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薄暗く狭い小部屋の中で若い男が一人、何やら小難しい顔をしている。
黒い髪に黒い瞳。キチンと短めに纏めた髪型と眼鏡を掛けたその容姿は、真面目な新人のサラリーマンを連想させた。着ているスーツも何処となくぎこちない感じに見える。
男の手には理科の実験で使う様なスポイトが握られていた。中には何やら怪しい無色透明の液体が詰まっている。輝く男の眼光の先には男性用の下着。誰の目から見ても異様な光景だ。
――ポトリ――
震える男の指先に呼応するかの様に、スポイトから一滴の雫が零れ落ちる。すると、白色であった下着が、雫が落ちた部分だけ鮮やかな赤色に染まっていった。
「陽性、陽性、陽性ぃぃぃ~♪」
男は下着の色の変化を見届けると、突然大声で叫びだす。恥ずかしげもなくはしゃぎ回る様は、まるで小さな子供の様だ。
「ギャーギャーうるせーぞ!令司ぃ!」
余りの騒音に堪え切れなくなったのだろうか、他の部屋から恰幅の良い初老の男性が大声で怒鳴り込んできた。
白髪混じりの短髪に、如何にも強情そうな太い眉。彼の名前は朱月恵一。此処、朱月探偵事務所のオーナーである。
「見てくださいよ!叔父さん!証拠の写真と組み合わせれば、完璧に浮気成立!これで絶対、旦那は黒ですよ!」
男性用の下着を両手に掲げ、恵一の顔の前に突き出す若い男。恵一は汚らしそうな下着から顔を遠ざけるかの様に、迷惑そうな顔で男の腕を振り払った。
彼は朱月令司といい、朱月探偵事務所唯一のメンバーである。留年に留年を重ね、大学を卒業するのに八年も要した令司を雇ってくれる企業は、勿論存在しなかった。その為、甥である令司を叔父である恵一が仕方なく探偵見習いとして雇う事になったのである。
「全く、こういう他人が不幸の時だけは嬉しそうな顔しやがって!一体、誰に似てこんなにひん曲がっちまったのかねぇ…」
恵一は「はぁ…」と一回溜息を吐くと、恨めしそうな顔で令司を見つめ、思わず弱音を漏らした。
何せ、令司は遣る事為す事失敗ばかり。おまけに仕事が遅いときている。
甥を預かる叔父としては、何とも遣り切れない日々を送っていた。幾ら面倒を見ようという気になっても、この性格の悪さではへこたれそうになるのも無理はない。
しかし、厄介な事に令司は恵一と違い、全くへこたれないのである。普通の人間は失敗をすれば大抵落ち込むものだが、令司は懲りない様子でヘラヘラと笑っているだけであった。
まぁ、図太いと言えば良い方に捉える事も出来るのだが、それは能力が伴ってから言える事であり、未熟者ならば単に鈍感なだけと解釈した方がしっくりと来るだろう。
――ジリリリリ…――
いつも通りの下らない遣り取りの最中に、電話の鳴る音がリビングから響いてきた。
普段ならこのまま言い争いが続き、何時の間にか夜になっている事も少なくない。今日は珍しく忙しい日の様である。
恵一はリビングの自分の机の前まで小走りで戻っていった。
「ハイ。朱月探偵事務所です」
乱雑に書類が重なっている所為で埋もれていた電話の受話器を取り上げると、無表情で事務的な対応をする恵一。電話の主は品の良い感じのする老婆であった。
「あの…、孫の飼っている猫が逃げ出してしまいまして…」
受話器の向こうからは、老婆の声と共に微かに子供の泣き声が聞こえる。如何やら、人探しならぬ猫探しの依頼の様だ。
「分かりました。貴方の住所と猫の特徴を教えてください」
普通の探偵事務所ならこの手の類の依頼は受けない。余りにも子供地味ているからである。
それは、朱月探偵事務所でも同じ事であったが、最近は依頼が少なく、明日食べる金にも困る始末であった。その為、恵一はアッサリと依頼を承諾する。『武士は食わねど高楊枝』とか言っている余裕は無い。
「おい!令司!仕事だ!今度は活躍して貰うからな!」
「⁉︎」
思いがけない恵一の言葉に令司は驚きを隠せなかったが、今回の依頼を任された事の方が嬉しかった様だ。すぐに口の両端を吊り上げると、にんまりと笑った。
「そうと決まれば、早く行きましょう!」
そう言いながら、令司は勢い良く事務所のドアを開いた。それに吊られて恵一も「やれやれ…」といった感じで、渋々と外出の身仕度を始める。最近は浮気調査等が多く完全な夜型になっており、昼からの活動は久しぶりだ。
こうして二人は太陽が照らす町へと、久々に繰り出していくのだった…。




