グリューネバルトの館
船から降りたフロルは、しばし目の前の建物を無言で見つめた。
何て優美で上品な建物だろう。小さい頃に読んだ、お姫様が出てくる童話の中のお城のようだ。グリューネバルト領にあった領主様の館は、宮殿というより城砦に近く、美しさより頑丈さに重きが置かれていたのである。
自分は玉の輿に乗ったんだなあ。
と、改めてフロルは思った。こんな所に住める日が自分の人生に来ようとは。
大理石の石畳の上を通ると、広い中庭に出た。冬なので花は咲いてないけれど、噴水やら、ガゼボやら、名称の分からぬアレやらコレやらいろいろあって、とにかく絵に描いたように美しい。フロルは館へと続く、大理石の階段の手すりを手にとった。慌てて手を引っこめる。
手すりにヘビがからまっていたのだ!
フロルの悲鳴は、ギリギリ喉の奥に張りつき、声は外には出なかった。そのヘビが大理石でできた彫刻である事に気がついたからである。
いや、しかし、めっちゃリアルなヘビだな!ウロコの一枚一枚に至るまで、見事に細密に彫られていて、彫刻家の才能と執念を感じる。口からはみ出した先の割れた舌も、前を見据えた目も、その全てが今にも動き出しそうなほどリアルで、その鋭い両眼は、ヘビの前を行く巨大なイボガエルに据えられていた。
フロルはドキっとした。
この階段の手すりは、ヘビやカエル、トカゲにヤモリなど、ありとあらゆる両生類や爬虫類の彫刻で埋め尽くされていた。それらの生き物は皆一心に、手すりの上を目指して歩いている。階段の一番上、手すりの終点には大きな剣を持った天使の彫刻があり、手すり上の生き物を遮っている。ああ、この天使は天国の番人で、宗教的に『汚れた』生き物達の侵入を防いでいるんだな。
って、わかったけど、気持ち悪っ!
この彫刻が象徴する、いろいろ裏の意味を感じる偏見もだが、何より、私爬虫類苦手なの!
真夜中、月の下、薄明かりの中で見てしまったら、絶叫モノの彫刻群だった。
フロルは、手すりに手を触れずに階段を登り館へと入った。
ドアの先は巨大なホールだった。ここでパーティーとかするのかもしれない。何となく右を向きフロルは悲鳴を再び飲み込んだ。そこには巨大な熊の剥製があったのである。
こんな物が入ってすぐにあったら、お客さんドびっくりやろ!
コレ見ながら、オホホと笑ってお茶飲んだり、ダンス踊れる⁉︎
せめて熊のぬいぐるみのような、可愛いポーズとか、笑えるポーズとかとっててくれたらまだマシなのに、0、5秒後に人、襲いますみたいな、ファイティングポーズをとっている。大きく開けた口からは、断末魔が聞こえてきそうで、こんな姿で永久保存させられて熊さんも可哀想にと思った。狩りで殺されたかどうかしたのだろうけれど、それなら美味しく食べてあげたら良かったのに。フロルは熊の肉は食べた事無いけれど、熊の手は世界中のあらゆる美食家が絶賛するほど美味だという話だ。
「よくお越しくださいました。フロレンティーナ様。」
前方から声がして、フロルは顔を上げた。そこに一人の中年男性が立っていた。こけた頬。青白い肌。暗い光をたたえた瞳。もしかしたら執事だろうか?今、フロルの右にいる熊さんの、一万分の一も覇気が無い人だ。
「執事のバルトミューでございます。」
フロルはこの人を好きになれないと思った。ただ暗いから、というだけでそう思ったわけではない。言葉にも態度にも『長旅お疲れ様』とか『会えて嬉しいです』という雰囲気を感じさせないからだ。
執事が踵を返して歩き出したので、フロルも一緒に歩き出した。「ふん、暗い男。」と、ウィンクラー夫人が呟くのがフロルの耳にはっきり届いた。
ホールの出口上の壁に、巨大な油絵が飾ってあった。その前で執事が立ち止まったのでフロルも歩みを止めた。それは、戦争の絵だった。見る人が見たら「これは○○の戦いの絵だ。」とわかるのかもしれないが、フロルは歴史にも詳しくないし、戦争にはもっと詳しくない。だから、何でこんな絵を飾っているんだろう?としか思わなかった。こんな物を飾るくらいなら、顔のいい役者のポスターでも飾ればいいのに。
「美しい絵でしょう。」
暗い顔の執事が暗い声で話しかけてくる。
「奥様はことのほか、この絵を大切になさっておられました。」
奥様。とは誰だろう?死んだ自分の実母だろうか?いや、きっと違うな。去年死んだ伯爵の母親、つまり自分のおばあさんだろう。
この絵が父の趣味でなくて良かった。とフロルは思った。戦争はいけない事だ。絶対やったらいけない事なのだ。戦争はかっこいいとか、人をばったばった斬り殺す姿が強くてすてきー、とか思うのは間違っている。だから、こんな死体やら血溜まりやらが生々しい絵が父の好みでなくて良かった、と思った。
「こういう絵はあまり好きではありません。」
とフロルは正直に言った。初対面の相手にはもう少し気をつかってお上手を言うべきかもしれないが、下手に褒めて、気に入ったと勘違いされて、この絵をフロルの私室に持って来られたりしたらフロルは泣く。
フロルの言葉に執事は口元を歪めて冷笑した。
「偉大なる画聖ドン、ハビエルの作品です。その良さが分からぬとは下層のご出自の方は。」
・・・。
うーん。先刻から、なんだか態度が冷たいなぁと思っていたが、気のせいではなかったみたいだ。
フロルは少し考えてみた。
ウィンクラー夫人は、グリューネバルト七大老家の奥様だが、独身の頃は領主様の館で侍女として働いていた。つまり。逆を言えば、七大老家の奥様になってもおかしくないような、名家のお嬢様方が領主様の側でお仕えしているというわけである。
となると、きっとこの執事さんも、執事さんの後ろにいる侍女さん達も、自分よりずーっと『いい家』の人達なんだろうな。まあ、自分より生活レベルの低い人の方がグリューネバルト領では少数派であったが。何てったって、家畜小屋の屋根裏が自宅だったのである。
いろいろ考えているうちに部屋に到着した。
「こちらが、当家の女主人の部屋でございます。」
『あなたの』とか『フロル様の』と言わないところに、女主人の部屋であっておまえの部屋ではない、という心の内を感じた。
それでも一応ドアを開けて中へ入れてくれる。たとえ、中がぐちゃぐちゃに散らかっていたとしても、この流れではびびってはいかんな。
フロルは部屋の中に足を踏み入れた。ウィンクラー夫人だけが、一緒に中に入ってくる。執事がドアを閉めた。
あー、疲れた。そう思いつつ伸びをする。旅の疲れというよりも、この館に足を踏み入れてからの方がこの四日分の10倍疲れた。
・・・・・。
「んっぎゃあああああっ!」
さすがに、悲鳴を押し殺すのは今回は不可能だった。




