第11話
「俺、本当はだまされたんじゃ無いかって思ってたんだ」
「え?」
実は武蔵は、龍神の涙の御利益に懐疑的だった。
手に入れた時は、これで自分の人生が良い方向に進むと喜んでいた。
「だって、ここに来るまでに散々な目に遭ったからな」
「……あ~~……え~~っと……」
「まず、いきなり不審がられて奉行所に連れて行かれたからな」
龍神の涙を手に入れた武蔵は、まず子供に出会った。
そして、子供を殺すと勘違いされて見知らぬ男性から命乞いをされた。
どうしようかと迷っていたら、奉行所に連行されてしまった。
「で、誤解が解けたら今度はハズレの依頼をつかまされるだろ?」
解放された武蔵は、役人にそそのかされて『源吾郎退治』の依頼を引き受ける。
だがこの依頼、今で何人もの侍が挑戦した手垢のついた依頼だったのだ。
手垢のついた依頼と言うことは、うまみの少ない依頼と言うことだ。
「だからこんなお守り、本当は効果無いんじゃ?って思ってたんだ」
「……え~~っと、武蔵殿。それは……」
「でも、薫ほどの剣豪がそう言うなら俺の気のせいだな!」
薫は自分が軽率な判断をしたと、心の中で後悔していた。
武蔵がお守りの力を信じているなら、それを否定するのは野暮だと思っていた。
だが武蔵は、お守りの力を疑い始めていたのだ。
つまり、薫は余計な事を言ったばかりに武蔵の疑念を払拭してしまったのだ。
「……はい!間違いありません!!」
この状況になってしまっては、もはや薫に訂正する事なんてできなかった。
吐いた唾は飲めない。
薫に出来るのは、本当に武蔵に良いことが起こるのを祈ることだけだった。
「何か声がうわずってなかったか?」
「気のせいで御座る!ささ、行きましょう!!」
武蔵を押す薫の手に力が入った。
変な汗をかいている薫は、顔を見られまいとグイグイ武蔵を押した。
薫はこの時、今後は嘘をつくときは細心の注意を払おうと決心した。
「お、おい!そんなに押すなよ!!」
「早く行かねば日が暮れてしまいますぞ!?」
薫はその後も、必死に武蔵を押し続け昼前には予定の距離を歩いてしまった。
幸い、武蔵が詠んだとおり山には妖怪の罠なんて無かったのだ。
「……ハァ……ハァ……」
「……フゥ……フゥ……」
武蔵と薫は歩き疲れて、小高い山の頂上でへばってしまった。
太陽はちょうど南中したところで、昼時を告げている。
「薫はいつもこんなに歩くのか?」
「……い、いえ!今日は少し急ぎたかったで御座るよ!!」
薫が急ぎたかったのは、武蔵に顔を見られたくなかったからだ。
自分がついた嘘のせいで、状況がややこしくなってしまった。
そう思うと、自然と変な汗が噴き出して来たのだ。
「急ぐにも限度があるだろ?顔色まで悪くなって」
「は……はは……」
結局顔を見られてしまったが、歩き続けたせいだと勘違いしてもらえた。
薫は引きつった笑顔を浮かべて、必死にごまかした。
「まぁ、良いや。ちょうど良いし飯にしよう」
「そうで御座るな!拙者、何か食べられそうな物が無いか探してくるで御座るよ!!」
そう言うや否や、薫はそそくさと姿を消してしまった。
あの場にとどまれば、ボロが出て嘘がバレそうな気がしたからだ。
「何だったんだ?変な奴」
武蔵は挙動不審な薫の背中をしばし見つめていたが、やがて荷物に目を移した。
薫の動向よりも、今は昼飯の方が先決だからだ。
「きっと腹でも痛いんだろ?」
武蔵は薫が用を足したいのだと、勝手に解釈した。
顔色が悪いのも、きっと我慢していたからに違いない。そう思った。
「……はぁ……」
一方、薫はこれからどんな顔をして武蔵と接するべきか悩んでいた。
薫としては、武蔵の機嫌をとるつもりで嘘をついたのだ。
ところがそれが大きな間違いで、真実を述べても問題なかったのだ。
「こうなっては、覚悟を決めるしかあるまい」
薫は、武蔵に嘘を突き通す覚悟を決めた。
武蔵が持っているお守りは、霊験あらたかで御利益がある物だと言う嘘を。
「信じる者は救われるとも言うし……」
薫は自信に言い聞かせるようにつぶやくと、頬を両手で叩いた。
ヒリヒリする頬が、これは夢でも幻でも無い現実なのだと教えてくれた。
「よし!戻ろう!!」
薫がそう決心した時、身体に変化があった。
ずっと緊張の糸が切れたせいで、もよおしてしまったのだ。
「……誰も、居ない?」
用を足したくなった薫は、過剰なまでに注意深く周囲の様子を探った。
服を脱いだところを妖怪に襲われたら、一環の終わりだと言うのもある。
だが薫の場合、生きている人間にも遭いたくなかった。
「少し、奥の方で……」
薫は誰にも見つからないように、森の奥へと進んでしまった。
こんな鬱蒼と木々が茂った山や森で、仲間と離れるのは危険だ。
だが、薫はその危険を冒してでも武蔵と離れたかったのだ。
「……しかし薫の奴、なかなか帰ってこないな?」
武蔵はその辺で捉えた山鳥を鍋に放り込みながら、薫を心配していた。
彼は、薫がおなかが痛くてどこか草葉の陰にでも行ったと思っていた。
だが例えそうだったとしても、時間がかかりすぎている。
「もしかして、何かあったとか?」
この山には、源吾郎の罠は張ってないようだ。
だがそれでも、いくらかの妖怪が闊歩しているのは昨日目で確かめた。
薫が不意を妖怪に襲われる可能性は十分にある。
「ただうんこが長引いてるだけなら、それで良いんだけど」
武蔵は火から鍋を外して、鍋に蓋をすると薫を探しに出た。
昨日出会ったばかりの相手だが、死なれると後味が悪かった。
武蔵は薫が消えた方向へと向かうと、人の痕跡をたどり始めた。
「結構、急いで奥に進んでるな。そんなに漏れそうだったのか?」
武蔵はデリカシーの欠片も無いことを考えながら、薫を追跡した。
薫の後を追うのは、これで二回目だから薫の歩き方は大体分かっている。
「なんかドンドン奥に入っていくぞ?見られたくないのか?」
薫の痕跡は、森の奥へと続いていく。
これはマズいかも知れないと、武蔵はようやく危機感を持った。
「たかがうんこのために、どこまで行くつもりなんだよ!?」
武蔵は空きっ腹を抱えたまま、薫を追って森へと消えた。
その頃、薫はと言うと
「……はぁ……」
用事が終わった薫は、服を正そうとしていた。
だが、そんな薫を見つめる目があった。
「っ!?誰だ!!?」
「……」
薫をものも言わずに見つめていたその存在は、なんて事は無い鹿だった。。
大きさからすると、去年に生まれた若い鹿だろう。
「何だ。鹿か」
「……」
薫は、自分を見つめていたのが野生の鹿だと知って安心した。
こんな山の中で、妖怪に出くわしたら非常に厄介だからだ。
「……」
「……そんなに見つめないでもらえないか?」
薫は自分を熱心に見つめる鹿に対して、いささか居心地の悪さを感じた。
人間にはこんな姿、絶対に見られたくないが鹿でも少しは気になった。
「……っ!?」
すると突如として鹿が周囲を警戒し始め、走って逃げてしまった。
薫は鹿が何を警戒して逃げ出したのか、いまいち分からなかった。
「この山には熊は出ないと麓の方はおっしゃってたが?」
熊では無い何かに鹿はおびえて逃げた。
考えられるのは、人間かオオカミの類いかあるいは……
「まさかっ!?」
その考えに至った瞬間、薫の背筋に冷たい汗が噴き出した。
風上から、微かにだが肉の腐った臭いが流れて来ているからだ。
「マズいっ!急がねば!!」
薫は大急ぎで脚絆やら何やらを身につけ始めた。
半裸同然のこんな格好で妖怪と戦うなんて、出来ないからだ。
「やっぱり、少しは妖怪が居るみたいだな?」
その頃、武蔵は刀についた腐った血を拭き取りながら横たわる死体を見ていた。
森の奥に進むにつれて、妖怪がちらほらと姿を見せ始めた。
「薫の野郎、妖怪に襲われたりしてないだろうな?」
薫の痕跡はまだ続いていて、本人の姿はまだ見えない。
佐々木一刀流の後継者でも、寝込みや用を足している時を襲われたら危ない。
武蔵には、半裸の状態で戦う情けない薫の姿が想像された。
「……何のために、アイツこんな奥まで行ってんだよ!?」
武蔵は悪態をつきながらも、薫の追跡を再開した。