二日目の悲劇(2)
悲鳴をあげると同時にフロルは桶をひっくり返した。限りなく熱湯に近いお湯がフロルの両手のひらを直撃した。
だけどそのせいで、フロルがお湯をこぼして火傷をしたから悲鳴をあげた。とユリウスは認識したようだ。
「フロレント!」
と叫んで立ち上がり駆け寄って来たのだ。
火傷の痛みと心理的ショックと恥ずかしさでフロルはその場でうずくまって顔を下に向けた。「こっち来ないで!」と叫びたいけれどまさか叫ぶわけにはいかない。しゃがんだ姿勢のままずりずりとフェードアウトしようとするが、そこでユリウスに両手首をがしっとつかまれた。
「大丈夫か⁉︎」
と言って、ユリウスがフロルの両手を確認する。お願い、近寄らないで。私を海に返してあげて!
あやうく意味不明なセリフを叫びそうになった。
「来い!」
と叫んで、ユリウスはフロルを風呂場の外に引きずり出した。フロルを井戸の側に連れて行き自らポンプを上下させて水を出す。その水でフロルの両手を冷やした。
さすがに風呂を出るにあたってユリウスも腰にタオルだけは巻いている。しかし、今は粉雪舞う真冬なのだ。こんな格好ではユリウスが風邪をひくだろう。申し訳なくてたまらないが、自分に対する情けなさと火傷の痛みで涙がぼろぼろこぼれて止まらなかった。
「大丈夫だ。そんなにひどい火傷じゃない。大丈夫だ。」
と言って、ユリウスがうずくまったフロルの背中をさすってくれる。見ようによっては、ギャン泣きしているフロルがユリウスに抱きしめられているように見えるかもしれない。
・・いや、たぶん見えたのだ。
「フロルに何してんのよあんたーーっ!」
という大声が響き渡り、コンマ1秒後、突然現れたリーリアがユリウスの顔をグーで殴りつけた。
一時間後。
新緑騎士団、団舎内で全体集会が行われていた。
雰囲気は、はっきり言って魔女裁判だった。いや、本物の魔女裁判なんかフロルは見た事ないけれど。きっと、これくらい人を居た堪れない気持ちにするものに違いない。とフロルは思った。リーリアとユリウスの両人が被告である。
「なるほど、事情はだいたい把握した。」
と団長の側で、発言を書類に書き留めていたアレクが言った。長い指でペンを走らせながら話を聞いていたが、途中からずっとその指が震えていた。アレクは明らかに笑いを噛み殺していた。
「フロルがお湯の入った桶をひっくり返して火傷をしたので、ユーリが井戸の水で冷やしてあげていた。その間フロルがずっと泣いていて、それを偶然見たリーリア嬢が誤解をしてユーリを殴りつけた。という事なのだな。」
自他共に認める『できる男』のアレクは、要点と真実を数分で把握していた。そんなアレクの前でリーリアは不貞腐れた顔をしており、ユリウスは真っ青な顔をして、額に青筋を浮かべていた。年下の女性に殴られた事以上に、性犯罪者と誤解された事が屈辱だったようだ。
ユリウスの左こめかみ周辺は、既にブドウ色のアザが広がっており、痛々しすぎてフロルは直視する事ができない。
リーリアが不貞腐れているのは、姉のローザに散々罵られたからだ。ローザとユリウスは仲が悪いはずなのに、今回ばかりはやたらローザはユリウスの肩を持ってリーリアの事を罵倒しまくっていた。フロルも普段ならリーリアの味方をするところだが、今回ばかりはローザの言う事にも一理あると思う。理由も弁解も聞かずにいきなり人を殴って良いわけがない。しかもグーで。
「私が悪かったわ。」
とリーリアは一応罪を認めた。
「だから、おとなしく罰は受けるわ。レーステーゼ卿。私の事一発殴ってもいいわよ。さあ、どうぞ。さあ、さあ、さあ!」
そう言ってリーリアはずずいと、胸を張った。ユリウスの眉間のシワがますます深くなる。
「別にいい。」
怒りでかすれた声でユリウスは言った。
「別にいい・・いいんだが、だが、貴様は金輪際騎士団の団舎中に立ち入り禁・・・・。」
「いや、駄目だ。」
突然、マクシミリアンが割って入って来た。
「リーリア嬢のやった事は、明らかに理不尽な暴力だ。『目には目を』と古代メソポタミアの人も言っている。ユリウスは罪も無く殴られたのだから、リーリア嬢も殴られるべきだ。」
そう言って、リーリアに近づきリーリアの頬をぶった。ただしパーで。
パァン!
と、冬の乾燥した空気に乾いた音が響き渡ったが、大きな音がしたわりに痛そうではなかった。
マクシミリアンも普段から体を鍛えている騎士だ。全力でリーリアを殴ったらリーリアは吹っ飛んだ事だろう。だけどリーリアは1ミリもよろけなかった。それはリーリアの体幹が強いからじゃない。マクシミリアンが手を抜いてリーリアを殴ったからだ。
これでは、とても『目には目を』というわけにはいかないだろう。ユリウスはフルパワーで殴られて白皙の美貌に痛々しいあざを作っているのである。
マクシミリアンの突然の行動に、全騎士団員が驚いていたが一番驚いたのはリーリアのようだ。
一瞬、呆然とした顔をしてそれから泣きそうな顔になった後、きっ!とマクシミリアンを睨んだ。
「ユーリ。これでいいよね。」
リーリアから目をそらしながらマクシミリアンが言った。ユリウスは明らかに不満そうだったが、結局絞り出すような声で
「ああ。」
と言った。
心の狭い人なら「いいわけあるかー。もう一発自分に殴らせろ!」と言ったかもしれないが、ユリウスはそんな事は言わなかった。
マクシミリアンが話を終わらせてしまって、一番不満そうなのはローザである。
「こんな騒ぎを起こして姉として恥ずかしいわ。」
とさっきから10回くらい言っているが、更に
「リーリアは、出入り禁止にさせるべきよ。」
とさっきユリウスが言おうとしてマクシミリアンが遮った事を言い出した。
「いや、リーリア嬢にはしばらくここに通ってもらって、手を怪我したフロルの補助をしてもらうべきだ。フロルもしばらくは仕事ができないだろうから。」
とマクシミリアンがぴしゃっと言う。
「わかりました。」
とリーリアは不貞腐れた表情のまま言った。
「では、解散。」
と団長が言った。
誰よりも早くユリウスが身をひるがえして、その場から出て行く。マクシミリアンも出て行き「待ってよお、マクス。」と言いながらローザがその後を追った。
フロルはクッキーの入った缶を持ったまま肩を落とした。
もはやユリウスからの好感度は落ちるところまで落ちた事であろう。今後、上昇する日が来るとはとても思えない。辛い・・。
フロルは大きなため息をついた。
今手に持っているクッキー缶は、ウィンクラー夫人が「新緑騎士団の第一隊の皆様に渡しなさい」と言って用意してくれていた賄賂だった。
だけど、フロルはそれを持って帰る事を忘れていた。それで、リーリアが届けに来てくれて、挙句こんな騒ぎになったのだ。
私がちゃんとクッキー缶を持って帰っていればこんな悲劇は起こらなかった。
もうとても渡せないクッキー缶を手にしたままフロルはまた、ため息をついた。




