明日のスケジュール
フロルの絶叫に、ウィンクラー氏、ルーカス、クリスが部屋に飛び込んで来た。ウィンクラー夫人にしがみついたまま腰をぬかしているフロルの名を、口々に叫びつつ駆け寄って来る。
「どうされました、フロル様!」
「何があったんです?」
ウィンクラー夫人が苦りきった顔で天井を指差す。でっかいクモでもいたのだろうか?と思って上を見た三人は絶句した。そこには、巨大で華麗な天井画があったのだが・・・。
「古代ギリシャのオリンピア競技ですな。」
そのとおり。
そこに描かれていたのはオリンピア競技のうちの三種。マラソン、槍投げ、レスリングをしている男達の絵だったのである。それはひっじょーにリアルな絵であった。人間の腕が細すぎたり、足が長すぎたり、目が顔からはみ出しているような抽象的な絵ではなく、人の姿がそのまま正直に描かれた、等身大の絵であった。
そのオリンピア競技を正確に描いた絵は、全てにおいて正確であったと言える。競技をしている男達は、古代オリンピアのルールのとおり全裸で競技をしていたのである。
「うっわあー。レスリング、超リアル。」
クリスがそう呟くと、「じっくり見るなー!」とルーカスが顔を真っ赤にしながら怒鳴った。
「私、こんな部屋で眠れません!」
負けないくらいフロルも、顔を真っ赤にして叫んだ。
まったく、なんて館だ!外から見たら素晴らしい館だが、その内側ときた日には。
ウィンクラー夫人が部屋を出て行き、執事を呼びつける。部屋を変えろという申し出自体に、執事は特に不満はなさそうだったが、亡き伯爵の部屋を使わせろと言ったところ、はっきりと拒絶された。
「女主人が、館の主人の部屋を使用するなどという事は、伯爵家の歴史上一度も無かった事です。決して許可などできません。そのような厚かましい事を要求してくるなど、いかにもあの卑しげな女の考えそうな事ですな。」
「お黙り!おまえに許可をもらう必要はありません。ここはフロル様の館です。おまえの館ではありません。さっさとカギをよこしなさい。」
「傲慢な振る舞いはいい加減になさいませ。使用人が支えていてこその館なのです。先代の伯爵夫人は、常々そうおっしゃってくださっておりました。」
「その通りね。私も全く同じ意見よ。ただ、館を支える使用人はおまえででなくても構わないの。いつまでも亡き伯爵夫人の亡霊にしがみついているような役立たずは目障りなだけ。もはや彼女の道理なんて通じやしない。これからは、フロル様が決める事がグリューネバルトの道理なのです。文句があると言うのなら今すぐ出ておいき。おまえの代わりなんかいくらでもいるのだから!」
執事は青白い顔をもっと青くさせ、怒りで口元を震わせていた。
はっきり言って超怖い。
暴言を吐く人間というものは大抵において言った事を忘れてしまうものだが、言われた人間は絶対に忘れないからなー。
何か報復を後日くらわなければよいのだが・・・。
まあ、しかし、ウィンクラー夫人が怒鳴ってくれたおかげで、フロルは亡き伯爵の部屋を自分の部屋とする事ができたのだった。
そんなこんなで夜になった。
フロルは亡き父の部屋のベッドに座りぼーっとしていた。
入浴も夕食もすみ、する事もなく部屋の中でぼーっとしていたのである。
夕食の味は決して悪くはなかったと思う。ただ、ウィンクラー夫人が念には念を入れまくった毒味をしていたのですっかり冷めていた。それに、毒殺されるかも・・・と不安に思いながら食べたのでは、どんな高級食材だって美味しいわけがない。
ドアをノックする音がして「はい、どうぞ。」とフロルは返事をした。ウィンクラー夫人が入って来る。ウィンクラー夫婦の部屋は、フロルの部屋の隣なのである。
「明日のスケジュールのご報告です。」
「はい。」
「明日は、王太子妃となられるジゼル、フォン、レーステーゼ様に挨拶に行く事になっています。それと、全く行きたくありませんが、ローゼンリール侯爵夫人の所にも一応挨拶に行かねばなりません。一応、王妃と同等の扱いを受けている女なので。」
「どちらに先に伺うんですか?」
「どちらですって?決まっているじゃありませんか。伯爵令嬢レーステーゼの方です。あんな夫のいる身で姦通を犯し、それを恥とも思っていない下劣な女の機嫌を、誰より先にとってどうするのです。あの恥知らずの姦婦の事は、亡き伯爵様も本っっ当に嫌っておいででした。そんな女の所に、フロイライン、レーステーゼより先にご機嫌伺いに行くなど、絶対、絶対ありえません!」
「はあ。」
そう言ってからフロルはちょっと考えた。
「お土産には何を持って行くんですか?」
「お土産?そんな物持って行きませんよ。自分よりも立場が上の人に贈り物をする事は賄賂につながります。亡き伯爵様は、自分より身分や財力が下の人には贈り物をされましたが、自分より身分が上の人には贈り物は一切されませんでした。」
なるほど。そういうものなのか。人の所へ訪ねて行くのに、手ぶらで行くというのはフロルの感覚では妙な感じがするが、庶民と貴族は違うものなのだろう。
「もっとも、そのように高尚なお考えでいらしたのは亡き伯爵様くらいです。どいつもこいつも、あんなろくでもない女に媚びへつらって、山のように賄賂を贈って。」
「はあ。」
「そのうえ、賄賂を贈ろうとしない伯爵様にねちねちと嫌味を。まあ、伯爵様は、そんな事全然気にしておられませんでしたけどね。伯爵様は決して吝嗇な方ではございませんでしたが、無意味な事には銅貨一枚たりともお使いになられる方ではありませんでした。自分の生活もよく律しておいでで。まあ、一年間の総収入と、一年間で使う額のお金との差でケチ度を計るとしたら、この国一番の〝しみったれ”ではあった事でしょうね。でも、そんな方だったから、大学に奨学金制度を作ったり、新緑騎士団の為にお金をポンと出せたりしたんですよ。」
それもそうである。そして、自分はその福祉制度の恩恵を十分に受けて育ってきたのだ。権力者に賄賂を贈るので、貧しい子供達の教育費や食費が払えないという事になってたら、フロルはとっくに餓死していただろう。
そしてグリューネバルトには、フロル同様貧しい子供達が今でもたくさんいる。今、自分が、権力者に賄賂を渡す為に、その子達を助ける事ができなくなったら、それはとても亡き父に対して恥ずかしい事ではないだろうか。
「わかりました。」
と、フロルは言った。ローゼンリール侯爵夫人とやらに賄賂を渡さなかったら、きっとすごく嫌味を言われるんだろう。でも、そんな事気にすまい。ありがたい事に自分は、いじめられる事だけは、とってもとっても慣れている事なんだし。




