの声は小さかったが、目ざとくならぬ耳ざとく、それを聞きつけたアニーが急に声を荒げる。
「すみません。ついつい、興奮してしまって…」
トレーに乗せた二つのコーヒーカップの表面が波打っている事に気付き、焦ったアニーはハッと我に返った。テーブルにそろりとコーヒーを並べると、ジャッカルに向かって深々と頭を下げる。
「いやいや、此方こそ失礼な事を言ってしまって、すまなかった」
アニーの態度にすっかり恐縮してしまったジャッカルは、手を軽く左右に振りながらアニーに謝罪した。
コーヒーを戴く為に古い木製の椅子に腰掛ける。ギシッという嫌な音がした。体重の軽いアニーは澄ました顔でコーヒーを飲んでいるが、体重の重いジャッカルは「何時椅子が壊れるか」という恐怖に駆られて、気が気ではない。
「お父さんと二人暮しなのかい?」
椅子の様子を気にしながら、ジャッカルが口を開く。
「ええ、去年母は死にました…」
「辛かったろうに…」
「そんな事はないですよ」
ジャッカルはアニーの答えを聞いて、少し後悔した。幾ら口下手であるからといって、容易に想像出来る事を軽々しく口にするのは如何な物か。アニーは表情を変えずに笑っているが、自分を気遣っているだけかもしれない。そんな事を考えると、ジャッカルは居たたまれない気持ちになった。
「私も母も、父の治療代を払う為にIDを売ったんです」
「だろうな。でなきゃ、これ程の医療設備は整えられない」
ジャッカルがアニーの父が入っている機械を見やる。カプセルの中は培養液で満たされており、口に装着されたマスクにより酸素が送られている様だ。
見るのは初めてだが、恐らくこれが巷で騒がれている『自動蘇生装置』という奴なのだろう。
薬を使っても人間の身体が強くなる訳ではない。薬は症状を押さえるだけであり、最終的には身体が持つ自己治癒能力に頼る事になる。『自動蘇生装置』とは自己治癒能力を高める手助けをする夢の様な医療器具であった。しかし、まだ値段が高く、一般庶民が手を出せる代物ではない。価格は一億はくだらない筈だ。
「こんな状態が続いてますけど、少しずつ回復はしているんですよ」
アニーは目を細めるとカプセルの中の父親をジッと見つめた。ジャッカルから見ると、その目は慈悲に溢れている様に思える。単なる優しさとはまた違う、哀愁の様な物が感じられた。
「父を恨んだ事は無いのか?」
アニーの母親の死因は分からないが、IDがあれば、国家の生活保護を受けられる。少なくとも今よりはマシな生活が送れるだろう。言うなれば、父親がいなければ全てが丸く収まるではないか。
そう感じたジャッカルは失礼だとは思ったが、一つ質問をしてみる事にした。殺し屋になる前は父親であった自分の境遇をアニーの父親に重ねた彼は、如何しても家族の気持ちという物を聞いてみたかったのだ。
「ありますよ、一度だけ…」
ジャッカルは他人のケースと自分とでは違うと分かっていても、アニーの優しさに満ちた回答を心の奥では期待していた。しかし、実際は何て事はない通常の人間の答えであった。
それもそうだ。アニーの父親も自分も、決して許される者ではないだろう。
「でも、父が回復したら一緒に母のお墓参りに行くんです。それが今の私の夢ですから」
アニーは悲しそうに目を伏せて笑うと、確かめる様にゆっくりと言葉を絞り出した。
「…死んだ人間が想う事は只一つ、残された者の幸せだけだ。忘れ去られた方が良い事もある」
「そんな淋しい事…」
ジャッカルは深く溜息を吐いた。何が其処まで彼女達を突き動かすのか、父親はそれを望んでいるのか、ジャッカルには到底理解出来なかった。もし、自分が親の立場であったならば、例え身体が如何なろうとも娘の幸せを願うだろう。
「ジャッカルさんは如何してIDが無いんですか?」
しんみりした空気を変えようと、アニーは話題をすり替えた。
アニーの疑問も尤もである。IDが無くなるという事は、それ相応の理由がある筈だ。ジャッカルの話からは、アニーの様にIDを他人の為に失った風ではない。
「生まれた時からだ。まぁ、IDを持っていた時期もあったんだがな…」
ジャッカルはそう言うと、窓から外を眺めた。黙るアニーをお構い無しに、ジャッカルは尚も身の上話を続ける。
「死んだ事になっているんだよ。今の私にとってはそっちの方が都合が良い」
「家族は知らないんですか?」
「ああ、妻も娘も知らない。だから会いにも行けない…」
アニーの問いを軽く受け流すと、ジャッカルはコーヒーを啜った。
「それは辛いですね…」
「そうでもないさ。彼女等は彼女等で幸せにやっている様だ」
心配そうに見つめるアニーを気遣う様に、ジャッカルは無理に笑顔を作った。照れ隠しに煙草を咥えるが、アニーの家は禁煙かもしれないと思い、急いでケースにしまい込む。
「そう見せているだけかも知れませんよ…?」
「別に煙草を吸っても大丈夫ですよ?」と言わんばかりにアニーは苦笑した。ジャッカルは客である。余り気を遣わせたくはない。
「少なくとも娘は平気さ。まだ小さかったから私の顔は覚えていない」
「そういうものですかね…」
「親は一番に子供の事を考えるものさ。妻も忘れた方が賢明だったんだろう」
ジャッカルの言葉を聞いて、アニーは自分がしている事の意味が見出だせなくなった。
母が倒れた時、父の代わりに『自動蘇生装置』に入れようと思ったアニーに対し、母は確かにこう言った。「そんな事をしたら、今まで私達がしてきた事が無駄になる」と。
悲しい事に自分の両親はジャッカルの考えている親とは別の人種なのだ。子供よりも自分のプライドを選択したのである。
「ジャッカルさんが父親だったら良かったのに…」
「何か言ったか?」
「いいえ、気にしないでください」
そう言うと、アニーは澄ました顔でコーヒーを口にする。今の言葉はジャッカルに聞かれない方が良いと思った。
「でも、奥さんはジャッカルさんの事を忘れていないと思いますよ。だって、ジャッカルさんみたいに良い人の事、忘れる訳ないもの」
「俺が、良い人…?」
ジャッカルは驚きが隠せなかった。自分は殺し屋である。それを良い人等と呼ぶ事自体、狂気の沙汰の部類だろう。
「そうです!私こう見えて結構人を見る目はあるんですよ♪」
「悪い事は言わん。騙されない様に注意しろ…」
自信満々に笑顔を見せるアニーを見て、ジャッカルは「はぁ…」と溜息を吐いた。少し悩ましそうに頭を抱えている。
「あ、ひどーい!疑ってるでしょ?」
そんなジャッカルの態度に、アニーは腹を立てたふりをする。両頬を膨らますと、腰に手をやり不機嫌そうな顔をした。
「…明日はやる事が沢山あるんだ。悪いが、そろそろ寝かせて貰うよ」
「何時までもこうやって話している訳にはいかない」と思ったジャッカルは、すっくと立ち上がった。
アニーとの会話は悪くはない。寧ろ感謝しているくらいだ。見失った何かを取り戻せた気がする。
しかし、ジャッカルにはやるべき事がごまんとあった。それを放って置く訳にはいかない。
「あ、なら、向こうの部屋のベッドを使ってください。死んだ母のですけど。縁起悪いですかね?」
「そんな事はないさ」
アニーの心配りは嬉しいが、我儘を言える身分ではない。ジャッカルは瞳を閉じると首を横に振った。
「…こんなに人と話したのは久しぶりです。楽しかった…」
「各言う私も、こんなに話したのは久々だ」
「あはは…、じゃあ私達って似た者同士ですね」
アニーの言葉に、思わず苦笑いをするジャッカル。確かにIDが無い事と他人と喋る機会が少ない事は同じと言えるが、其処に至った経緯がまるで違う。
他人と喋らない事が、自分にとって良い方向に働くジャッカルと淋しさを感じているアニーとでは、そういう観点からも、全く異なっているのである。
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさ~い」
リビングと廊下隔てている薄っぺらいドアを閉めると、ジャッカルはアニーの言っていた亡き母の部屋へと足を運んだ。足を踏み出す度にギシギシと床が軋む。如何やら、この建物全体は外見同様にかなりの老朽化が進んでいるらしい。
廊下の突き当たりのドアを開けると、ジャッカルは部屋に入った。中には古ぼけたベッドだけがポツンと置かれている。部屋の隅に荷物を置くと、ジャッカルはベッドに横たわった。
「似た者同士、か…」
仰向けになるとジャッカルは小さく呟いた。今宵は満月、窓から射し込む月の明かりが眩しい。月に向かってかざした手を見つめると、数多の者の血で染まった掌は微かに震えていた。
「違うさ…。根本的にな…」
ジャッカルはゆっくり手を下ろすと、光を拒む様に目を瞑った。




